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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「……私で、よろしいのですか」
扇子の先を見つめたまま、私は聞いた。
「半東は、亭主の右腕です。お客様の前に出る役目を、家政婦が」
「家政婦だから、いいのよ」
お義母さまは、扇子を下ろした。
「嫁がしくじれば、御影の恥になる。家政婦がしくじっても、家政婦の粗相で済むわ」
それは、私がこの家で何度も聞かされた理屈の、裏返しだった。
嫁の粗相は、家の恥。三年間、私はその言葉の下で生きてきた。
「かしこまりました、大奥様。精いっぱい、務めさせていただきます」
頭を下げながら、私は思った。
この人は、私を試している。
試されているのが凛なのか、澪なのか。この人自身にも、まだわかっていないのかもしれない。
*
七月四日の土曜日は、朝から蒸し暑かった。
丘の下を流れる川で、夜に花火大会がある。
毎年、この家の二階の窓から、遠くの花火が小さく見えた。
「今夜は、取引先のパーティーだから。遅くなる」
夕方、蒼真はタキシードの蝶ネクタイを自分で結びながら言った。
隣で麗奈が、黒いドレスの裾を整えていた。久しぶりに、長い付け爪をつけている。
「グレースの件は、笑い話にしちゃえばいいのよ。みんなの前で、私が明るくしてれば」
麗奈は鏡を見ながら、自分に言い聞かせるように言った。
玄関で靴を履きながら、蒼真が振り返った。
「凛さん。陽翔を頼むよ。あいつ、花火の音が昔から駄目なんだ」
「かしこまりました、旦那様」
知っていたのね、と思った。
知っていて、毎年、花火の夜は外で飲んで帰ってきた。毛布の中で数を数えていたのは、いつも私と陽翔の二人だった。
堂島の黒いセダンが、二人を乗せて坂を下りていった。
お義母さまも、七夕の打ち合わせで、坂上先生の稽古場へ出かけていた。帰りは十時過ぎになると聞いている。
広い家に、私と陽翔だけが残った。
*
夜の八時、最初の一発が鳴った。
どん、と腹に響く音。
窓ガラスが、かすかに震えた。
陽翔の部屋へ行くと、ベッドの上に、毛布の山ができていた。
「坊ちゃん」
毛布の山が、びくりと動いた。
「……りんさん?」
「はい」
どん。
また音がして、毛布の中から、小さな手がぴょんたの耳をつかむのが見えた。
陽翔は、昔から大きな音が苦手だった。
雷の夜は、私のベッドにもぐりこんできた。花火の夜は、二人で窓から離れて、毛布の中で数を数えた。
私は、ベッドの端に腰を下ろした。
何も言わなかった。ただ、毛布の山の隣に座っていた。
どん、どん、と続けて鳴った。
毛布の中から、小さな声が聞こえてきた。
「ねんねの……ふねは……」
息が止まった。
「ぎいこ……ぎい……」
陽翔が、歌っていた。
震える声で、自分で自分を寝かしつけるように。
私の母が、私のために作った歌。
私が、毎晩この子に歌った歌。
この子は、一人の夜に、ずっとこれを歌ってきたのだろうか。
ママのいない夜に、毛布の中で。
「あさの……みなとで……」
唇が、勝手に動いていた。
声は、出さなかった。
出さなかったつもりだった。それでも、唇が、陽翔の歌に一拍遅れて、ついていった。
――まってるよ。
毛布の端が、めくれた。
陽翔の大きな黒い目が、私を見上げていた。
私の口元を、まっすぐに。
私は唇を閉じた。
ねんねの舟を、歌わない。
四月の終わりに、トキさんの家の七輪で燃やした紙に、私は自分の手でそう書いた。
声に出さなければ、歌ったことにはならない。そう言い聞かせても、唇の形は、もう陽翔に見られていた。
どん、と音が鳴った。
陽翔は、また毛布の中に顔を引っこめた。
*
勝手口の戸が、二度叩かれた。
開けると、榊さんがムギのリードを持って立っていた。
シャツの袖をまくり、眼鏡に、遠い花火の色が小さく映っていた。
「ムギが、音で落ち着かない。……坊ちゃんも、そうかと思って」
榊さんの足元で、ムギが鼻を鳴らした。
「家の者は、みんな出かけているでしょう。堂島の車も、ない」
知っていたのだ。
今夜、この家に誰がいないのか。
「離れの縁側からなら、花火がよく見えます。音も、母屋の二階よりは遠い」
