テラーノベル
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包丁の柄が、左の手のひらの中で汗ばんでいた。
私は振り向かなかった。
まな板の上で、包丁をゆっくり右手に持ち替える。それから、大根を置いて振り返った。
「旦那様。お休みになっていたのでは」
「水を取りに来たんだ。……で、左利き?」
蒼真は厨房の入口にもたれていた。
白いシャツの襟元が開いている。少し、お酒の匂いがした。
「いいえ。右です」
私は右手の包丁を、軽く持ち上げてみせた。
「旅館の女将さんが、左利きだったんです。手が足りないときに、どちらの手でも同じように仕事ができるようにと、両方仕込まれました。桂むきだけは、なぜか左のほうが薄くむけるんです」
嘘だった。
凛さんの便箋には、女将さんの利き手など、どこにも書いていなかった。
蒼真は、少しのあいだ黙っていた。
それから、右の頬にえくぼを浮かべた。
「器用なんだな」
冷蔵庫からミネラルウォーターを一本取り出し、蓋をひねる。
一口飲んで、彼はまな板の上の、長く伸びた大根の皮を見下ろした。
「前の妻も、左利きだったんだ。この厨房で、毎晩そうやって何か刻んでた」
私は包丁を握ったまま、黙っていた。
「おやすみ、凛さん」
足音が遠ざかっていく。
私はまな板に両手をつき、長い息を吐いた。右手の指が、まだ細かく震えていた。
*
金曜の夜、蒼真と麗奈の「新居祝い」があった。
新居といっても、この家だ。
けれど麗奈にとっては、新しい家なのだろう。カーテンを替え、食器を替え、主寝室のベッドを替えた。前の奥さんのにおいがするものは、全部捨てた家。
客はいない。二人だけの、内輪の食事会だった。
お義母さまは「若い人たちだけでどうぞ」と言って、和館に引き上げた。
献立は、麗奈の注文だった。
前菜に生ハムとメロン。鯛のポワレ。牛フィレのロースト。フランス料理のお店のような皿を、麗奈は雑誌の切り抜きで指定した。
私はそれを、一皿ずつ作った。
この厨房で、三年間、誕生日や結婚記念日のたびに作ってきた料理と、ほとんど同じだった。
食堂の長いテーブルに、燭台が立てられた。
「凛さん、ワイン」
蒼真が、自分で選んだボトルを指さした。
私はナプキンを添えて、二人のグラスに赤ワインを注いだ。
蒼真のグラス。左手首の腕時計が、燭台の灯りを映して光る。
麗奈のグラス。長いネイルが、脚の細いグラスをとん、と叩く。
「上手ねえ。旅館仕込み?」
「恐れ入ります、奥様」
注ぐ手は、一滴もこぼさなかった。
グラスの縁から三分の一。ボトルの口を最後に少しひねって、雫を切る。
「おいしい。凛さん、これ、前の奥さんよりおいしいんじゃない?」
麗奈が、牛フィレを口に運びながら笑った。
蒼真も笑った。
「比べるなよ。……でも、まあ、そうかもな」
私は空いた皿を下げ、黙って頭を下げた。
同じ人間が、同じ厨房で、同じ手順で作った料理だった。
*
メインの皿を下げたあと、蒼真が立ち上がった。
「上で飲み直そう。凛さん、デザートは書斎に持ってきて。三十分後くらいに」
二人は、もう一本ボトルを抱えて、二階へ上がっていった。
大階段を上る足音が、二つ。軽やかな笑い声。
私は厨房で、デザートの支度を始めた。
苺のタルト。生クリームを泡立て、粉砂糖をふるう。
泡立て器の音が止まったとき、壁の中から、声が降りてきた。
配膳リフトの、竪穴だった。
書斎は、二階の配膳室と壁一枚。その声は竪穴を伝って、この厨房まで落ちてくる。
半年前のあの夜と、同じように。
「――で、決算は」
「通ったよ。保険の二億で、会社の穴は埋まった。監査も何も言ってこない」
蒼真の声だった。
グラスを置く、硬い音。
「三月に振り込まれたときは、さすがに手が震えたけどな。これで秋の上場まで、一直線だ」
「すごい。蒼真さん、天才」
麗奈の笑い声が、竪穴の中で反響した。
「ねえ、じゃあさ」
グラスを持ち上げる気配がした。
「澪さんに、乾杯ね」
一瞬の沈黙。
それから、蒼真の短い笑い声。
「趣味が悪いな、お前」
