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鴉と雛、ときどき猫
──夢を見たことがなかった。
記憶の整理にしろ、深層心理の現れにしろ。眠っている間に垣間見るという現象にとんと縁が無い人生だった。あるいは忘れているだけかもしれないが、覚えていないものは存在しないのと同じだ。
ゆえに夜鷹純にとって夢とは雪より希薄な概念であり、遠く瞬く星々よりも現実味のない存在だった。
……だった、はずなのだが。
「──どこ?」
呆然と呟く。泥濘に似た眠りを剥ぎ取られ、開いた先の光景を目にしてのことだった。
どこまでも青い夜があった。遮るもののない天蓋に透明な藍と墨が流れ込み、遠く佇む山脈の淵を淡く象っている。見える範囲に電灯は無かった。広い空には月もなく、だというのに視界は充分すぎるほど明るい。
「……星、が」
粉々に砕いた鉱石をまぶしたような夜空が応えるように瞬いた。
星明かりとはこれほど強いものだったろうか。夜鷹は不思議な心地で空を見上げた。夜空は天高く澄み、滑らかな帳を世界に降ろしている。隣り合う星々はとりどりの歌声を交わしていた。楽しげな騒擾そうじょうに引き寄せられてつい感嘆が零れそうになるが、無音のさざめきを壊すことは憚られ、唇を引き結ぶ。拍子に口許が綻び、白い息が視界を流れていった。
──寒い。
今さらに気がつく。ここはひどく寒い。辺りを見回してみると、それが冬風のせいだけではないのだと分かった。
(海……いや、湖か)
眩しい、と金眼が眇められる。透いた眸の表面に淡い光がちらりと煌めいた。夜鷹が立つ陸地の傍。青年の細長い影がすべて映り込むほどすぐそばに、星屑をたっぷりと湛えた湖水が浩蕩と流れていた。
水面に荒れた気配はなく、内から発光するかのよう。意識するまで気が付かないほど凪いだ気配が穏やかな夜によく似合う。鏡面のような湖は夜鷹や星の影だけでなく、自らに寄り添う森の影や、辺り一面に振り積もった雪化粧の色艶までも見事に写し込んでいた。
「……。森。……森?」
夜鷹はそっと後ろを振り返った。
まず目に入ったのは空にすっと伸びた針葉樹の群れ。次いで、それを薄く割り入れた獣道。黒々と濡れた森のさらに向こうは空よりよほど夜らしい闇が蟠っている。街灯も何もなく、原始的な夜闇が口を開けている様はどこか不気味だったが、薄青く降り積もった真白の雪がいかにも幻想的だった。
恐ろしいのに、どうも怖がりきれない。時折り吹く風に嫌なものがないからだろうか。
「……っ」
きんと冷えた空気が首筋を撫でた。不快ではなくとも寒いものは寒い。癇癪がじんわりと首をもたげかけたとき、夜鷹はふと晩に出された食事を思い出した。冬に柚子。それはつまり。
「……ああ、そうだ。冬至」
一年のなかで最も長い夜。それが、今夜。
行事食はおろか年中行事すらあやふやな夜鷹なので、用意されていた夕飯の小鉢の意味など本来気に留めるはずもない。ただ実家で培われた厳粛で面倒な慣習が日付と記憶を緩やかに結びつけた。
とはいえ。眼前の雪夜の趣は故国のものと一線を画しているのだが。
「……北かな」
ずっと幼い頃に読まされた絵本ではこうした雪国は北が定番だった。詳細な国名までは検討もつかなかったが、詮無いことだと改めて辺りを見回す。
(今は何時、……いや。夢なら関係無いのかな。にしては妙に……鮮明だけど)
見下ろした自分の身体は真っ黒なトレーナーを着ているだけで時計も何も身につけていなかった。当然ながら携帯もない。とはいえちょうど今日壊してしまったのであっても無用の長物なのだが。
「慎一郎くんが居たらな……」
当然、そんな都合のいい展開が起こることはなく、ただ時ばかりが過ぎていく。天上とは正反対に耳が痛むほどの静寂に満ちる地上では人手も見込めず、夜鷹は途方に暮れて空を仰いだ。
白い靄が地平を流れていく。一度、二度、三度。
夜気にするりと溶けたそれを見て、ふと気がついた。
(寒い、けど……寒くない)
辺りには雪が降り積もり、呼気は白く、玄くろい森すら風に枝葉を震わせているというのに。
擦り合わせた手のひらは冷えていたが、凍えることなく低い温もりを保っていた。
「………」
随分と都合がいいことだ、と思う。
透明で、寂しくて、優しい世界。美しい冬の世界。なにかを慈しむこともままならない冷たい手しか持たない存在を排斥するものはいない。湖畔の森は氷の延長線上にあるようで、夜鷹にとって理想をありったけ詰め込んだ國そのものだった。
──だからこそ夢なのか。
そんな場所はないことを青年はもう知っている。ゆえにこうして降り立った理想郷に「なるほど夢」と納得できてしまった。
──夢であるからには、はてさてどうやって目覚めるべきか。
夢を見たことがない夜鷹には夢から覚める方法も分からない。そもそもそんな方法があるのかも知らない。となると凍らないとはいえ真冬の空の下、目覚めるまで待たなければならないのだろうか。……それはそれで構わないが、いったいいつまで──。
背後の木々がざわりと揺れた。弾かれたように振り向く。
雪を落とした森の影に何かが蠢いていた。……獣。野良犬、いや狼? ぴんと気配を張り詰めさせ僅かに後退る。
『──おやまぁ。これまた随分と稀なお客人だ』
そこに、やけにのんびりとした声と共に小さな──そう。本当に小さな黒い影がゆっくりと歩みでた。
『珍しいこともあるもんだね。魔法使いでもない人間がこんなステキな夜を出歩くなんて』
「っ、」
身構えた身体が予期せぬ形に強張った。それを見て、眼下の小さな生き物はこてりと首を傾げてみせる。
『どしたんだいお坊ちゃん。狐につままれたような顔してさ』
