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喫茶 桜の
一日の作業がすべて終わり
リビングでの夕食も
無事に済ませた頃だった。
「では、失礼しますね。
行きましょうか、アリアさん」
食後のゆったりとした時間が流れる中
二人は連れ立って席を外す。
時也は
アリアの入浴ですら
甲斐甲斐しく世話をするのが
常日頃だった。
(相変わらず⋯⋯過保護な奴だな。
それもアイツが言う
それぞれの愛の形⋯⋯ってやつか)
そう考えながら
ソーレンは自分の中で
燻る何かを持て余していた。
青龍はといえば
時也とアリアがいないこの時間帯は
裏庭で静かに過ごすのが習慣で
姿が見えない。
その為
リビングには
ソーレンとレイチェルの
二人だけが残されている。
ソーレンは
ふと背もたれに寄りかかりながら
窓の外を眺めた。
残された二人の間には
なんとも言えない空気が流れていた。
「⋯⋯俺の特製コーヒー
入れてきてやるよ」
沈黙を打ち消すように
ソーレンが不意に立ち上がり
ややぶっきらぼうに声をかけた。
その言葉に
レイチェルは、ぱっと笑顔を浮かべた。
「うふふ!
じゃ、私も一緒に
デザートを用意しようかな!
レイチェルちゃん特製
レアチーズケーキがあるのだよ!」
「はは!そりゃ、いいな」
レイチェルの明るさに
ソーレンの心が
少しだけ解れた気がした。
二人は
自然な流れでキッチンへと向かい
それぞれ準備を始める。
ソーレンはミルで豆を挽きながら
隣でケーキを取り分ける
レイチェルをちらりと見る。
(⋯⋯楽しそうにしてんな)
その無邪気な笑顔を見ていると
なんだか自分が焦っているのが
馬鹿らしく感じてくる。
ケーキを
皿に盛りつけるレイチェルが
ふとソーレンの手の近くに
手を伸ばそうとした瞬間——
(⋯⋯触れてぇ)
ソーレンは無意識に指先を動かし
ほんの僅かに
レイチェルの手に触れてみた。
レイチェルの手の甲に
指が微かに触れ合う
その一瞬が妙に長く感じられた。
その感触に気付き
レイチェルが首を傾げた。
「⋯⋯ん?どうしたの、ソーレン?」
ソーレンは動揺を隠しきれず
慌てて手を引っ込める。
言葉が出てこない。
胸の奥が急に熱くなって
何を言えば良いのか分からない。
「⋯⋯あのさ⋯⋯
俺、こんなんだけどよ⋯⋯お前⋯⋯」
ぎこちなく搾り出した言葉に
レイチェルは目を丸くして聞き返す。
「うん?」
「⋯⋯いや、何でも⋯⋯ねぇ」
情けない自分に苛立ちながら
ソーレンは言葉を飲み込んだ。
(俺を⋯⋯男として 見てくれるのか?
なんて⋯⋯言えねぇ)
そんな彼を見つめたまま
レイチェルはふっと微笑んだ。
「ねぇ、ソーレン?
私、きっとね⋯⋯
ソーレンの事が好きなんだと思うの!」
その言葉が突き刺さり
ソーレンは一瞬硬直した。
「⋯⋯⋯は?」
「私ずっと、異能の事で悩んでて
恋愛感情なんて持つ暇も無かったから
本当にこれが恋なのか⋯⋯
自分でも
ハッキリわかんないんだけどね!
でも何故か⋯⋯
今、言わなきゃって、思ったの!
ごめんね、急に」
レイチェルの真っ直ぐな瞳が
ソーレンを捉えて離さない。
「こんな⋯⋯俺を?」
「うん!
そんなソーレンが
まだ多分だけど、好きよ!
っていうか⋯ソーレンじゃなきゃ
駄目なのかもね」
ソーレンは
その答えに少しだけ目を見開き
気恥ずかしさに苛まれながら
ぼそりと呟いた。
「お前⋯⋯馬鹿だろ?」
その一言を残して
コーヒーを持って
ズカズカとテーブルへ向かう。
「俺も⋯⋯お前が、気になってる⋯⋯」
その声、震えるように掠れていた。
「え?何、聞こえない!」
レイチェルが
後ろから追いかけるように言うと
ソーレンは振り返って怒鳴った。
「うっせぇ、バカ!
