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【拾陸話】
「将棋ってそんなに面白いの?」
「――やってみますか?」
「少し、教えて頂きたいわ」
「今しがた駒の役割を掴んだ所だよ。教えれるかどうか――」
衣擦れ音に畳みの軋む音。
如何やら二人は将棋を始めたらしく、今までよりも頻繁に鳴り始める駒の音を聞きながら来るなり部屋から出て行った樋口の背中の面影を見ていた。
何か在ったから来たんだ。――何が在った?
聞きそびれた本題に益々大きく膨れ上がる不安。
思考に耽り視野の狭くなりつつあったその目の端に見えた少女にふと違和感を感じた。原因の分からぬ違和感に思わず不躾に彼女を観察しているとずっとこちらに背を向け庭を見ていた彼女がゆら――と風に流された華の様に身を揺すりこちらを振り返った。
「私がここを出てしまったら教授はお暇ですね」
「あはは。では話し相手になってくれますか?」
「いえ、そうしたい所なのですが私はあちらを手伝いに行かねばなりません。如何でしょう、庭でも散策なさったら――須藤さんの作品です。自慢の庭ですので――」
そう云われては行かねばなるまい。勿論こういった趣向は嫌いではないが
実家の人間といい、遙さんといい、私に関わる人間は何故こうも庭を愛でさせるのであろう。そんなに好事家に見えるのだろうか――
「ではお言葉に甘えて――」
「お食事時にはお声を掛けさせて頂きます。あ、そうだわ。午前中に須藤さんが庭に水を撒いてらっしゃったから足元にお気をつけて、特に石橋は足元をよく見てお渡り下さいね。」
「ご心配痛み入ります。」
彼女の念入りな注意喚起に思わず苦笑して部屋を出ると彼女もその身を部屋から出し「私も土間に――」と彼女が微笑んだ。
微笑み返して玄関まで向かうと靴を履き、何となく後ろを振り返った時、
向かう間合いを計っていたのか部屋からその身を少し出したまま土間の様子を伺っていた彼女が少し笑っていたのが見えた。
樋口が来た理由を考えるとあちらで楽しいやり取りがされているとは考えがたい。彼の云う通り普通の世間話か――事件の聞き取りを兼ねた切ない誘導尋問だろう。
――世間話が事の外盛り上がっているから遠慮して間合いを計っているんだ。――それにしては冷たい笑い方だった様に見えたのだが――
先程の違和感がその引っ掛かりを補佐する。
そうか、あの違和感はらしくなさ、だ。
彼女は非常に腰が低い人に見えた。必要以上に頭を下げ、笑い、細やかに動く人に見えた。しかし、樋口が行っても別段すぐに追いかける訳で無し、只私に背を向けて庭をじっと見ていた。
――ただ惚けていただけだろうか、それとも何か他に――彼女には別の顔が在るのかも知れない。
いや、誰にだって色んな仮面を被る事はする。仮面を被らない者など居ない。居たとしたらそれは被って居ない顔と云う仮面を被っているのかその存在に気が付いていないかであろう。
人間には沢山の社会が在り、各々に架せられた戒律があり、付き合うべく種類の違った人間が居る。一つの顔だけでは対応出来ないし無益な衝突で何かの時に協力すべき繋がりを失ってしまうかも知れない。
沢山の〝自分では無い人〟と関わる為に人は沢山仮面を作り演じるのだ。
良く思われたくて被る仮面も在ろう。悪く思われたくて被る仮面も在ろう。相手を傷つけまいと被る仮面を在ろう。その逆もまた然りだ。
全ての仮面に存在意義が在るのだ。そしてそれは別段悪い事では無い。
だがこれはそう云った種類では無く――。
抑圧された中から耐えかねてはみ出て来た感情の様な。
いやいや、予断で考えるのは良くない。前もって蒼井さんから聞いた彼女の身の上が思いの外私の脳を縛ってしまっているのだろう。非常に論理的では無く感覚的な感じ方である。無意味だ。それは只の妄想でしかない。
振り切る様に伸びをして玄関を出ると飛び石のある場所のすぐ傍に立つ離れに向かった。どうせ庭を見せて頂くならその作者である須藤さんに話を伺いながら歩く方がよりその良さが分かるだろうと思ったからだ。
玄関の戸を叩く。がしゃがしゃと硝子の揺れる騒々しい音が出る。
返事は無い。
「すいません、須藤さん、いらっしゃいますか?」
返事は無い。
「須藤さん、須藤さーん!」
「はいはい、何でしょう?」