目線の幾分下から訊ねてくる声に夜鷹は呆然と顎を落とした。
「……………猫が。喋ってる」
『そりゃあオレはもう六つ目だもの。喋んないほうがどうかしてるよ』
そう、どこかひょうきんに返した黒猫──青く丸い未来のロボットでも三毛猫な名探偵でもない生き物は謎かけめいた言葉を口にして、ヘーゼルの眸を瞬いてみせた。
*
喋る猫は自分よりうんと大きな人間を前に焦りもせず、むしろいたずら盛りの子どもを眺める風体で夜鷹に話し掛けてきた。
『なんだい、子どもがずいぶん辛気臭ぇ顔してるじゃないか。どしたの?』
あまりにごく普通に訊ねられ、考えるより先に口が動いた。
「いや……帰り方が分からなくて」
『はぁん、迷子か。ますます珍しいね』
ひとり納得したように首を振り、猫はヒゲを揺らして夜鷹を見る。
『どっから来たの? 火のにおいがえらく強いけどこの辺のヒトじゃねぇだろう。来た道は分からんのかい?』
「分からない。気がついたらここにいた」
『ふぅん。なら夢でも通って来たのかねぇ』
「夢……」
三毛猫と言葉を交わしながら、夜鷹は「いよいよ空想じみて来たな」と心内で溜め息を吐いた。満天の星空の下、言葉を話す猫と出会う。まるでお伽噺のような夢だ。もしこれが無意識の具現なら自分は存外ファンシーな一面を持っていたらしい。嫌だ。
『今夜はまあまあ冷えるけど、カラダ落っことして来たんならニンゲンでもまだ動けるでしょ。よかったね、アンタら弱いもん』
「……身体舐めないと茹だる生き物に言われたくない」
『なんだとぅ。小生意気な迷子だ、そんなこと言うと置いてっちまうぜお坊ちゃん』
思いがけない言葉に瞠目する。置いていく、とは。
「……どこに連れていく気だったの」
『なんだい、ヒトを狼みたいに。取って喰いやしないよ、お前さん硬くて不味そうだもん。いい匂いだけどね』
「まず、……いや。匂いって何」
答えることなく猫はくるりと三色の背を向けた。ながひょろい尾がひょいひょいと揺れる。
『ついといでよ。帰りたいんだろ? 案内できるヤツのとこまで送ってってやる』
「……何で?」
『おかしなヒトだな、猫に理由を訊くのかい? それとも理由がなきゃ歩くこともできないの? 面倒だねニンゲンって』
後ろ頭を軽く小突かれた心地になった。衝撃はもちろん錯覚で、何か言い返したいと口を開いたが、相応しい言葉を探している間に猫は『ま、いいや』と細長い尾を揺らし話を戻してしまう。
『今夜は特別な夜だからね。みーんなご機嫌なのさ。星空なんてオレたちには分からんが、森も水も雪たちも魔法使いと喜んでる。あまぁい草も貰えると来たら猫だって優しくなるさ。散歩がてら迷子を送ってやるくらい、なんてこたない親切だよ。……それともここで飢え死ぬかい?』
「……行く」
そうしな、と告げる代わりにヘーゼルの眼を一度瞬かせ、猫は音もなく歩き出した。着いていくほかない夜鷹は夢というものの荒唐無稽さを味わいつつ、迷いのない小さな歩みを数歩遅れに追いかけた。
*
雪の残る獣道を進み、森と湖畔を行き交いながら幾つかの湖を超えたころ。
『にしてもお前さん、ホントに運が良かったね』
けっこうな距離を疲れも見せず歩いていた三毛猫がふいと夜鷹を振り返り、言った。(この状況で?)素足の裏に雪を踏みつつ、青年は微かにその白皙を翳らせる。
「どこが」
『ぜんぶさ』
端的に答え、猫は興味深げに三本髭を上下させる。
『ふつう境目に出ちまったンなら、それもこんな水辺なら鬼火にだまくらかされて溺れ死ぬのが関の山だってのに。よりにもよって辿り着いたのがここなんだもの、黒犬どももさぞ遠吠えに忙しくしてるだろうよ』
「ねえ、分かる言葉で話して」
『解るやつも視るやつも最近じゃかなり減ったもんなあ。お前はどっちかな、どうやら鳥目みたいだけど』
「……君は随分お喋りだよね。猫のくせに。そんなだから無駄に踏まれたり蹴られたりするんじゃない」
『そういうお前さんはえらくだんまりだね。囀るのが下手なのかい、鳥のくせに。──っと、いたいた』
ちくちくと棘のある会話を(青年にしては珍しいことに)繰り返していると、前触れもなく視界が開けた。
湖だった。それまで通ってきた道と同じ。けれど夜の静寂が一段深い場所に沈んだことを夜鷹の神経は敏感に感じ取っていた。
「ここは……なに」
木枯らしが途絶えたのだ。風も動きを止めるほど閑かな世界が裾を広げて佇んでいる。いまこの場で己が醜態を晒してはならない──そんな強迫めいた情動が湧き上がるほど、現れた湖は今までとは一線を画す厳粛なひかりに満ちていた。
(静かだ。空間そのものが死んでるみたいに)
夜だというのに水の淡さがよく見えた。浩然と揺蕩う湖水の歩みに目が惹かれる。死を思わせる世界だが嫌悪感はない。むしろどこか心地いい。
陶然と目元を綻ばせていると、隣で猫がのんびりとした声をあげた。
『ンなァ? 出てこないや、気付いてねぇのかな』
「出てこないって……え」
戸惑いに声が揺れる。実際戸惑っていた。あれは、何だ。
「ねえ、あれ、島? 何であんな所に」
水に浮かぶ島々は他にもあった。島というか草木の寄り集まった足場のようなものだったが、それそのものに違和感はない。そもそも夢なのだし。
ただ目の前のそれには「夢だから」で切り捨てるには何か異質なものがあった。水の質か、光の温度か。浮島と陸とを結ぶ飛び石のせいか。それとも──水面に突き出た小さな島。その中心にぽつんと建つ小さな四阿のせいだろうか。
今までの湖とは何か違う。瞬きもせず島を見据える夜鷹に、猫は『霊園だよ』とだけ答えた。
『あんまりおっきな奇蹟まほうは今は居場所が少ないからね。ニンゲンのくせにアッチに近いってのも苦労する。あの子も可哀想に』