早くケーキ持って、隣に座れよ!!」
その言葉に
レイチェルは目を輝かせて笑う。
「ふふ!〝隣〟で良いのね?」
「⋯⋯⋯おう」
その素直な返事に
レイチェルは心底嬉しそうに笑った。
「隣に居させてくれて、ありがとう。
ソーレン!」
その言葉が
どうしようもなく胸を締め付ける。
(俺で良いなんて言うバカが⋯⋯
この世にいたなんてな⋯⋯)
ソーレンは
気まずそうに顔を背けながら
湯気の立つコーヒーを一口飲んだ。
コーヒーとケーキのように
苦くて甘い感情が
ソーレンを包んでいく。
自分でも知らなかった
柔らかく暖かい気持ちが
胸の奥で静かに
広がっていくのを感じていた。
⸻
夜風が静かに吹き抜け
裏庭の木々が
微かに揺れる音が響いていた。
夜空には薄雲がかかりながらも
月明かりが朧に輝き
薄青い光が
庭全体を優しく照らしている。
湯上がりのアリアは
まだ僅かに頬を紅潮させたまま
ベンチに座っていた。
白い寝間着にストールを身に纏い
濡れた長い金髪が肩に流れ
そのまま風に揺られている。
その傍らには、時也が立っていた。
着物姿のまま
夜風を受け
アリアの風下に立つと
着物の袖から煙草を取り出し
火をつける。
ライターの小さな炎が
一瞬だけアリアの横顔を照らし
その後すぐに闇に溶けた。
時也は火をつけた煙草を咥え
細く煙を吐き出す。
その煙が夜風に流れ
月光の中へと溶けていく。
「夜風がちょうど良いですね?
アリアさん」
時也は穏やかな笑みを浮かべ
アリアにそう声をかけた。
アリアは何も言わず
瞳を閉じて夜風を感じている。
その無言の返事が
時也にとっては十分な答えだった。
時也の隣には
青龍が静かに佇んでいる。
幼子の姿のまま
堂々とした姿勢で煙管を唇に挟み
時也と同じように
煙を燻らせていた。
月光が幼い姿の青龍を照らし
その山吹色の瞳が
夜空に昇っていく煙を追っている。
「もう少し⋯⋯このままでいましょう。
二人の邪魔をしたくは、ありませんしね」
時也はゆったりとした口調で呟き
アリアの表情を窺う。
アリアは薄く目を開け
微かにだが頷いた。
その動き一つにも
どこか安堵が滲んでいた。
青龍は静かに煙を吐き出し
煙管を少し傾けながら呟く。
「全く
あの不肖の弟子は 臆病で⋯⋯
こうでもせねば踏み出せぬとは
実に情けない⋯⋯」
その言葉に、時也はくすりと笑った。
「ソーレンさんは
ああ見えて繊細ですからね。
自分の想いを認めるのに
相当な勇気が要るのですよ」
青龍は眉を顰め
少し不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「⋯⋯全く
鍛え方が足りないのでしょう。
あの男は心に隙が多すぎる」
その言葉を聞き
アリアは無言でふっと唇を緩めた。
時也はその僅かな変化に気付き
柔らかな声で続けた。
「⋯⋯でも、彼もようやく
愛を知る入り口に
立ったのだと思いますよ。
レイチェルさんの真っ直ぐな気持ちに
ようやく応え始めた」
青龍は僅かに煙を吐き出しながら
目を細める。
「不肖ながらも
やはりあの男は強い⋯⋯
強いからこそ
心が揺れる事を恐れているのでしょう」
「ええ。
だからこそ
今のソーレンさんには
レイチェルさんが必要なのです。
心を溶かし、愛を注げる
あの優しさが⋯⋯」
青龍は煙管を咥えたまま
じっと考え込むように空を見上げた。
「時也様は、本当に
人の背を押してばかりで⋯⋯
お優し過ぎです」
「⋯⋯僕も昔は
ソーレンさんのように悩みましたよ。
アリアさんの傍にいる資格が
自分にあるのかどうか。
だから
彼の気持ちが良く解るだけ⋯ですよ」
その言葉に
青龍はちらりと時也を見上げた。
「それで?今はどうなのです?」
「ええ
今では自信を持って断言できます。
アリアさんの隣に立つのは
僕でなければならない⋯⋯と」
青龍は一瞬目を伏せたが
すぐに頷いた。
「ソーレンさんも
あの冷たい心を溶かす為に
きっとこれから
愛の形を模索していくでしょう。
レイチェルさんという存在を
手に入れた以上
もう逃げることはできませんからね」
その言葉を聞きながら
アリアはそっと時也の袖を引いた。
そのささやかな動きに
時也は優しく微笑み
煙草を灰皿で消すと
隣に腰を下ろす。
アリアがゆっくりと
時也の肩に頭を預けた瞬間
青龍は静かに目を伏せた。
「⋯⋯二人が歩み始めたならば
我々もひと安心でございますね」
青龍はそう呟き
再び煙管を口元に運ぶ。
三人の間に流れる
静かで優しい空気。
月明かりに照らされた
庭の草木がさざめき
夜風がその穏やかな時間を
包み込んでいる。
リビングでは
ソーレンとレイチェルの不器用な恋が
ようやく動き出したばかりだった。
裏庭では
その恋の芽吹きを静かに見守るように
三人は月と桜を眺める。
夜はまだ長く
そして穏やかに続いていくー⋯。