夢日記7日目。
私の前方に見えた影の正体が分かった。
私はあえてこの事実を明かさないことにする。というより、認めたくないのだ。
その事実を認めることが、何か不穏な予感を的中させることに繋がりそうで末恐ろしい。
舟が進む先にあるものは、明らかに良からぬことが起こる前触れであるように思う。
私にもはっきりと声が聞こえたのだ。
「おまえをころす」
そう男の声が私を脅した。
いや、私と”もう1人”に向けられた声のように思う。
辺りは霧が立ち込めているのに、頭の中では霧が晴れたようにクリアだ。
全てを察した気分になる。
私たちが向かっている先は、つまり……。
夢日記8日目。
滝だ! 滝だった! そうだったのだ!
どうどうと流れる音。それは滝の音だった!
はっきりと見た。
私たちが舟で流れ着く先は滝なのだ。それもうんと高い滝である。落ちたらひとたまりもないだろう。
そして、もう事実から目を背けることはできなかった。たった1日で前言を撤回しなければならなくなった。
それほど、強烈な体験だった。
影の正体は、人間である。だが、その人間が誰であるかは言いたくない。
たとえ日記であろうとも。その名を書きつけることに躊躇いを覚える。
夢の中の私は視線が釘付けになった。
先の方にいるもう1人は、顔を青ざめさせて泣いて懇願した。
「助けて。お願いします。助けてください」
男の声がする。
「おまえをころす」
「いや! お願い。助けて」
もう1人が振り向く。そして、驚愕した表情で私を見る。
気づいたのだ。夢と現実は地続きであることに。
これが、夢であり、リアルであることに。
私たちは「死」へ向かっている。
理屈はいらない。分かるのだ。
しかし、冷静になる私がいた。いや、冷酷になる私だ。
彼……この世ならざる男の声は、こう言っている。
「おまえをころす」
この言葉から私は気付いた。
男はあの世へ”1人だけ”連れて行こうとしている。
おまえたち、ではない。おまえなのだ。1人だけで満足なのだ。
どちらか1人が犠牲になれば、どちらかが助かる。
カルネアデスの板。
そう、これは緊急避難だ。私は何も悪くない。
だって、私だって危ないのだから。
仕方がないのだ。
誰が、私を責められよう?
「ねえ、何であなたがそこにいるの? これは夢なの? 現実なの? 教えてよ」
知らない。
私にも分からない。ただ、はっきりしているのは死神が私たちを呼んでいるということだけだ。
なぜ、私たちなのか。なぜ、どちらかなのか。それも分からない。
二隻の木船が、闇夜と見紛う木々に嘲笑われながら死へ向かう。死神の呼び声に誘われながら。
こんな馬鹿げた状況は、夢に違いない。けれども身体が拒否している。
行ってはならない、と。
警告を発している。赤赤としたライトがサイレン音と共に回っているイメージが頭の中を駆け巡る。
「私たち、友達でしょ? そうでしょ」
そうだ。いや、そうだった。
でも、今はもう違う。それは……お互いわかっているはずである。
最近では、夢日記の話をしなくなってから、あまり交流もしていない。
気まずい雰囲気が2人の間には立ち込めているのだ。
ああ、いけない。
これは夢日記なのだ。続きを書かなくては。
「ねえ、聞いてるの。お願い。助けて」
そう言われた私は、何も答えなかった。
口を聞こうとしなかったのではない。以前にも書いたが、私は映像を見るようにしているだけで、夢の中で自由には動けない。
私はぼんやりと、その顔を眺めることしかできなかった。
「おまえをころす」
男がまたそう言った。
彼女は怯え切った表情で叫ぶ。
夢は途切れた。
夢日記9日目。
木舟は静かな霧中を進み出す。暗い、暗い木々に囲まれて。
肌に微弱な風が吹きつけて、新しいカーディガンをはためかせる。
そうして何もない時間が過ぎゆく。
平穏。情景を切り取るならそんな感想が浮かぶ。
しかし、やがて音が聞こえ出す。
ざわざわ。ざわざわ。
まるで誰かが耳元で囁いているようだ。
今から思えば、これは天使の警告だったのかもしれない。
そこで、引き返せれば、変わっていたかもしれない。
音が変わる。
どうどう。どうどう。
激しく、何かが打ちつける音。正体がわからない。
若干の不安を覚える。心に闇が差し込む。
その隙を逃さぬように、声が私を脅す。
「おまえをころす」
平坦で、抑揚のない声。
不思議と恐ろしさをあまり感じない。それは諦めのこもった服従なのだろう。
この声の主が何者かはすぐに分かる。
前方。影が見える。
だんだんと大きくなる。
姿形がはっきりする。
人間。
瞬間、どうどうという音が、目の前に広がる光景から何かわかった。
滝だ。
開けた視界からは崖が一望できる。とんでもなく高い。
落ちる先は当然見えないけれども、いまここにいる地点が頂上であることはわかる。
「おまえをころす」
男が再び言う。
この男の声は、死神なのだ。そして、私たちが向かう場所は死そのものなのだ。
どちらかが死なねばならないのだ。
すべてを理解する。
ここは夢であり、現実。夢と現実の区別などつけられない場所。
何の因果かはっきりしない。だけど私たち2人が選ばれたのは必然だったのだ。
運命は決まっていたのだ。
前方の人間が叫ぶ。
「助けて」と何度もだ。
私はただそれを見ている。
昨日と何も変わらない。
そう思っていた。
だが、思えば毎日夢は少しずつ続きを見ていった。
答えは出ていた。
その先を見なくてはならなかった。いやだ。見たくない。
運命はそれを拒んだ。
「もういい。そっちに行く」
そう言って、前方の人間は向きを変えた。
そっちに行く? いや、そんなはずは……。
そう思った途端、女は必死に手で漕ぎ出した。
馬鹿な。
そう思った。ここは滝が流れる水上だ。手漕ぎでこっちへ来ることはできない。
それなのに、どんどんこっちへ向かってきた。
これは、夢だ。いや、現実だ。でも、そのどちらでもある。
言葉がもつれる。言いたいことは、すべて正しいのだから何と言っていいかわからない。
そんなことを考えているうちに舟は私の前へやってきた。
なぜ、彼女は動けるのだろうか?
