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バサっ
湊のデスクは”資料”が山と積まれていた。
賢治のアルファードのカメラSDカード:吉田美希との不適切な行為や毎週金曜日の行動履歴が記録。
クレジットカードの請求明細書:不倫に関連する可能性のある支出の証拠。
菜月のマンションでの録音:賢治と如月倫子の会話が記録。
マンションリビングの写真:賢治と如月倫子の親密な様子。
如月倫子からの小包の伝票:口紅やその他の品物の筆跡。
賢治と吉田美希、如月倫子との不倫行為の証拠は有り余るほど揃っていた。然し乍ら、あともう1枚、決定的な証拠が必要だった。
(ホテルの部屋に出入りする画像が欲しいな)
湊が会議室で”資料”をまとめていた時だった。内線の電話が鳴った。それは社長である、賢治からだった。
「湊、ちょっと手伝って欲しい事がある」
「事務の久保さんはいないんですか?」
「男手が欲しいんだ」
「男手?」
「荷物が重いんだ」
賢治が湊になにかを依頼することは、これまで一度もなかった。訝しげな面持ちの湊は、賢治の言葉を預かり、”資料”をアタッシュケースに丁寧にまとめた。書類の束は、まるで秘密の層を重ねるように整然と収まり、金属の留め具がカチリと音を立てた。湊はケースを手に、スチール棚の奥に隠された施錠装置を慎重に操作し、堅牢な錠に鍵をかけた。その動作は、まるで何かを封印する儀式のようだった。
螺旋階段を降りると、そこにはペットボトルの入った段ボール箱が、まるで要塞のように高く山積みになっていた。埃っぽい空気の中、湊は一瞬立ち止まり、賢治の意図を測りかねるように目を細めた。なぜ今、こんな依頼を?資料の内容と、この物資の山は何か関係があるのか?
(コーヒー?)
「おう、湊、これを南営業所まで運んでくれないか?」
「私が、ですか?」
男手が欲しいと言ったが、事務所には男性の営業社員が数名、困り顔でこちらを見ていた。賢治から見れば湊は部下かもしれないが、仮にも部長という立場だ。一般職の社員の前で、山と積まれた段ボール箱を運ぶ謂れはなかった。
「失礼ですが、これから管理物件のオーナーとの面談があるのですが」
「営業所から向かえば良いじゃないか」
「ですが、アポイントメントの時間に間に合いません」
すると賢治は顔を赤らめて声を張り上げた。事務所内の従業員たちは皆、肩をすくめた。
「俺の言う事が聞けないのか!」
「いえ、そういう訳では」
「つべこべ言わず、車に積むぞ!」
「社長が、積まれるんですか?」
「そうだ、手伝え」
事務方や従業員が手を貸そうとしたが、賢治はそれを頑なに断り、2人で500mlのペットボトルが24本も入った段ボール箱を湊のBMWの後部座席に詰め込んだ。
「湊、あともう1箱あるから持って来てくれ」
「分かりました」
如月倫子に入れ知恵された賢治は、まるで暗号を解くような目つきで、積み上げられた段ボールの一番下に手を伸ばした。埃を払いながら開封口を慎重に開けると、中からコーヒーのペットボトルが顔を覗かせた。彼は一瞬周囲を見回し、誰もいないことを確認した。念のためにと、賢治は一本のペットボトルを取り出し、そっと運転席の座席シートの下に滑り込ませた。その動作は、まるで秘密の駒を盤上に置くような慎重さだった。
湊が螺旋階段を降りてくる気配を感じつつ、賢治は段ボールを元通りに整えた。如月倫子の助言が頭をよぎる「備えあれば憂いなし」。賢治の胸に不穏な予感が広がったが、彼は表情を崩さず、湊を待つために静かに佇んだ。
「社長、これで最後ですか?」
「ああ、悪いな。南営業所の所長にも宜しく伝えてくれ」
「分かりました」
「湊」
「なんですか」
「段ボールを倒さないように、気をつけて行けよ」
「分かりました」
賢治の行動に、引っ掛かるものを感じたが、湊はBMWのエンジンスタートボタンを押した。低い排気音、アクセルを踏むと、ルームミラーに手を振る笑顔の賢治がいた。
カコーン
綾野の家に連絡が入ったのはその数十分後だった。警察からの知らせに ゆき は床に座り込み、郷士は佐々木を呼び戻すと病院に向かうと言った。
「菜月はどうする!多摩さんと家で待つか!?」
「行く!私も病院に連れて行って!」
湊のBMWは陸橋を下った辺りで突然運転制御を失い、まるで意志を持たぬ獣のように暴走した。赤色信号の交差点に突っ込むと、右折待ちのワンボックスカーのバンパー角に激しく食い込んだ。衝突の衝撃でガラスが砕け、金属が軋む音が響いた。湊は意識を保っていたが、右腕が相手方の車のボディと自車のハンドルに挟まれ、鋭い痛みが走った。血が滲む腕を押さえながら、彼は状況を把握しようと目を凝らした。足元に何かが転がっている。
賢治の依頼と如月倫子の入れ知恵が頭をよぎる。この事故は偶然か、それとも?湊は歯を食いしばり、救急車のサイレンが遠くに聞こえる中、運転席のシートの下から転がり出たペットボトルを思い出した。あのペットボトルが、今なぜか不気味な意味を持つように感じられた。ワンボックスカーの運転手が慌てて降りてくるのが見えたが、湊の視界は徐々に霞み始め、意識が遠のく寸前、賢治の顔が脳裏に浮かんだ。
菜月たちは湊が運ばれた病室へと駆けつけた。
「竹村さん!」
そこには、県警の竹村誠一が待っていた。そして事故の原因について郷士に説明を始めた。菜月が病室に駆け込むと、湊は青白い顔でベッドに横になっていた。
「お、お母さん、湊は大丈夫なの!?」
菜月の涙のように、溶液が点滴パックからポタポタと落ちていた。
「大丈夫よ、今は鎮痛剤で眠っているだけだから」
「本当に!?」
「腕は骨折したけれど、他は大丈夫ですって」
「良かった、良かった」
然し乍ら、その事故には不自然な点があると竹村誠一は考えた。状況を鑑みれば、積載物が崩れた為の自損事故だ。
「ペットボトルの数が多いんです」
「多い?」
「湊さんが飲もうとしていた物なのかもしれません」
運転席の床にはコーヒーのペットボトルが転がっていた。
「湊が、インスタントのコーヒーを?」
「飲まれないんですか?」
「あまり、見た事がなくて」
竹村誠一は大きく溜め息を吐くと湊の病室を見遣った。
「湊さんの意識が戻ったら確認してみましょう」
「お願いします」
菜月は深々とお辞儀をしたが、そこでひとつ閃いた。
(賢治さんが、湊に頼み事をする筈なんてない)
湊に対し、競争心剥き出しの賢治がわざわざ頭を下げてまで、湊になにかを依頼するとは思えない。しかも、横柄な賢治が従業員に任せる事なく自らが段ボール箱を運ぶなど考えられなかった。
(まさか)
小心者の賢治がこのような大それた事をしでかすだろうか。
(まさか、如月倫子)
菜月は、初めて如月倫子がマンションを訪ねて来た時の異様な気配を思い出し、怖気を感じると同時に、激しい怒りを感じた。