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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
五月七日。連休明けの朝、私は小さなボストンバッグ一つで、御影邸の勝手口に立った。
ただいま、と口の中で言った。
誰にも聞こえないように。
*
半地下の北の部屋は、記憶よりも狭かった。
窓は天井近くに一つだけ。地面すれすれの高さで、外を歩く人の足首しか見えない。
壁際に古いガスストーブ。鉄のベッドと、小さな鏡台。床板の一枚に、アイロンの焦げ跡が残っていた。
お義母さまの着物の半襟に、私はこの部屋で三年間アイロンをかけた。
焦がしたのは、嫁いで最初の冬だ。お義母さまは焦げた半襟をつまんで、「御影の嫁はね、埃ひとつで家の格を落とすのよ」と言った。
その部屋が、いまは私の住まいだった。
天井の隅の蜘蛛の巣。窓枠の内側に溜まった砂。ベッドの下の、綿埃の吹き溜まり。
この家の埃が溜まる場所なら、私は目をつぶっても指でなぞれる。
紺のワンピースに着替え、白いエプロンの紐を後ろで結ぶ。
首にスカーフを巻き直し、左手に白い木綿の手袋をはめる。
鏡の中で、家政婦の佐伯凛が、私を見返していた。
*
勝手口から裏庭に出たときだった。
鎖のはじける音がした。
赤い影が、芝生の上を一直線に駆けてくる。
右耳の少し折れた、赤いバンダナの柴犬。
止める間もなかった。
ムギは私の胸に飛びつき、前脚で肩を叩き、それから足元に転がった。
仰向けになって、お腹を見せた。
尻尾が、地面を掃くように揺れている。
鼻を鳴らす。早く撫でて、と催促するときの声だ。
ムギは、私にしかお腹を見せなかった。
蒼真にも、お義母さまにも、一度も。
撫でたかった。
お腹の、白い毛が少し薄くなっているところ。あそこをかいてやると、後ろ脚がぱたぱた動くのを、私は知っている。
右手が、勝手に下がりかけた。
「え、ムギが?」
背後で、甘い声がした。
振り向くと、勝手口の階段の上に、麗奈が立っていた。ピンクのカーディガンの前を、長い爪でかき合わせている。
「その犬、私には唸るのよ。この家に来てから、一回も触らせてくれないの」
麗奈の目が、細くなった。
「なんで、あなたにはそうなの?」
私は、ゆっくりとしゃがんだ。
ムギの首輪を右手で持ち、そっと体を起こさせる。お腹には、触れなかった。
「犬は、怪我をした人間の匂いがわかるそうです」
首のスカーフに、指先で触れてみせる。
「旅館にいた犬も、私が火傷をしてから、急に甘えるようになりました。弱っている者のそばに寄りたがるのだと、獣医さんがおっしゃっていました」
麗奈は少しのあいだ、私とムギを見比べていた。
「ふうん。……まあいいわ。その犬、ちゃんとつないでおいて。服に毛がつくの」
扉が閉まった。
私はムギを犬小屋まで連れていき、外れた鎖をつなぎ直した。
ムギは不思議そうに首をかしげ、私の手袋の指をなめた。
口笛は吹かなかった。
左手も、振らなかった。
ごめんね、と心の中で言った。
もう、あなたの知っている合図はあげられない。
*
昼過ぎ、麗奈は私を主寝室に呼び、ドレッサーの前で脚を組んだ。
「最初に言っとくね。前の奥さんのやり方は、全部やめて。カーテンも、食器も、お料理の味も。この家の奥様は私なの。死んだ人じゃなくてね」
ドレッサーの上には、ローズの香水の瓶がいくつも並んでいた。
その鏡の前で、私は毎朝、髪を一つに結んでいた。
「かしこまりました、奥様」
私は頭を下げた。
死んだ人。その人が、いまあなたの目の前で、あなたの下着を洗う段取りを考えている。
*
陽翔は、幼稚園から帰ってきても、私と目を合わせなかった。
黄色い帽子を目深にかぶり、ぴょんたを胸に抱いて、お義母さまの着物の陰に隠れる。
「陽翔。今日から来てくださった、佐伯さんよ。ご挨拶なさい」
お義母さまの声は、陽翔に向けるときだけ、少し柔らかかった。
「陽翔坊ちゃん。佐伯凛と申します。今日からお世話になります」