私は、階段の上を振り返った。
毛布にくるまった陽翔が、ぴょんたを抱いて、踊り場まで下りてきていた。
「ムギ」
陽翔の声に、ムギが尻尾を振った。
*
離れの縁側に、三人と一匹で座った。
陽翔は、毛布にくるまったまま、ムギの背中に頬をくっつけていた。
ムギは、じっと動かずに、陽翔の重みを受け止めていた。
丘の下の川の上で、光の花が開いた。
音は、少し遅れて届いた。
離れの屋根の下で聞くと、遠い太鼓のようだった。
「……おおきい」
陽翔が、毛布の隙間からつぶやいた。
「赤いの、おおきい」
「次は、緑かもしれませんよ」
私が言うと、次の花火は、本当に緑だった。
「りんさん、すごい」
陽翔が、毛布から顔を半分出した。
目が、花火の光で光っていた。
榊さんは、私の向こう側に座っていた。
長い脚を縁側から下ろし、黙って空を見ていた。
「おじさん、だれ?」
陽翔が、毛布の中から榊さんを見上げた。
離れのおじさん、とだけ、この子は聞かされているはずだった。
榊さんは、少し考える顔をした。
「ムギの、いまの飼い主だ」
「ムギの」
「それから、君のお父さんの、兄だ」
陽翔は、目をぱちぱちさせた。
「パパの、おにいちゃん?」
「そうだ」
「……パパと、ぜんぜん似てない」
榊さんの口の端が、ほんの少しだけ動いた。
「よく言われる」
ムギが、陽翔の頬をべろりとなめた。
「わ、つめたい」
陽翔が、くすぐったそうに肩をすくめた。
ムギはやめずに、二度、三度となめる。陽翔が、声を上げて笑った。
この子が、声を上げて笑うのを聞いたのは、この家に戻ってきて初めてだった。
私も、笑っていた。
喉が引きつって、咳になった。
口元を手袋で押さえても、笑いは止まらなかった。
花火が、また上がった。
金色の、枝垂れる花火だった。
光の糸が、ゆっくりと川面へ落ちていく。
「あなたは」
すぐ横で、低い声がした。
陽翔には聞こえない高さだった。
榊さんは、空を見たままだった。
「笑うと、目尻に皺が寄る」
金色の光が、彼の眼鏡のレンズの上を流れていった。
「……前と、同じだ」
前。
三年前の雨の勝手口で、私は一度だけ、この人に笑いかけた。
傘を差し出して、「風邪をひかないでくださいね」と。それきり、この人の顔を、ちゃんと見ることもなかった。
あの一度を、この人は覚えていた。
顔は、作り直された。
目の形も、鼻も、頬の骨も、もう私のものではない。
それでも、笑ったときに皺の寄る場所だけは、同じだと言うのだ。
私は、返事ができなかった。
膝の上で、手袋の指を握りしめた。
縁側の板の上で、榊さんの手が、私の手のすぐ隣にあった。
触れては、いなかった。指一本ぶんの隙間が、花火が上がるたびに、白く照らされた。
家族みたいだ、と思った。
思ってはいけないことだった。
*
九時半に、最後の花火が上がった。
陽翔は、いつのまにか、毛布ごと私の膝に寄りかかっていた。
ぴょんたを胸に抱いて、まぶたが半分落ちている。
「お部屋に戻りましょう、坊ちゃん」
私は陽翔を抱き上げた。
重くなった。最後に抱いた夜より、ずっと。
榊さんが、黙って縁側の毛布をたたみ、私の腕に掛けてくれた。
「十時前に、母屋の戸を閉めてください。義母の車が坂を上ってくる」
「はい」
離れの小径を、陽翔を抱いて歩いた。
背中で、ムギが小さく鼻を鳴らした。
陽翔の息が、私の首のスカーフに温かくかかっていた。
眠ったのだと思った。
「……りんさん」
耳元で、眠りかけの声がした。
「なんで、その歌、知ってるの」
コメント
1件
第27話、読み終わりました。花火の音が怖い陽翔くんと、毛布の中で「ねんねの舟」を歌う場面が、胸にぎゅっと来ました……。あの歌のことを陽翔が覚えていて、しかも一人の夜に自分で自分を寝かしつけるように歌っていたんだと思うと、切なくて。最後の「なんで、その歌、知ってるの」で、ああ、この子はちゃんと気づいているんだな、と。榊さんの「笑うと目尻に皺が寄る」という台詞も、三年前のたった一度の笑顔を覚えているなんて、素敵な細やかさでした。家族みたいだ、と思ってはいけない、という一文が、この関係性の危うさと儚さを表していて、何度も噛み締めています。素敵な夜の話をありがとうございました。