「魔法? 君、何を言って……」
『なんだよ、お前さんもだろう? だからここまで・・・・・・・来たんじゃないか・・・・・・・・』
言葉の真意を問い質す間もなく、猫はひらりと飛び石に飛び乗って、ひょうきんな声を張り上げた。
『仕事だよぅ、渡し守の坊。世にも稀な鳥目の迷子だ、面倒見てやっとくれ』
「──エステル」
湖上から声が響いた。
この湖と同じ。青く澄んだきれいな声が。
「さっきステラが探しに来たよ。王様がお呼びだってこんな所まで。小さい子をあんまりからかうものじゃないっていつも言って……あれ?」
ぱち、と榛の眸が瞬く。色素の薄い睫毛がゆっくりと上下して、大きな眼に真っ黒な影が映った。
「珍しいお客さんだね。表のひとだ。お兄さん、もしかして迷子?」
***
薄金色のちいさな頭。眸と同じ色をしたそれが真っ黒な紗うすぎぬの向こうで揺れるのを見て、夜鷹は声を強張らせた。
「……今度は、子ども。ねえ、案内人ってまさかこの子?」
『なんだよ、文句あんのかい?』
ヘーゼルの眸がこちらを向く。眼差しに仕方なさそうな色が滲んでいた。ふざけるなと思う。どうして自分が呆れられなければならないのか。
正直なところ肩透かしされた気分だった。成り行きに任せるように歩いたが、そもそも夜鷹は元の場所へ帰るためにここまで来た。馬鹿らしくも道案内をしてやるという猫の言葉に頷いて。そうして進んだ先でいざ「案内人だよ」と示されたのが年端もいかない少年であれば、誰だって苛立ちのひとつくらい覚えるというものだろう。
という旨を小動物にも分かるよう淡々と伝えてやると、猫は気にする風もなく髭を揺らし半目になって夜鷹を見た。
『贅沢なやつ。ここまで訪える人間だって稀なんだぜ』
「だから何。僕には関係ない」
『少しは自分の幸運喜べってんだよ。あとオレの真心な。オレが拾ってやんなきゃ野垂れ死には確定だったんだ、まして魔法使いの導きなんざ滅多と遭えるもんじゃないってのにさあ』
「それは、…………魔法使い?」
「そうだよ」
ふと幼い声が割って入る。猫はご機嫌そうに尾を揺らし、夜鷹は惹かれるように顔を上げた。
「はじめまして、こんばんは。おれは〈雪鴉〉。この辺りの夜で魔法使いをしています」
「ゆき……がらす」
にこ、と稚く微笑み少年が「そう」と頷く。黒いベールがしゃらりと鳴った。
「お兄さんは表からのお客さんでしょ? 寒くない? お顔が真っ赤だけど」
「………」
「ユールにつられて来ちゃったのかな。今夜はお祭りでね、色んなとこのヒトたちが集まってて、いつもより曖昧になってるから……あの、お兄さん。聞いてる?」
「………」
言葉の半分以上の意味が分からなかった。
答えに窮して黙り込むと、猫が隣で分かった口をきく。
『すまんね雪鴉、この坊ちゃん、囀んのがウグイスの雛より下手なんだ。辛抱強く相手してやって』
「は?」
「そっかあ。分かった、じゃあ道すがら聞いてくね」
「は?」
いったい何が分かったというのか。
おかしな方向に納得された気がしないでもない。崇敬は鬱陶しいが下に見られることを何より厭う青年は小さな肩を大人げなく揺らそうとしたものの、
「行こっか」
「……うん」
穏やかな促しに逆らう気はなぜか起きず、ただ不承不承と頷いた。
*
「夜の森は迷いやすいんだ」
カンテラの青い灯を揺らし、鴉を名乗った少年が言う。
「迷いやすい……」
「うん。誰もが自分の中に自分だけの朝と夜を持っている。それは自分だけのものだけど、こういう場所だと世界のほうが強いから。表の人だとうっかり呑まれて、そのうち溶けていっちゃうんだよねえ。綿雪みたいに」
「……溶ける?」
「うん。溶けて消える。エステルがいてよかったね」
とても恐ろしいことを平然と宣う子供だった。悪ふざけとは思えない。ただこの世の真実のひとつを諳んじる口調で、とても恐ろしく、ひどく羨ましい結末を少年は語って聞かせた。
ねえ、と呼ぶと金眼が動く。眸の色がきれいで思わず手を伸ばしそうになり、内心で自分を叱咤する。野鳥か何かか、僕は。
「どうしたの?」
呼びかけたままだんまりしていると、子どもが不思議そうに首を傾げた。どう言おうか、何を言おうかと唇をまごつかせて、ややあってくだらない疑問が口をついた。
「さっきの言葉……溶けて消えるなら、どうやって帰るの。案内するとか言っていたけど本当にそんなことが君にできるの?」
きっと無礼な質問だった。内容もだが言い方そのものが。いつも口に出してから間違いに気が付く。そして、口に出してしまった言葉は戻らない。
(喚かれるかな……だから嫌なんだ、外は。氷みたいに上手くやれない)
胸の裡にどんよりとした気持ちが広がった。これは、恐らく不安だ。氷上でなら微塵も感じないこれは氷の外でいつも肌に染み付いている。もう慣れたものだった。
ひとり身勝手にも暗澹たる心地に視線を落としていると、ふいに「そうだね」と首肯が返った。
自然と顔が上がる。目に映った子どもは、予想とは裏腹にひどく穏やかな顔をしていた。
「絶対できます、なんて確証はないよ。ごめんね。それでも信じてもらえないとおれたち見習いは商売あがったり・・・・・だからなあ」
「商売?」
「現金とかほぼないもん。物々交換っていうか、資金繰りには手を焼くよ本当に……おれ自身に差し出せる宝物は何もないんだ。きっと他の子よりも、ずっと少ない」
夜鷹には想像もつかない現実を空想の存在は朗々と語った。幻想的な衣装、言葉を話す猫。夜鷹たちにはリンクの上でしか許されないような魔法を纏っているくせに、この存在はまるで小さな現実の具象のようだ。
(要するに社会的な信用と金がない?)
