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夕日がやけに電車の中に長く居座っていて、どこか眠たいような、まだ起きていたいような、そんなときだった。
「なぁ、このまま遠くに行かないか?」
独り言のように淡々と、けれどどこか寂しそうな声で彼は言った。
私は返事をしなかった。それは拒絶じゃない。彼なら、それを了承として受け取る。
そして気づいた頃には、私は知らない場所へ攫われている。そんな期待があった。彼もそれを汲み取ったのか、それ以上言葉を紡ぐことはなかった。
沈黙を乗せた電車は、先程と変わらない速度で走っている。このひと駅先には日常がある。その先は、私たちの知らない場所だ。やがて電車が止まる。私は降りなかった。けれど彼は、降りてしまった。それに気づいた頃には、扉は閉まっていた。どうして、ただそれだけが頭を埋めていた。結局私は、電車から降りる勇気も出ずに終点まで乗ってしまっていた。戻ろうにも、財布の中は寂しかった。バイトすらしていない高校生の財布の中なんて、初めから空に近いのだ。
「母さん父さんに連絡しないと……あ、充電……」
携帯を取り出したはいいものの、充電がなく電話を入れることはできなかった。モバイルバッテリーを買おうにも金がない。公衆電話の場所も分からない。どうしようもなくて、私は泣いてしまいそうになった。
「……あれ、秤屋?」
ふと後ろから声をかけられる。驚いて見れば、同級生の加藤がこちらを見ていた。
「……加藤さん?」
「あ!やっぱり秤屋か。いやぁ、なんか似てるやつが落ち込んでんなって思って。んで?どうしたんだ?」
「……寝過ごして、お金が無いからどうしようかと思いまして」
「……それ嘘だろ、目線めちゃくちゃ動いてんぞ。まぁいいや、今回はそういうことにしてやるよ。ほら、金貸すから」
そう半ば無理やり金を渡して、彼は改札を抜けてしまった。なぜあまり話したこともないやつに金を?ああいう明るい人というのはよく分からない。加藤も、私を置いていった彼も。
彼とは同じ電車によく乗る、ただそれだけの仲だった。彼の隣が空いていたら、私はそこに座るし、私の隣が空いていたら、彼はそこに座る。会話はしない。ただ、静かな関係だった。私にはそれが心地よくて、彼と一緒にいられる時間が愛おしかった。だから嬉しかった、逃避行に誘われたことが。それと同時に苦しかった。彼が私を置いて行ったことが、どうしようもないほどに。正直、私は彼のことが好きだったのだと思う。彼と同じシャンプーを買ってみたり、彼が公式アカウントを見ていた飲食店に行く。そんな行動を繰り返していたし、彼と触れたくて、電車が揺れたフリをしてぶつかったりもした。ぶつかる度に彼は申し訳なさそうに頭を下げて、また本を読み始める。もっとも、彼と出会って2年が経った頃にはそれは携帯に変わり、制服も変わっていたが。きっと中学から高校に上がったのだろう。どうせなら合格おめでとうくらい言っておけばよかった。まあ、彼と私はそんな間柄ではなかったが。彼の声を聞いたのも今日が初めてだし、彼はいつも制服だから、彼の名前どころか苗字すら知らない。知っているのは、彼が白く長い髪の毛に、黄色い瞳をしている人だということだ。彼は普段、困っている人を助けていたし、席も躊躇いなく譲っていた。もっとも、彼は声を出さずにジェスチャーで席を譲ったり、ホームでは位置が離れていたり、なんて調子だったから彼の声は聞こえていなかったが。きっと優しい人なのだろう。私が足を怪我したとき、何も言わずに荷物を持つのを手伝ってくれたし、大丈夫かと問いかけるように目線を送ってきていた。そして彼は少しだけ孤独な人なのだろう。毎日のように電車に乗り、どこかに向かっているというのに、誰かと一緒にいたことがない。彼はいつも三年間一人で電車に乗っていた。彼の制服は私の学校と、近い場所にある所のものだから、今は帰宅も兼ねて乗っているのだろう。それでも誰も彼の隣にいない。叶うことなら、私がその隣に居座ることができたら良かったのに。
貰ったお金をPASMOに入れて、家にもどった。日はすっかり落ちていて、街が暗い。いつもよりも2時間ほど帰るのが遅くなったからか、両親はとても心配していた。
「よかった、伊久留が無事で……」
母がそう泣いているのを見て、私はとても申し訳ない気持ちになった。
「すみません、まさか寝過ごしてしまった上に携帯の充電が切れるとは思わなくて……」
私がそう謝れば、無事でいてくれたらいいのと母は笑った。母の優しい言葉で、嘘をついたことへの罪悪感が増した。これ以上この場に留まることが苦しくて、私は下手な言い訳をして自室に向かった。そのまま眠ろうと思っていたが、なんだか寝付けなくて天井を眺める。こうしていると色々と考えてしまい、落ち着かなくて本を読もうとした。だが私の部屋には彼が読んでいた本しかなくて、寂しくなるのはわかっていたから辞めた。
「大鳥先生、その本は?」
「ああ、これですか?『コバヤシくん』です。主人公が死んだコバヤシってやつのことを思い返すやつで……中学の時から読んでたんすよ」
「……へぇ、中学のときから、ですか」
私がそう言えば、彼は笑って
「先生も読みます? 面白いですよ」
と問いかけてきた。その本なら私も読んだことがある。私はそう言って断ろうとしたが、目の前の彼の視線があまりにも眩しくて耐えられなかった。彼と似ている。たまに本から目を離して、私に笑いかけた彼と。
「……気が向いたら借ります。今は本を読む気分じゃなくて」
「そうですか、ならそん時話しかけてくださいね。俺いつでも待ってるんで」
大鳥先生は黄色の瞳で、私に優しく笑いかけた。
「……あの時の答えも、ね」
そう意味深なことを言って、彼はどこかに立ち去ろうとした。その背中が、私を置いていった彼によく似ていた。
「……連れていってください」
私がそういえば、彼は驚いたような顔をした後に、優しく笑った。
「やっと答えてくれた。今は車しかないですけど……連れていきますよ、どこまでも」
十二年の時を経て、私は彼に返事をすることができた。次は、私から話しかけよう。話したいことは沢山あるのだから。仕事終わり、彼に手を引かれて車に乗りながら、好きだと伝えた。彼は照れて事故を起こしそうになっていて、こんなに焦りやすい人なのだと初めて知った。使っているシャンプーも、好きな店も知っているのに。全くおかしな話だ。だが、このおかしな話の続きを私は彼と紡いでいきたい。
「……俺もだよ」
彼の静かな声が車内に響いた。