リビングの空気に
ほのかに甘いチーズの香りと
深煎りの豆の香ばしさが満ちていた。
テーブルに、隣り合って座る二人。
ソーレンは無言で
チーズケーキを一口運び
口の中でじっくりと
溶かすように味わった。
「⋯⋯ん。美味いな」
素直な感想が、低く短く漏れる。
その一言に
レイチェルは目を輝かせて
嬉しそうに微笑んだ。
「うん!
コーヒーとレアチーズケーキ
めっちゃ合うね!」
無邪気な笑顔と明るい声。
まるで矢のように
ソーレンの胸を突き刺す。
言葉を返そうと口を開きかけたが
喉の奥でつっかえてしまい
言葉にはならなかった。
代わりに
無言のままコーヒーを手に取り
ゆっくりと口元へ運ぶ。
苦味と香ばしさが舌に広がり
微かな熱が胸の奥に降りていく。
落ち着くようで、落ち着かない。
それでも
少しだけ心のざわめきが
静まるような気がした。
二人の間に、しばしの静寂が流れる。
カップがソーサーに当たる
微かな音だけが響いていた。
やがて、ソーレンがぽつりと呟く。
「⋯⋯お前
さっきの話⋯⋯マジなんだな?」
レイチェルは
フォークを
口に運ぼうとしていた手を止め
きょとんとした顔で彼を見つめた。
「⋯⋯俺のこと、好きって⋯⋯」
その言葉に
レイチェルは一瞬目を見開き
次の瞬間には頬を赤らめて
はにかむように視線を落とす。
「⋯⋯うん。
確信持てないけど⋯⋯
でも、やっぱりソーレンが好き」
静かで
けれども真っ直ぐな言葉だった。
ソーレンは思わず頭を掻く。
この気恥ずかしさと
胸の奥で煩く暴れる鼓動に
どう向き合えば良いのか分からない。
「バカ⋯⋯
そんなストレートに言うなっての」
言いながら
口元には小さな笑みが滲んでいた。
レイチェルは
そんなソーレンの
不器用な優しさを感じ取り
くすくすと笑った。
その笑い声が
ソーレンの胸に
じんわりと染み渡っていく。
かつて、酒の席で
飾り立てた女達から
好意の言葉を受けたことは
過去に何度もあった。
だが、何も感じなかった⋯⋯。
音のない空虚さと
冷めた気持ちだけが残った。
それなのに
レイチェルに言われると
どうしてこんなにも胸が騒ぐのか。
答えはまだ見つからない。
けれども
心が動いていることだけは
確かだった。
(きっと⋯⋯あの女達には
俺の感情が無かったから⋯なんだろうな)
気まずい沈黙が流れる中
ソーレンは小さく息を吸ってから
思い切ったように口を開いた。
「⋯⋯俺も、たぶん⋯⋯
お前が好きなんだと思う。
どうにもこうにも
気になって仕方ねぇし……」
レイチェルは顔を上げ
驚いたように彼を見つめる。
「ほんと?ほんとに?」
期待と不安が入り混じった声。
ソーレンは頷きながら、顔を背けた。
「⋯⋯ああ。
だから、その⋯⋯隣にいてくれ⋯⋯」
辿々しい告白だった。
だが、レイチェルの目には
その一言が何よりも重く響いた。
「うん、ずっと隣にいるね!」
その無邪気な言葉に
ソーレンは溜め息を吐くように笑った。
どこか肩の力が抜けたような
安心したような――
そんな表情だった。
「⋯⋯手、繋いでも⋯いいか?
これから⋯⋯ちゃんと慣れるからよ」
恐る恐る差し出された、言葉と手。
それは、彼なりの誠実さだった。
レイチェルは
そっと自分の手を重ね
指先が重なり合う。
静かに、けれど確かに温かい。
その繋がれた手を
ソーレンは少しだけ引いた。
カラリ
手から滑り落ちたフォークが
テーブルの上で音を立てる。
引かれる手
そして
ゆっくりと近付くソーレンの顔。
その顔が、妙に色気が強すぎて
レイチェルの思考は
一瞬で真っ白になった。
「⋯⋯ちょっ!待っ⋯⋯!