──子どもなら普通のことでは?
夜鷹は正直なところ、金銭的な苦労を背負ったことがない。自分の周りで相当の金額が動いていることは知っているが、だからと言って気を回したこともなかった。生まれ持った資本力も才能の内で、褒賞は実績と才能によって担保される。流れていった金を補って余りあるほどの富を生み出せばいい。そういう賢者の石であることが〈夜鷹純〉に求められる側面だということを夜鷹は重々承知している。
だからその手の怨嗟を聞くと普段は鬱陶しいと感じてしまうのだが、子どもの嘆きが素直に耳を侵したのは、彼がまったくの別世界にいる存在だからだろうか。それとも当の彼の横顔に憐憫を求める色がないからか──と考えたところで、ふっと琥珀が持ち上がった。
「だから手を繋いで行くんだよ」
「……手を?」
「これがおれに差し出せる精いっぱい。絶対離さないし、まあ、杖代わりくらいにはなるから。それじゃダメ?」
「杖……」
「そう。迷子が自分のカタチを見失わないために、行きたい場所へ最後まで歩けるように。そのための手助けをするのがおれたちの仕事なんだ」
言葉通りにすいと差し出された手のひら。小さなそれを見下ろし、夜鷹はしばし逡巡する。考えている間に滑らかな手がするりと自分より幾分大きな夜鷹の手を取った。
少年の手は温かかった。懐炉で温めていたのかと思うほどホカホカしている。これが子供体温というのだろう。少しの接触で血が巡り、体温が上昇してくのが分かる。
その感触に肌が粟立った。
「……いらない」
「え?」
「手、離して。ひとりで歩ける」
繋がれた手を振りほどく。熱はすぐに霧散した。慣れた冷えが手許に戻ってくる。
放り出された自分の手をまじまじと見て、少年は小さく首を傾げた。
「触れられるの、いや?」
「………」
「いたいって顔してる。鉄に触れた風妖精エアリエルみたい。ごめんね」
「……違う」
苦味走る声が絞り出た。気遣いではない。ただやさしい子どもからこれ以上優しい言葉を聞きたくなくて溢れた声だった。
「……体温が、苦手なんだ。他人の体温……」
「体温?」
「僕は人より平熱が低くて、だからいつも触れられると相手の熱が移ってくる。それが気持ち悪い。自分じゃない何かに侵食されるみたいで」
子ども相手に何を言っているのだろう。冷静な思考が囁いた。そんな理性に反して唇は勝手に言葉を刻んでいく。
「だから、君が悪いんじゃない。全部僕の問題だ。分かってるけど、今すぐ克服するのは無理」
「………」
「杖はいらない。君の後ろをちゃんと歩くから、君も気にせず前を歩いて」
「んー……分かった!」
そうとは思えない軽やかな仕草で少年が頷いた。案の定、子どもは怒るでも夜鷹を放っておくでもなく想定外の行動に出る。
「え……ねえ、何してるの」
「服を破ってる」
服──正しくは少年が頭から被っていたベール。繊細な刺繍に囲われたそれに指が掛かり、涼やかな音と共に黒衣がただの紐へ変じていく。破り裂かれた断面から粗いほつれが覗いていた。
一連の突飛な行動を前に硬直した夜鷹は、魔法使いの暴虐を唖然としたまま見送ってしまった。
「どうしてそんな……」
「お兄さんとおれの手首を繋ぐから」
「は? ……何で?」
「これなら触らなくても一緒にいられるでしょ?」
思いがけない言葉に閉口した。口調と同じに何でもない眼差しで、少年はそのままくるくると繋がれた夜鷹と自身の手首を眺めていた。
「お兄さんの言うこと、ちょっと分かる。だからって迷子になられても困るから妥協……折衷案? ね。もう少しだし我慢して」
「………」
「ねえお兄さん。あったかいのはちょっと痛いけど、それだけじゃないよ。だから大丈夫」
向けられた笑みは稚く、それ以上の老獪さと寛容が同居していた。
夜鷹に父母の父母たる記憶はない。大人は基本信用ならない。大人ぶるやつもだいたいはそう。
ただ、それでも何か、負けたと思った。
「にしてもそっかあ、あったかいのが気持ち悪いんだ……」
紐に繋がれ、大人しく夜道を歩く夜鷹の隣で少年がふと微笑った。それが何、と不愛想に訊ねる。すると彼はまたうふふと笑い、
「おれたち、ちょっとだけ似てるかもって思って」
「は? そんな訳ない」
「えーそうかなあ」
即断すると少年は納得しかねる、という風に首を傾げた。重ねて「似てないよ」と否定する。だって、ほんのわずかな時間でも分かるほど、雪の鴉はやさしい子どもだった。
「僕の言ったことの意味が分からないの。他人の熱を……思いやりとかそういうものを『気持ち悪いから』で拒絶してるんだよ。たぶん尊いものを」
少々小賢しいところはあるが、少年はあたたかなものを目いっぱい与えられて然るべき善性に満ちていた。人との触れ合いを拒む、まして嫌悪するような捻くれた生き方は似合わない。それを小さな身体で、楽しそうに否定する姿がどうにも嫌だった。
「人の熱は侵食なんかじゃない。……本来は、きっと。そうでしょ、猫」
『知らねっての。ヒトの事情をオレに訊くな』
足元を歩いていた猫が嫌そうに夜鷹を見た。ずっと黙っていたくせにいざ口を利くとこれだ。ころころと機嫌が変わる姿はまさしく気紛れそのもの。これだから猫は。
『お前さんいま自分のこと棚にあげてなんか言ったろ』
「知らない」
『ほぅら、馬脚が出たぞ。鳥目の坊ちゃんだから飾り羽かい? 羽のせいで嘴まで重くなってんじゃねぇの』
「……口の減らない猫だな。ねえ魔法使い、三味線は好き? いい職人を紹介してあげようか」
