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午前8時半。

鈴森商事専務秘書室。


「おはよう」

「おはようございます」


早くから出勤していた小熊が麗子を迎えてくれた。


「今日は専務が不在ですから、ゆっくり出勤すればよかったのに」


勤務開始より30分ほど早く現れた麗子に、真面目ですねと笑ってみせる。

そう言っている小熊くんの方がもっと早くから来ているじゃない。と思ったけれど、これは言わないでおこう。


「専務は週末まで出張だから、その間に引き継ぎを進めましょうね」

「はい」


元気に返事をする声は、6歳年下の若者らしいもの。

正直、初めて小熊を秘書課にと聞かされたときには不安もあった。

営業に入って2年のまだ新人でもあるし、明るく元気な分落ち着きというか冷静な対応が苦手なようにも思えた。

しかし、当時は社内のゴタゴタもあった時期で麗子が口を挟めるような状況ではなかった。


「青井さん、急ぎの仕事はないんですから少しはゆっくりしてください」


バタバタとデスク周りの片付けを始めた麗子に小熊が言うけれど、彼は既に仕事を開始し書類の山と戦っている。


「自分だって、随分早くからきたんでしょ?」


2人分入れたコーヒーの一つをデスクに置いた麗子。


「まあ、これでも焦っていますから」

「そお?」

.

いつも飄々としている小熊からは、焦りなんて感じられない。

***


孝太郎と麗子の結婚まであと2ヶ月。

5年も付き合って今さらやっとという声もあるけれど、当人から見れば不安はつきない。

結婚って、特に女性にとっては人生を左右する大きな岐路なんだから。


もともと麗子は、結婚しても家庭に入るつもりはなかった。

かといって仕事に生きるつもりもない。

10代から20代前半にかけてうまく社会になじめなかった分、今出来ることは何でもしたいという思いが強い。

1日数時間の仕事を続けながら子供を育て旦那さんの帰りを待つ、そんな普通の主婦を望んだ。

しかし、相手が孝太郎ではそれも簡単な話ではない。


「結婚準備って大変なんじゃないんですか?」

パソコンに向かう手を休め、コーヒーを一口飲んだ小熊が麗子を見る。


「そうね、一大イベントだからね」


「確かに、かなり騒がれてますね」


そうなのよ。

鈴森商事は4代続く総合商社。

代々鈴木家の直系が社長を務めていて、もうすぐ孝太郎が5代目の社長となる。

まだ33歳の若さと世襲制の是非から、社長就任が発表されたときには随分騒がれた。

それに、


「浅井コンツェルンのこともありますし、世間的には良いワイドショーネタですよね」


小熊の言葉を聞いて、思わず麗子は目を丸くしてしまった。

***


確かに、今孝太郎が騒がれている原因は上場企業である鈴森商事を若くして引き継ぐイケメン御曹司としての話題性だけではない。

2年前に起きた鈴森商事と日本のトップ財閥浅井コンツェルンとを巡る騒動がまだ尾を引いているからに違いない。


いきなり仕掛けられた浅井コンツェルンから鈴森商事に対するの攻撃と、浅井コンツェルンの一人息子鷹文と孝太郎の妹一華の急な結婚。

何も知らない人から見れば、『一体何があったの?』って気になることだろう。

でもね、ここは職場で、色々な人の立場が絡み合った話題である以上、簡単に口にするべきではない。

この子はここがどこかわかって言っているんだろうか?