それは、私が慣れないっっっ!!」
慌てたレイチェルが
勢い良く両手で
ソーレンの顔を押し戻した。
ぐっと押されたソーレンは
バランスを崩しながらも
顔を真っ赤にして震えていた。
「⋯⋯お前⋯⋯っ、俺が⋯⋯
どんだけ、今⋯⋯勇気出したと⋯⋯
思ってんだよ⋯⋯っ!」
押されながらも、半ば叫ぶような声。
だが次の瞬間
二人の間に沈黙は訪れず
どちらともなく吹き出してしまった。
笑い声が夜のリビングに響き
温かく満ちていく。
背後では月明かりが
カーテン越しに淡く差し込み
静かな夜を照らしていた。
甘くて、苦くて、少しだけじれったい。
それでもようやく
二人の恋が一歩を踏み出した瞬間だった。
二人の笑い声が収まり
リビングには再び静けさが戻ってきた。
コーヒーの湯気が薄く立ち上り
甘酸っぱいレアチーズケーキの
香りが漂う。
隣り合って座ったまま
ソーレンとレイチェルは
視線を合わせず
互いに目を伏せたまま
手の温もりを確かめていた。
ソーレンは
手に持っていたマグカップを
テーブルに戻し
深く息を吐く。
「お互い⋯⋯
いろいろと慣れていこうな。
俺は多分⋯⋯
理解できなくて 傷つけちまう事も
かなりあると思うが⋯⋯
遠慮なく言ってくれ」
言葉を紡ぐたびに
自分の声が少し震えているのを感じる。
心臓が煩く鳴っているのが
レイチェルにも伝わってしまいそうで
ソーレンは自分を落ち着かせるように
拳を握りしめた。
レイチェルは、その言葉を聞き
思わず顔を上げた。
彼の横顔はどこか照れくさそうで
けれども真剣な色を帯びている。
その姿を見つめながら
レイチェルの頬が
少しずつ赤く染まっていった。
だが
彼女は微笑んで、小さく頷いた。
「ふふ!
なら⋯⋯ハグから、慣れても良い?
キスは、まだ恥ずかしいけど
ソーレンになら⋯抱きしめられたい」
その言葉に
ソーレンの喉が一瞬で詰まった。
普段の無邪気さとは違う
少しだけ大人びた言葉。
意識してしまうほどに、胸が高鳴る。
「⋯⋯ばか
そんな可愛い顔で言うなよ⋯⋯」
思わず小さく呟きながら
ソーレンはゆっくりと腕を広げた。
少し戸惑うように
けれど確かな優しさで。
レイチェルはおずおずと
その腕の中に自分の身体を預けた。
広くて、暖かくて
力強い胸板に
自分の体温が
吸い込まれていくような感覚。
その瞬間
心音が互いに共鳴するかのように
リズムを早めていった。
どちらの鼓動なのかも
分からないくらいに
響き合う。
ソーレンは、そっと腕を回し
レイチェルの背中に優しく触れた。
彼女の小さな身体が
少し緊張しているのが伝わってくる。
だが、ふわりと香る甘い匂いと
華奢な肩越しに感じる温もりが
彼の心を柔らかく解していく。
レイチェルは
ソーレンの胸に顔を埋めながら
震えるように囁いた。
「ソーレン⋯⋯好き」
その一言が
ソーレンの耳元で微かに震えた。
一瞬
胸がきゅっと
締め付けられるような感覚。
思わず息を飲み込み
レイチェルの髪に顔を埋めた。
彼女の髪が頬に触れ
くすぐったい感覚が甘く広がる。
「⋯⋯ばか。また、キスするぞ?」
そう言って
ソーレンはレイチェルの頭を
そっと撫でた。
その指先が
優しく髪を梳き上げる度に
レイチェルの体が小さく震える。
レイチェルは
腕をソーレンの背中に回し
ぎゅっと抱きしめ返した。
「やっぱり、がんばってみようかな
⋯⋯でも、もうちょっとだけ⋯⋯
ハグのままがいい⋯⋯」
彼女の声が
胸元からくぐもって響く。
「⋯⋯おう。
好きなだけ、抱きしめててやるよ」
ソーレンは優しく微笑み
彼女を包み込むように抱きしめた。
そのまましばらく
二人はお互いの温もりを
感じ合っていた。
少し冷えた夜の空気が
二人の距離を
より近づけたように感じられる。
不器用だけれども
確かに芽生えた恋の形。
ソーレンは
レイチェルの髪を優しく撫でながら
ゆっくりと心を落ち着かせた。
胸の中で感じる
小さな柔らかさが
愛おしくて仕方ない。
(俺の愛の形は⋯⋯
コイツの形、してんのかもな)
レイチェルもまた
ソーレンの大きな腕の中で
心の奥がじんわりと
温かくなるのを感じていた。
ぎこちなくても、手探りでも
二人で少しずつ慣れていけばいい。
そんな気持ちが
月明かりのように
静かに心を満たしていった。
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