私は不思議に思った。
でも、いつしか話したことを思い出す。
そうか。 明晰夢だ。
明晰夢を見ることができていたではないか。だから動けるのか。
そう考えた途端、私は気付いた。
私自身、動けるようになっていることに。
夢日記だ。
夢日記を付けると、明晰夢を見やすくなると聞いたことがある。
実際、彼女も1日目は自分の意思では動くことができなかったはずだ。
私はいつの間にか、首を動かす以外の動作ができるようになっていた。
言葉も返せた。
「死ぬのは」
「え?」
彼女が聞き返す。
私は言い直す。
「死ぬのは嫌だ」
「私もよ。ねえ、だから」
「だから、あんたが死んで」
私は前に来た彼女に掴み掛かった。
突然の攻撃に困惑と驚きの表情を浮かべている。
「これしかない。私は悪くない」
そう叫んだ。
この夢を終わらせるには、どちらかが死ぬしかない。
この悪夢にうなされず、毎日を穏やかに生きるには、これしかない。
彼女は必死に抵抗した。
しかし、私は両手を突き出して、思い切り突き飛ばした。
やった、そう思った。
その瞬間、彼女は私のカーディガンを掴んだ。
あっという間に、2人は舟から落ちて水の中に落ちた。
ぶくぶくと水泡が上がる。
私は上下感覚もわからぬまま上へ上へと必死にもがいた。
重い。なかなか顔を出せない。
そこで気付いた。
破けてしまうのではないかと思うほど、強くカーディガンを掴むものがある。
彼女だ。
私が突き落とした彼女も必死だった。
死に物狂いで私は蹴り飛ばす。
ダメだった。
死に追い詰められた人間は、普段からは考えられないほど力が強い。
息が続かない。
このままでは、奈落の底へ落ちる前に窒息死してしまう。
私は光が漏れる方へと泳いだ。
もう、だめだ。
そう思った時、視界が開けた。
「げほっ。げほっ」
抜け出せた。
水上へ顔を出せた。空気が肺に入り込む。
続いて水飛沫が上がった。
彼女も同じように浮上したのだ。
咳き込み、髪を濡らして息をする。
束の間の安息。
しかし、私は「まずい」と思う。
先を見ると、奈落へとどんどん流されている。舟の上に居た時は、水流は激しくなかったのに、生身で落ちた途端猛烈な勢いに変わっていた。
このままでは、2人とも……。
彼女は叫んだ。
「全部あんたのせいだ!」
何を言うのだ。私は。
彼女は続けていった。
「夢日記のせいなんだ!」
違う。
元々悪夢を2人とも見ていたではないか。だから夢日記は関係ない。
むしろ私は夢日記に感謝している。夢の中で何が起きているのか、もう一つの現実に引き戻された私が把握できる。
それに、こうして夢の中で動くこともできた。そうしなければ、こっちがやられていたかもしれないのだ。
一方で、彼女の方は途中でやめてしまった。だから現実の彼女も「怖い」という印象のみ残り、きっと覚えていないに違いない。
以前の私のように。
彼女は言葉を続けた。
「私たちは友人だったのに。そのカーディガンだって、私が選んであげたのに。あんた最低よ!」
最低?
私が最低な人間だと言いたいのだろうか。
そんなことはない。
生き延びるために、必要な行動を取ったまでだ。
それを良いことだとか、悪いことだとか判じることはできない。
そうじゃないのか。
私は反論しようとした。だけど、何も言い返すことができなかった。
私は。
そんなことを考えている間に、気付けば私たちは落ちる寸前だった。
「いやあああああ」
2人して叫ぶ。
そこで。
「おまえをころす」
そう、死神が囁いた。
そうだ。そうだった。
どちらか一方は助かるのだ。
だが。
私たちは。
落ちてゆく。