互いに苛立ちを孕んだ目でにらみ合っていると少年が「仲いいねえ」と朗らかに笑った。どこが、と声が揃ってまた笑声が夜道に零れた。
囀るような笑いを収め、ベールを揺らし少年が「あのね」と空を仰いだ。
「魔力って力だからさ。星を巡る血液みたいなものだから、魔法を使うときって身体が熱くなるんだよ。ぎゅーっと、こう……お隣りさんに助けてもらうときなんか溶岩の中に放り込まれた気分になる」
それはまた随分と熱そうだ。夜鷹は思わず眉を顰めた。〈お隣りさん〉が如何な存在かは知らないがそんなものを寄越されるなど堪ったものではない。少なくとも夜鷹にとっては拷問に等しい。
「先生はそれを愛だって言った。おまえは世界に愛されているんだよって」
「……嬉しくなかった?」
「嬉しかったよ。本当に。こんなおれでも愛してくれるんだなって」
でも。でもさ、と透明な声が深くなる。
「たまーに思うんだ。世界になんて愛されなくていいから、そんなの全部別のひとにあげるから……」
暗がりの中で琥珀が瞬く。
「だから、母さんや父さんが、兄さんたちといるときみたいにおれとも笑ってくれたらなって」
仄かに耀く金色の瞳。それが笑っているのか、おどけているのか、夜鷹にはわからなかった。
「……君の親は笑わないの」
「ううん。でもおれといると、なんか……ふたりともどんどん醜くなっちゃうから」
凡そ子どもの口から出たとは思えない辛辣な言葉だった。ただ、平坦な声が紡いだ『醜い』が外観だけを指すものではないと不思議と理解できた。
「醜いものは嫌い?」
「どうかなあ。分かんないけど、おれね、兄さんたちといるときの二人の顔を見るのは好きだよ。幸せそうだから」
「それは『綺麗』なの」
「うん。お伽噺みたいで」
それは──と何か言う前に少年が口を開く。
「だからね、似てるなって思ったの」
「……?」
「侵食。誰だってするのもされるのも嫌いでしょう。熱いのも冷たいのも、与えるのも奪うのも、大きすぎたらずっとひとり。誰かと一緒にはいられない。そんな願い、叶わない」
だから何してもダメなんだろうなあ。
そう独り言ちた彼の言葉が自覚以上に胸を裂いたのは。
「──……」
きっとその諦念が、夢よりも身近な存在として夜鷹の裡にも巣食っていたからだ。
「……君は……そんなことない筈だ。誰からも愛されて、必要とされる。そういう子だろ」
気持ちの悪い気分のまま夜鷹は言葉を口にする。吐き気がした。舌を滑る言の葉のすべてが贋物のように感じる。
それでも心からの本音だった。優しくて、聡明で、あたたかな子ども。闇夜を照らすひかりの子。それを厭う者がどこにいる。
自分は杖代わりだと少年自身が言っていた。その通りだと夜鷹も思う。彼の手はあまりに温かく、足取りはあまりに頼もしく、紡ぐ言葉はあまりに慈しかった。誰もが生に苦しむこの世界できっと奇跡と同じくらい欲しがられる。どんなに小さな光だろうと、夜道の旅人はこの存在に抗えない。暗がりにカンテラを掲げ歩む姿は誰しもに求められ、縋られるように見えるのに。
暗にそう指摘した言葉に少年はふるりと頭を振った。
「『ここに居てほしい』って言われるのと『ここに居ていいんだよ』って言われるのはちがうよ。おれは欲張りだから片っぽだけじゃ足りなかった」
「……君はずいぶん小難しいことを言うよね。子どものくせに」
「お兄さんは大人なの?」
「君よりは。でも、君のほうが賢いよ、きっと。嫌になるな……」
「なぁにそれ。おれ、別に賢くなりたいわけじゃないよ。ちゃんと大人になれるかも分かんないし」
「なにそれ」
夜鷹は微かに眉を顰めた。
「どうしたって大人になるでしょ。君もヒトなんだから」
「カラダはねー。おれたちの大人……んと、一人前? そういうのがちゃんと認められるのはもっと違う時だから」
「……?」
いまいち要領を得ない。小首を傾げると、振り向いた少年があどけなく微笑いかける。
「魔法を使うものはね、自分で自分の呪いを解けたとき、やっと大人になれるんだよ」
*
視界の端で星が砕けた。青い湖畔が光を弾き、この長い夜の終わりを予感する。
「……もう行こう。夜が更けてきた」
重ね続けた問答の果て。何でもないはずの一つに後ろ髪を引かれて足を留めていたが、それ以上の停滞をヘーゼルの眸は赦さなかった。
案内役──今はもう監視役と言うべきか。厳しさを隠さない猫の眼に促され、重くなった足を進める。ところで今夜明白になったことがあるとすれば、ここが夢だろうが何だろうが夜鷹は猫が嫌いになった。
終わりの道を取り留めもなく歩いていく。紐で繋がれた魔法使いと迷子は、今や袖をすり合うほどの距離で隣り立っていた。
「ここは暗いね」
「そうだね。いつもこんなもんだけど」
「それに寒い」
「そうだね。それもいつも通り」
「けど……美しい場所だ」
「うつくしい?」
うん、と頷く。
「ずっといたいと思うくらいには」
「……そっか」
視界の隅で星が砕ける。朝は、まだ遠い。
「君、一人なんだろ。子どもなのに怖くはないの」
「夜は怖いものなの?」
「たぶん。僕はそう思わないけど」
怖いとも、寂しいとも思ったことはない。誰とも交われない孤独より、誰にも認められない屈辱のほうがずっと苦しい。……それでも夜鷹を取り巻く彼らに理解できるところがあるとすれば。
「まあ……綺麗だからね」
「うん?」
「夜は綺麗だから。綺麗なものはみんな怖がるだろう。喜びもするけど。蟲と同じだよ。光に集って、そのくせ死ぬ」