「小熊くん、間違っても専務の前では言わないでね。今度は1週間無視されたくらいじゃすまないわよ」

「はい、わかってます」


本当かなあ。


結婚のために一旦退職することになった麗子の後任に秘書課へ異動して1年ほどの小熊が選ばれた。

覚えも早いし、機転も利くし、秘書としての資質には文句ないけれど、この性格がねえ・・・・

実際、引き継ぎを初めてすぐの頃には何度か専務を怒らせてしまいその度に仕事を回してもらえなくなった。

孝太郎も仕事には厳しいからしかたがないとは思うけれど・・・


「小熊くん、あと1ヶ月で私はいなくなるんだから、しっかりお願いね」

「わかってますから」


この返事が一番心配なんだって。

***


孝太郎の秘書として勤務してからもう5年。

付き合うようになっても同じくらいの時間がたった。

結婚を意識するようになってからも随分久しい。

ゆっくりと時間をかけて2人の将来を描いてきたから、自分の選択に後悔はない。

間違っても『妻は家庭に入って夫と子供を守るものだ』ってお母様の信念に影響されて退社を決めたわけではない。

今無理をして会社に残っても、出産や育児、病気や家族の介護で仕事が出来ない日が来るかもしれない。

その時急に辞めるくらいなら、社長就任のこのタイミングできちんと引き継ぎをしておきたいと思った。

それに、社長になって今まで以上に忙しくなる孝太郎のために帰る家を作ってあげたかった。

でもねぇ・・・


「いくら頑張っても麗子さんのようにはなれませんし、香山さんのように頭が切れるわけでもありませんから、やれるだけのことをするしかありません」


いかにも若者らしい答え。

しかし、そんなことばかりも言っていられない。

若くして鈴森商事を継ぐ孝太郎は何よりも結果を求められる。

いくら頑張っても結果が伴わなければ、正当な評価は受けられないだろう。

だからかな、小熊は少し甘い気がする。

***


「麗子さん、データの整理終わりました」


午前中では終わらないだろうと思って渡した仕事を、小熊はあっという間に片づけてしまった。

大学で情報工学を専攻した麗子よりも仕事が早くて、その上ミスもない。

多少一般常識に欠けるところはあるけれど、それは若さ故で教えればきちんと学習してくれる。

やっぱり出来る子なのよねえ。


「じゃあ、あとは午後にして休憩にしましょう」

「はい。そうだ、麗子さんお昼はどうします?」

「うーん、そうねえ」


ここ最近はお弁当持参か、買ってきてデスクで食べることが増えている。

社食に行けば人目が気になるし、なるべく目立たないようにする癖がついてしまって・・・


「何か買ってきましょうか?」

すでに財布を手に立ち上がった小熊。


「今日はいいわ。最近、胃もたれが酷いの」


食欲がないわけではないけれど、食べてしばらくすると吐き気がして戻してしまうことが多い。

食後の胃もたれを考えると不安になってつい食事をセーブしてしまう。


「大丈夫ですか?病院へ行った方がいいですよ」

「うん。今度の休みにでも行ってみるわ」


結婚前の女性がこんな症状を訴えれば、多くの人は『妊娠?』と思うだろう。

でも、麗子はそうではない確証がある。

だって、麗子の月のものの周期はきっかり28日。酷いときや軽いときの違いはあっても、周期は狂ったことはない。

それに今から2週間前、間違いなく『きた』。いつもよりとっても少なかったけれど、間違いない。

である以上、妊娠の可能性は無し。

となると・・・


***


「専務に知らせた方がよくありませんか?」


え?


「だって、黙っていたってバレたら怒りますよ」


まあ、それはそうなんだけれど、


「ちゃんと胃カメラを受けてからにするわ」

「えええ、胃カメラするんですか?」

「するわよ」


胃の調子が悪いんだからしかたないじゃない。


そもそも、麗子の家系は母も祖母も胃が弱い。

母は胃潰瘍を何度も繰り返していて半年に1度の胃カメラが必須になっているし、祖母は5年前に胃ガンになり大きな手術をした。

だから麗子もと思うわけではないけれど、子供の頃からすぐにお腹を壊す子だった。


「出来れば午後からでも行ってください。今日は暇ですから」

「ええ、でも・・・」


こんな日こそ引き継ぎを進めていきたいのに。

孝太郎がいると、事務作業ははかどらないから。

それに、いくら胃腸が弱くても食事が出来ないほど具合が悪くなったことは初めてで、もしかしたら大きな病気かもしれないと不安もある。


「もういいわ。ほら、お昼に行ってらっしゃい。私は持ってきたトマトジュースを飲むから」


麗子は小熊の背中を押すように部屋から出した。



もし、本当に命に関わるような病気だったらどうしよう。

孝太郎にとって今が一番大事なときなのに、私が病気になれば結婚どころではなくなってしまう。


はあぁー。

大きな溜息が出てしまった。


1日でも早く病院へ行かないといけないけれど、行くのが怖い気もする。

この幸せな時間を失いたくなくて、耳を塞いでいたい。


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