返事は離れでは無く、庭の方から聞こえたから私はそちらに向かう事にした。離れから歩いてそう遠くない灯篭の下に彼は居た。
「いやいや、昼飯までにこの雑草を抜いて置こうかと思ってな。」
「仕事熱心ですね」
「少ない生きがいって所かのぅ」
彼はそう云いながら顔を上げ、少し曲がった背を伸ばし、庭を見渡し
まるで我が子を見る様な目をして微笑んだ。
「庭を見せて頂こうと――遙さんが自慢の庭だと仰ってました。」
老人は非常に照れくさそうな顔をして暫く何かを考えた顔をした。
「毎日毎日手入れしてきた甲斐が在ったよ。本当に――本当に――」
そう云って首に掛けていた手拭いで何度も何度も顔を拭いた。
「いい年した老人が涙ぼろいなど――」
「いいえ、お泣き下さい。出るものは出した方が自然でしょうに。」
老人は敢えて冷淡な言葉を選びおどけた私を見て少し笑った。
「そうですね。屁でも我慢すりゃ腹が痛くなる」
「そうそう。」
老人はふっと顔を緩めて笑った。
「この家の人は皆悲しそうな顔をしてらっしゃる。
ここで何が在ったのですか?」
「教授も感じるでしょう――この家はもうぎしぎしと
音を立てております。」
私は思わず老人の横顔を見た。とても深い悲しみを湛えた瞳だった。ふと老人は歩き始めて傍にあった椿の葉を撫ぜた。
「儂もここにいつまで居られるかのぅ――」
「どう云う事ですか?」
「この呆けた目には何も映っておらぬのです。なぁんにも――」
彼は歩き始めた。私は慌ててその後を追った。
目の前にある背中は小さく丸まってとても寂しげに見えたのは
彼の言葉の所為だろうか。
これは櫻、これは松、これは菖蒲――
彼は庭を回りながら花とそれに纏わる話をしてくれた。
とても興味深い話では在ったが私は何処か胡乱にその話を聞いていた。
水音がする。小さな石橋があった、その橋は彼女の云った通りにしっとりと濡れていた。彼女の執拗な忠告を思い出して慎重に――神経を研ぎ澄ませて橋に足を掛けた。
「ここの鯉(チリ)はとても珍しい鯉で(チリリ)――管理が難しゅう(チリ)てな。水は淀ませて(チリリ)はいけな――」
須藤さんの講釈の間を縫って聞こえる仄かな金属音。
神経を研ぎ澄ませていたので無かったら聞き逃す程、それは微かな音だった。
「何か金属音がしませんか?」
「――ん?――少しするな。何か金具が外れたんじゃろうか。」
「金具?」
「排水管の――」
そう云いながら須藤さんは橋に跪いて下を覗き込んだから私も続いた。
「特に何も――」
「無いですね。あ、こんな所に銀色の――」スプーンが見つかった。
「それが鳴ってたのかも知――あ、教授の右の方に――」
「ああ、在りますね。」
音と水の動きが在っている。これが原因だったのだろう。
排水管の手前、吸い込まれそうなりながらも水にゆらりゆらりと流され抵抗していたそれは小さな橋げたに糸の様なもので繋がれている金色の――あれは指輪?
私は手を精一杯伸ばしてそれを取り水上へ持ち上げた。
金色のそれは水に浸っていた所為か少し煤けていて糸がそれに絡まっていたのだがその丸い金属の中は何かぶよぶよとしたモノで埋まっていた。ヘドロか何かの卵だろうか。芯の様なものも見える。
私と須藤さんは互いに顔を見合わせて首を傾げた。
「とりあえず――館の主である志津子さんに渡しましょうか」
「そうだなぁ。しかし何処かで見た様な――」
とりあえず気味が悪いので玄関近くにあった盆栽の端に其れを置くとまた庭の散策に戻り、老人の話を聞いていた。
手にはまだあの気味悪い物のどろっとした感触が残っていたので
どうにも不自然な仕草になってしまうのを須藤さんは笑ってみていた。
「奥様に聞けば何か判るんじゃないか、気にせずに」
「そうしたい所ですよ――」
先程の所に戻って屋敷の――丁度玄関と対角線上に位置する場所に蔵があるのが見えた。
「あれは――?」
「ああ、調度品なんかを入れておく蔵だ。奥様は昔のご職業柄、衣装を沢山お持ちでなぁ」
「なるほど、服が入ってますか――」
「服以外も入っているよ。何でも遙さまのお父様が
大層美術品に凝ってらしたと――」
「お伺いしても宜しいですか?」
「ん?」
「お父様の名は――」
老人は笑った。
「儂はお嬢様の父親が来なくなった位に此処に来たんだよ。塀から出た松が非常に品がねぇって壁の外で愚痴てたらその壁越しに聞こえてたんだな。入って来いと云われて儂ぁもうちびりそうだったよ」