誘蛾灯に群がる羽虫と同じだ。焼かれて死ぬと分かっていながら惹かれずにはいられない。惹かれるくせに、光を恐れる。自分を壊すものだと理解しているから。
「でも、だから駄目なんだ。夜が怖くて氷を生き抜く道理はない。そこで死んでしまえないのなら、そこで生きようとすること自体が間違ってる」
少年は静かな声で「そう」とだけ言った。猫は黙って夜鷹を見ている。虫を食べる生き物の目だった。
「じゃあ、お兄さんは? 氷が好きで、夜が怖くないお兄さんは、怖いひと?」
「……まあ。少しは」
「そっか。じゃあ、お兄さんの怖いものは?」
「……怖い、もの……」
──僕の怖いものは。
それは。
「夜以外のもの、すべて」
「ふぅん。──ならおれだけ見てたらいいよ。そうしたら怖いものなんて目に入らないでしょう」
視界の端で星屑が散った。驚くのも飽きた頃合いだというのに、もう何度目この子どもに驚かされたことだろう。
子どもというのは本当に予想外のことばかり言うらしい。それとも彼が魔法使いだからだろうか。幼い見目で随分な台詞を口にして、彼の将来に一抹の不安が過ぎる。おれだけ、なんて。どこの気障男だ。
「……ふ」
嘘だ。まるっきり信じ切れるとは言わないが、ほんの少し嬉しかった。誰かに告げる「見て」も誰かからの「見ていて」も遠ざかって久しい。どちらもなくても人は生きていけるのだと結論は固まりつつある。それそのものは詮無いことだが、夜鷹がうっかり口にした空虚な種を拾って仕舞われるという行為は、肺を震わせる程度の新鮮さで夜鷹の胸に溶けていった。
しかしこう驚かされてばかりなのも癪なので、すこし意地悪をしてみたくなった。
「もう少し、何かない?」
すると、少年が目を丸くした。
「えっ、えー……何かか……そうだなあ。お兄さん、歌は好き?」
「うん」
「やった。じゃあ子守唄歌ってあげる。星のうたなんだよ」
「うん」
夜鷹はただ頷いて眼下に揺れる陽色の糸を眺めた。すると少年は軽く息を吸い、小さな顎を持ち上げる。
琥珀の眸に粉砂糖をまぶしたような空が映った。残り日に濡れた双眸のなか星々はたださざめいて、紐解かれる時を待っていた。その願いに応える形で子どもはゆっくりと唇を綻ばせた。
「──、──……」
それは、星のうただった。遙か昔、夜空に物語を見た詩人のうた。
さそりの赤い目。翼を広げた鷲。青い目をした小犬。英雄が歌う日に露と霜が降りる。旅路の要はあの大きな春の星に──。
子どもらしく澄んでいるのに、静寂に寄り添う深い声が、透いた冬の空気の中にしんしんと伸びていく。
透明で、優しい声だ。ただ素朴に空を眺め星を辿る詩は技巧以上のひたむきさで胸を打った。それは決して暴力的な波ではなく、寄せては返す汀にも似た静かな感動だった。
言葉もなく感じ入っていると、それを察したように少年が振り向いた。猛禽と躊躇いなく目を合わせた琥珀がやわく綻んだとき、夜鷹の思考は自然とひとつに纏まった。
(……綺麗だな)
綺麗だ。だから、欲しい。
この小さな魔法使いを傍に置きたい。鬼火や蛍火なんかではなく、自分だけの杖として。どこへ導かなくともいい。ただ寄る辺としての灯りがほしい。
ごく自然にそう思う。欠けたものを想う気持ちが子どもに対して募っていく。
(……ああそうか。きっと、この子は)
世界の愛しかたを知っているのだ。
*
「……ねえ」
湖畔はいつの間にか海になっていた。銀の砂浜と白い星々、どこまでも伸びる天蓋の青。月のない冬の世界で、夜だけの色彩が水平線を閉ざしている。古びた桟橋の裾に立ち、船出のときを待つ青年は傍らの魔法使いに呼びかけた。
「ここに残ることはできないの」
琥珀の眸がゆっくりと瞬く。ヘーゼルのほうは、興味すらもなさそうだった。
これまでの案内を無碍にする言葉に対して少年の眼差しに失望はなかった。それでも怖いと思う。自分の裡をさらけ出すことがこんなにも痛みを伴うなんてもう何年も忘れていた。
「おうちに帰りたくない?」
「そんな場所、ない」
「ここは暗くて寒いってお兄さんが言ったのに」
「でも、綺麗だとも言った。ならここがいい」
そっか、と少年は頷いた。そうなんだね、と噛み締めるような声が言う。
「ならやっぱり帰らないと。夜の帳はあなたにはまだいらないものだ」
「なんで、」
だって、と魔法使いは微笑って。
「帰りたい場所はなくても、やるべきことはあるんでしょう?」
「──それは」
それは、ずるい。
ずるい言葉だった。やはりこの子は小賢しい。あんなにも優しい顔で、夜鷹が夜鷹である限り絶対に裏切れない言葉を叩きつけてきた。
望みも願いもない。目覚めた先は帰りたい場所ですらない。それでも、やるべきことはある。ああそうだ。その通りだとも。
その通りだが──。
「……なら」
「うん?」
「君が来なよ。……君だって帰る場所はないんだろ。僕と来たって問題はないはずだ」
ほとんど縋りつく声で夜鷹は言った。絞り出した音が情けなくて浅ましい。なんて弱々しく無様なことか。
けれどこれが夜鷹だ。氷を降りればこんなものだ。気高く美しい夜鷹純なんてどこにもいない。自分程度では誰より輝く存在ほしになんてなれない。それが嫌で、これからも強くありたくて、だから〈杖〉が欲しいと言っているのに何なんだこの子は。
途中からほとんど八つ当たりになった愚痴を内心で吐き散らしていると、眼下からまじまじとこちらを見上げるぽかんとした顔に突き当たった。
「なに」