「いいじゃない。あの人のおかげで、このおうちも会社も守れたんだもの。感謝しなきゃ」
チン、と澄んだ音がした。
グラスが、触れ合った音だった。
私は泡立て器を握ったまま、立っていた。
二億。
凛さんが死んで、私が焼かれて、それで払われたお金。
それが、あの人の会社の穴を埋めた。私の名前の墓が、あの人の上場の踏み台になった。
この家の物音の通り道を知っているのは、私だけだ。
私だけが、この厨房で、この声を聞いている。
竪穴の扉を見つめていると、昔のことを思い出した。
陽翔が三歳のころだった。二階の配膳室で遊んでいて、お気に入りの青いミニカーを、リフトの隙間から竪穴に落としてしまったことがある。
ミニカーは竪穴を落ちていき、一階と二階のあいだの梁に引っかかった。
泣きじゃくる陽翔の前で、私は箱の中に入った。
膝を抱えれば、大人でもぎりぎり乗れる大きさだった。内側からロープを手繰ると、箱は少しずつ上がっていった。
ミニカーを拾って戻ってきた私を見て、陽翔は涙を止めて目を丸くした。「ママ、エレベーターになった」と。
あれは、二人だけの秘密だった。
この家の誰も、あの箱に人が乗れることを知らない。
*
三十分後、私はタルトの皿を二枚、リフトの箱に入れて二階へ上げた。
それから階段を上り、配膳室で皿を受け取って、書斎の扉をノックした。
「どうぞ」
書斎の革のソファに、二人が寄り添って座っていた。
テーブルの上に、空いたボトルが一本。
私はタルトの皿を、二人の前に一枚ずつ置いた。
陶器が、テーブルの天板に触れる。音は、一つも立てなかった。
フォークを添える。ナプキンを整える。
グラスに、残りのワインを注ぐ。
「凛さん、聞いて。今日はお祝いなの」
麗奈が、頬を赤くして言った。
「この家と、私たちの新しい生活のお祝い。ね、蒼真さん」
「ああ。凛さんにも、これから長くいてもらわないとな」
蒼真が、グラスを軽く持ち上げた。
「乾杯。……君は、何も覚えてないんだったね」
えくぼが浮かんだ。
私は、空になったボトルを胸に抱えて、微笑んだ。
「はい、旦那様。何も覚えておりません。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
その二億は、凛さんの命の値段だ。
その乾杯の分だけ、あなたたちは必ず払うことになる。
私は一礼して、書斎の扉を閉めた。
廊下の暗がりで、ボトルを抱えた腕が、やっと震えだした。
*
その夜、麗奈が眠ったあと、御影蒼真は一人で書斎に戻った。
机の引き出しから、一枚の紙を出す。
十一月に母が受け取った、佐伯凛の履歴書だった。
右上に貼られた写真の女は、丸い目をして、照れたように笑っている。
いまこの家で働いている女とは、似ても似つかない顔だ。火傷のせいだと、医者の紙には書いてあった。
蒼真は、グラスの底に残ったワインを飲み干した。
あの夜、あの女は澪の車に乗っていた。
澪と何を話したのか。澪が何を言ったのか。本当に、何も覚えていないのか。
覚えていないなら、それでいい。
もし、いつか思い出すなら。
「手元に置いておけば、思い出したときにすぐわかる」
彼は履歴書を引き出しに戻し、鍵をかけた。
*
半地下の北の部屋で、私はエプロンの紐をほどいた。
天井近くの窓の外は、真っ暗だった。
私は指を折って、数えた。
夫。愛人。義母。
一周忌まで、あと半年。
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
コメント
1件
第10話、読み終わったけど心臓バクバクしてる……!!😭💦 配膳リフトの竪穴が「声の通り道」になってて、あの夜と同じ構図で会話が聞こえてくるの、背筋が凍ったよ……。しかも「二億」が保険金で、凛さんの命の値段だったっていう衝撃。焼かれた本人がその乾杯を聞いてるって、胸が張り裂けそうだった。 陽翔くんとの「エレベーター」の思い出が優しすぎて、余計に切ない……。あの箱、きっと復讐の舞台装置になるんだろうな。最後の「指折り数える」ところ、ほんと癖になるエモさだった。半年後、何が起きるのか待ちきれないよ〜!!🔥✨