「で、雇われたと。」
「そうそう。住み込みで――ってな。家も家族も戦火で焼けちまった後だったんで――」
「なるほど。で、どんな方でした?」
「あー――何て云うのかなぁ。身分が高いだろうな、と云うのは一目で分かったよ。着てる物かな、出で立ちかな。なんせ酷く圧迫感を感じさせる人間じゃった。」
「強面の?」
「いや、どちらかと云うと――ああ、教授が連れて来てただろ、あの――の――の―。」
「野々村――」
老人は手を打った。
「そうそう。あの子の様な色白の――線の細くて中性的な人だったよ。」
「そうですか――」
「名前は教えてもらえなかったけどね」
「そうですか――」
合図も無しに私達は蔵に近づいた。衣装が多いと聞いたが成る程。
酷く樟脳の香りが当たりを包んでいた。それが鼻をくすぐって思わずくしゃみを漏らした。
「旅行から帰ってきたらこうなってたんです。季節が季節だし、衣替えでもなさったんだろうなぁ」
「入った事在りますか?中に」
「まあ、婦人の衣服が沢山入ってる様な場所、儂は入らせて下さいとは云えないがね」
「それもそうですね」
二人笑った。その時、不意に屋敷から騒々しい音が聞こえた。
「―――――さーい!誰かぁー!――とげとげした刑事が――――んかぁー?―――――痛えぇぇ!」
大きく張られた声だけがこちらに聞こえてくるので
途切れ途切れに聞こえた。
そう云えばいつだったか樋口が馬鹿だか阿呆だか云ってた部下の話を聞いた事が在る。緊張感が無いだの何だの、近頃の若者はなぁ――と溜息を付いていたな。
「お前さんの知り合いか?」
「いえ、刑事が如何とか云っていたので樋口の知り合いかと――」
「樋口――?ああ、さっき来たあの江戸末期の野武士の様な山賊の様な風貌の――」
「ああ、そうです、そうです。」
「何故――此処にいらしたのだろうなぁ――知り合いだそうじゃが、
約束していた訳じゃ――」
「無いですね。まったくの偶然で――須藤さん、私も何が何だか分かっていないのですよ。でも何か得体の知れない流れの中に居る、そんな気がして気持ちが悪いのです。」
老人は蔵の周りに敷いて在る玉砂利を足で均した。
「何か―――ご存知なのでは無いですか?」
老人はその作業を止めない。
「須藤さん、何か判れば打つべき手が見つかるかも知れ無いんですよ!」
「打つべき手とやらを打てばどうなる」
「分かりません。何も実像が見えて無いので如何にも言えません。」
「打てば助かる人が居るのか?」
「そうかも知れないし、そうでないかも知れません」
「逆に止めを打ってしまう事も在る」
老人は作業を止め、空を仰いだ。
「止まりそうな息ならいっそ止めて欲しいと思う誰かが居るかも知れません。傷は風に曝さないと固まりも治りもしないのですよ。例えどんなに苦痛を伴っても。日陰に隠せば隠す程、醜悪に膿み爛れるだけです。」
老人はしばらく思考を巡らせていた様だが諦めた様な顔をして首を振り――
「荒れた玉砂利にいつからか多目に作られていた食事の量が儂が旅行から帰ってきたらちゃんと人数分になっておった事、そして相変わらずの遙お嬢様の夜の徘徊――いつとも知れぬ容子さんの失踪。儂のこの片目で見えたものはこれだけです。」
「容子さんは――失踪ですか?」
「いや――ご旅行じゃったのぅ。失敬失敬。」
彼の横顔を見つめたが彼からそれ以上言葉が出て来る事は無かった。
他にも何か知っているか感じている事が在るのだ。
暗に彼は証拠が無いし奥様がそう言い張るからそう思っているが
彼は失踪と確信する何かがある――と云っているのだ。
いつの間にか日は高く高く上がっていた。
「お昼も相当過ぎたでしょうに――まだお呼びが掛かりませんね。」
「可笑しいのぅ。いつもならとっくに食べ終わっている位じゃ。」
「何か――在ったのでしょうか――」
私達は顔を見合わせて少し小走りに屋敷に向かった。
ずっと蔵の近くに立って居た所為か自分の体中から樟脳の香りが漂った。
纏わり付く様にそれは香った。
まるで何かの粘液の様に――
体をじわじわと侵食して自分の身が食い尽くされてしまう様な
そんな奇妙な感覚がした。
【続く】
いつも良いねしてくれて有難う。
勇気出して更新してみた甲斐があった気がしてます。