「……びっくりした。そんなこと初めて言われた。……ふふ、あはは! びっくりさせるのはおれたちの専門なのに」
カンテラのついた黒い長杖を両手できゅっと握りしめ、ふふふと微笑む姿は驚くほどに幼かった。喜色に染まった頬がふくふくとして、見ていると無性に歯が疼く。何だろう、この感覚。
未知の感慨を呑み込めないまま咀嚼していると、まだどことなくふわふわとした様子の少年に猫が『おい』と呼びかけた。ハッと我に返り、琥珀の眸が恨めし気に猫を見下ろす。
「分かってるから水差さないでってば……ごめんねお兄さん、おれは行かないし行けないんだ。まだまだ未熟者だから表に出るのはもうちょっと後になってからじゃないと」
「……そう」
「でもこれっきりってのも寂しいよね。持ち出しおっけーなお土産って何かあったかな……あ、そうだ。ねえお兄さん、屈んで!」
「? うん」
言われた通りに膝を曲げる。近くなった肩を更に軽く押し込められる。すると眼前で金糸が揺れ、こめかみに柔らかな感触が伝わった。
「……お守り。あげるね。ちゃんと行って帰れるように」
「………」
「いつかあなたが帰りたい場所を見つけられるまで、あなたが迷子にならないように。迷子になったら見つけてくれる誰かに出会えるように。それで──」
「──いつかまた、逢えますように」
琥珀がぱちりと瞠目した。「違った?」と訊くと、少年は頬を綻ばせて首を振った。衣擦れがしゃらしゃらと音を立てる。潮騒に似た、静かでしあわせな、透き通った音だった。
寄り添った身体が離れると、見計らったように霧笛の声が海岸へと鳴り響いた。なだらかな水平線の向こうから星々を選り分けるようにして一隻の船が近づいてくる。
「船が来たよ。──お兄さん」
頷き、桟橋の先へ歩み出る。
「あれに乗れば帰れるの」
「うん。中に入って帰りたいところを思い浮かべて。そうすれば朝が来るから」
「わかった」
船は見た目以上の速さで岸へ向かってきていた。遥か遠くに見えていた輪郭がもうくっきりとしてきている。その性急な様に夜鷹は思わず息を吐き、少し考えて足許にいる小さな天敵を見下ろした。
「猫。いちおう礼は言っておく。ありがとう、魔法使いと会わせてくれて」
猫はフン、と小さな鼻を鳴らした。
『余計なことしちまったかね。なぁんかおまえらヘンに噛み合ってたもんね。ああ嫌だ嫌だ、雪鴉のお守りだってオレのお役目なのに』
「そう。それはよかった。お前が猫でよかったよ、真面目な犬ならこうはいかない」
『余計な囀り挟まにゃあ気が済まねぇのかお前さんはよ。ったく、これだから鳥公は』
げんなりとした様子に気をよくする。猫は嫌いだ。だから、これでいい。
「嫌なら忘れるといい。僕も忘れる。きっともう会うこともないし。さよなら」
『おい、迷子』
今度こそ離れようとして、できなかった。振り向くと、思いがけずまっすぐにこちらを見据えるヘーゼルの眸に正面からぶつかる。「まだ何か?」と訊くと、猫は不機嫌そうな、そうでもなさそうな、要するにしたり顔で口を開いた。
『ここはどこでもなくて、どこにでもある場所だ。夢も現うつつもどっかしらで繋がってる。今夜みたいにね』
吟じる猫を魔法使いが抱き上げる。カンテラの青い翳が差し、琥珀とヘーゼルがふたつそっくりに瞬いた。
『今度来るときは夢じゃなく、あんたらの鉄の船で来なよ。身体ももっておいで。そん時は鬼火の代わりにオレが沼地へ案内してやっからさ』
「……考えておく。けど、そうなったら落ちるのは君のほうだから。せいぜい酒と水瓶に注意するんだね」
日本でいちばん有名な猫の最期を示唆して言うと『生意気!』との答えだった。冗談半分だが、まあ平気だろう。この小生意気な猫には既にたいそうな名前があるようだから。
桟橋と腕の中で交わされる小競り合いのような別れのやり取りに、魔法使いは仕方なさそうに微笑んだ。
「本当に仲良くなったね、ふたりとも。よかったよかった」
『よくないって。つーか雪鴉、あとでなんか食わせておくれ。腹減った』
「あーそれはそうだね。お兄さんにはお守りあげたし、エステルには後でご飯とキャットニップつけてあげる。お酒は駄目だろうけど」
『いらねぇよサケなんて。あれなんか妙なにおいするもん。くしゃみ出るし、嫌いだ』
「おれたちには百薬の長なんだけどねえ。お隣さんも好きなヒト多いし薬にも使えるし、魔法使い的には大事なアイテムなのに」
「……そういえば」
船はもう目の前だった。星明りを反射する青い胴体が夜鷹の程近くに停留し、古びた木の梯子が降りてくる。
「結局見れなかったけれど。君はどんな魔法を使うの」
最後までそれを目にする機会はなかった。だが、夜鷹が彼を疑う理由はもうない。それでも訊ねてしまったのは、最後に芽生えた好奇心と、最後の最後まで息をしていた心残りのせいだった。
琥珀が瞬く。星が散る。哭おらび始めた霧笛の中で、魔法使いは微笑んだ。
「〈明けない夜がくる魔法〉。これがおれの魔法だよ。
それじゃあさよなら、鳥のお兄さん。また出逢えるなら、いつかの夜に」
***
「……、……」
懐かしい夢を見た。……ような気がする。
頭の芯に残る微睡みを振り払い、夜鷹はそっと目を開ける。すぐに視界に入ったアナログ時計が示す時刻は午後〇時三四分。どうやら十分ほど寝入っていたようだ。
(あと二十分はあるか……)
午前の合同練習後、昼休憩を言い渡されてからは仮眠室に避難していた。表舞台に出るようになり、親友以外の人間と接する機会は否が応でも増えた。それ自体は受け入れているものの、あまりに騒々しいと嫌気が差すのもまた事実だ。