私は膝をつき、目の高さを合わせた。
陽翔は、ぴょんたの耳に顔をうずめた。
背が、少し伸びていた。
くせっ毛は、伸びすぎて耳にかかっている。誰も、切ってあげていないのだ。
「……」
陽翔は小さく首を振り、二階へ駆け上がっていった。
大階段の上で、一度だけ振り返る。私ではなく、私の後ろの、誰もいない廊下を見ていた。
*
翌朝、私は朝食の卵焼きを焼いた。
トキさんに教わった、凛さんの卵焼きだ。
だしと塩だけで、甘みは入れない。旅館の朝ごはんの味。
甘酒の瓶は、パントリーの奥に、まだ私が置いたまま残っていた。
私はそれを見ないようにして、塩をひとつまみ落とした。
食堂のテーブルに、皿を並べる。
蒼真は新聞を読みながらコーヒーを飲み、麗奈はスマートフォンを眺めている。お義母さまは背筋を伸ばし、静かに箸を取った。
陽翔の前にも、小さな皿を置いた。
きれいに巻けた、黄色い卵焼き。
陽翔は箸で一切れつまみ、端を少しだけかじった。
そして、箸を置いた。
「陽翔。どうしたの」
お義母さまが、眉をひそめた。
陽翔は答えず、皿の上の卵焼きを見つめている。
「いただいたものを残すのは、御影の子のすることではないわ。もう一口、お食べなさい」
「……」
「陽翔」
「わがままねえ」
麗奈が、スマートフォンから目を上げずに言った。
「前の人に甘やかされすぎたのよ。お腹がすいたら食べるでしょ」
陽翔の肩が、びくりと震えた。
それから小さな声で、たった一言だけ言った。
「……これ、ちがう」
陽翔は椅子から下り、ぴょんたをつかんで食堂を出ていった。
廊下を走る足音。大階段を駆け上がる音。
「陽翔!」
お義母さまの声が追いかけたが、子ども部屋の扉が閉まる音がした。
蒼真は新聞をめくった。
「放っておけばいいよ。そのうち慣れる」
私は、陽翔の皿を下げた。
一口だけかじられた卵焼きが、白い皿の上で冷えていた。
これ、ちがう。
あの子は、甘い卵焼きを待っていた。
毎朝、来ないママの代わりに、せめてママの味を待っていたのだ。
*
洗い物を済ませ、二階の廊下を掃除していたとき、子ども部屋の前を通った。
扉が、少しだけ開いていた。
陽翔はベッドの上で、ぴょんたを顔に押しつけていた。
声を出さずに、肩だけを震わせていた。
泣き方まで、我慢している。
四歳の、いや、もう五歳の子が。
私は掃除機の柄を握りしめた。
入っていって、抱きしめたかった。甘い卵焼きを、いますぐ焼いてあげたかった。
けれど、それをすれば終わる。
この家の誰かが、きっと気づく。
私は扉の前を、静かに通り過ぎた。
自分の焼いた卵焼きが、息子を泣かせた。その事実だけが、掃除機の音の下で鳴り続けていた。
*
その夜の十一時。家の者が寝静まったあと、私は一人で厨房に立っていた。
翌朝の仕込みだった。
大根の皮をむき、人参を刻み、だしを引く。
この厨房で、私は三年間、毎日ごはんを作った。
まな板の傷の位置も、蛇口のくせも、包丁の重さも、手が覚えている。
疲れていた。
二日分の緊張と、陽翔の背中と、ムギのお腹の温かさ。全部が、肩の上に重く乗っていた。
まな板の上の大根を、桂むきにしようとした。
いつものように、包丁を取った。
柄が、手のひらにすっと収まった。
左手だった。
刃が大根に入る。薄い皮が、するすると長く伸びていく。
三週間、どれだけ右手で練習しても出なかった薄さだった。
自分の手が、いちばん自分を裏切る。
「凛さん」
背後で、声がした。
私の手が、止まった。
大根の皮が、まな板の上にぷつりと落ちた。
いつからそこにいたのか、わからなかった。
厨房の入口の暗がりに、白いシャツの影が立っていた。
蒼真だった。
「君、左利きだった?」
コメント
1件
うわ、この9話、胸が苦しすぎる……。 凛がムギに「ごめんね」って心の中で言うシーン、全部わかってるんだよな。あの犬は本当の飼い主を忘れてなくて、でも凛の方は復讐のために全部捨てなきゃいけない。陽翔の「これ、ちがう」で子供ながらに気づいてる感じも刺さったよ。 最後の「君、左利きだった?」で終わらせるのズルいわ。続き気になりすぎる🔥