人の気配は好めない。声も、視線も、好悪がどうあれみな等しく熱を持つ。この数年で色々とあって、ありすぎて、その甲斐あってかつてよりマシとはいえ、そうした諸々に対する苦手意識は拭いきれないままだった。
──だからと言って癇癪を起せば困るのは親友と唯一の教え子だ。
それはいけない。教え子はもとよりただでさえ苦労性の親友の胃にこれ以上負担を掛けるのは夜鷹の望むところではないので、一人で人気のない仮眠室に入り、疑似的な夜の中で胸の漣が過ぎるのを待つというのがここ最近で生まれた避難方法だった。
単純なようだが存外に侮れない。光陰どちらにせよ、少しでも自分をコントロールできるというのはいいことだ。とはいえこの方法に落ち着くまで随分骨を折ったし、そんな回り道に付き合ったあの青年はとんだ数寄者だと思わず笑ってしまったものだが──。
「………」
回顧と共に青年の笑みを思い出すと、なぜか心臓が疼いた。先ほどまでの波とは違う。渦潮のようなそれではなく、ただ汀に似た、静かだけれど無視できない波の音だ。
この謎の衝動もこの数年で生まれた変化のひとつだった。今回が初回などではなく、もう幾度も襲われている。病気だろうかと相談した親友は束の間ぽかんと間抜けた顔を晒していたが、次の瞬間には破顔して「大丈夫だろうから、ゆっくり考えてみるといいよ」と朗らかに見捨てられた。鴗鳥慎一郎は優しいが、厳しい。
波音は穏やかだが徐々に深みを増し、ついにはざぱんざぱんと泡が割れるほどにまで至ったので、夜鷹は諦めて仮眠室を後にした。抗うより流されるほうが早い。水とはそういうものだろう。
人気のない廊下を歩く。
昼間とはいえ、子どもたちの大半がいる表側に対し、各種管理機器の集まる裏側区画はうら寂しかった。好都合だが、全体的に青く廃れた雰囲気は平日の水族館を思わせる。夜のリンクほどではないにしろ気分がいい。
じわじわと上向き始めた気分のまま廊下を歩いていると、薄青い翳がひと際深まった空間、奥には物置が続くだけの階段付近から意外な声が聞こえてきた。
「……この声」
あの子か、と独り言ちる。──明浦路司。
今まさに夜鷹の裡で波をつくっている、わけの分からない数寄者の声だ。
(それに……寝てるのは『岡崎いるか』か)
そんな数寄者の背に頭を預け、上体を起こしたまま寝息を立てている少女はどう見ても現在教え子と鎬を削る関係にあるライバル選手のひとりだった。
夜鷹にとってそうだということは司にしても同じはずで、クラブも年代も異なる彼らがあんなに親密でいる理由はない。年若い男女、という関係に一瞬まさかと血の気が引いたが、何事か口遊みながら気怠く文庫本を読み込む司と、そんな彼の背中を背もたれ代わりのように脱力し穏やかな寝顔を晒している岡崎の姿からは、マスコミが好みそうな下世話なにおいは感じ取れなかった。強いて言うなら、年の離れた兄妹、のような。
──兄妹。自分で抱いた印象にある噂が呼び起こされる。
(岡崎いるかと明浦路司は──って、これのことか)
なるほど。たしかに彼らは仲がいいらしい。話半分以下で聞いていた噂話だが、認識を改める必要があった。
──それにしても無防備な。
少しばかり眉を顰める。実情がどれだけ肉欲を挟まない男女であっても周囲には注意してしかるべきだ。とくにこの業界のような、コーチと選手間の関係が緊密になる世界では。
彼と自分の勝負はまだ決着がついていない。教え子たちが彼女らの手で幕を降ろすそのときまで、自分たちの戦いも続く。それをスキャンダルなどというつまらない幕引きに終わらせる気は毛頭起きず、せめてひと言苦言を呈するべきか──とふたりに近づいたところで、夜鷹の足はぴたりと静止した。
「……──、──……」
聞こえてきたそれは、星のうただった。遙か昔、夜空に物語を見た詩人のうた。
さそりの赤い目。翼を広げた鷲。青い目をした小犬。英雄が歌う日に露と霜が降りる。旅路の要はあの大きな春の星に──。
空に枝葉を伸ばす若木のような、澄みやかな声が紡ぐ詩を、夜鷹は知っている。
水族館が湖畔と森へと移り変わる。長く寂しい冬の夜。ヘーゼルの眸、笑う猫。湖は流れ、やがて海へとたどり着く。
視界の端で、星が砕けた。
「──ああ、そうか」
彼我の距離を踏み潰すように、彼と彼女がつくりだした深海の世界へ爪先を割り入れる。
「……? あれ、夜鷹さん? って、え、ちょっと!」
カツカツと威嚇の如く響く足音に気付いた彼が驚いたように顔を上げ、わたわたと両手を上げ下げした。そこに先ほどまでの静謐な気配は微塵もない。霧散したのではなく、隠されたのだ。どこまでも巧妙に、まるで魔法のような鮮やかさで。
「岡崎さん起きちゃ、」
「見つけた」
「……へ?」
間抜けに口を開けた青年の胸倉を掴み上げ、込み上げる想いのまま、汀も波音もいっしょくたにして夜鷹は笑った。
「やっと見つけた、やっと解った。君、分かってて黙ってただろ。そんなに逃げたかった? でも残念だったね、思い出したよ」
だから、と男は嗤う。美しく、獰猛に、我がままに。杖に振られた先で得た、気高く強い猛禽の笑みで。
「今度は聞いてくれるよね。──僕の魔法使い」
「………………え”っ」
「……起き抜けになにコレ? 修羅場?」
要約:捕まっちゃったね!
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