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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
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榊さんの「あなたの畳み方は、死んだ弟の妻と同じだ」——その一言で、雨の日のすべてが繋がった気がしました。凛さんがあの日、勝手口から入れた「喪服の人」だったんですね。何も言わず、ただ黙ってお茶を差し出した、あのときの優しさが、いま千鳥のハンカチにまで続いている。雨の匂い、油絵の具の残り香、ムギの温もり。すべてが優しくて、切なくて、胸が詰まるような回でした。続きがとても気になります。
ムギが離れに移って五日目に、梅雨入りが告げられた。
朝から細い雨が、庭の紫陽花を濡らしていた。
私はビニール傘を差して、離れへ続く小径を歩いた。
「散歩は、あなたがすればいい。朝と夕方に一度ずつ」
ムギを預かった翌日、榊さんはそう言った。
蒼真にも、お義母さまにも、話は通してあった。犬は預かるが、世話には人手がいる。母屋の家政婦を一日に二度、三十分ずつ借りたい。費用は自分が持つ。
離れの主の正式な申し入れを、蒼真は断らなかった。
「あいつが何をしてるか、ついでに見てきてくれ」と、私にだけ小声で付け足して。
麗奈は、「離れに近づくなって言ったのに」と唇を尖らせ、それから「毛をつけて帰ってこないでよ」と顔をしかめた。
離れの軒下で、ムギが尻尾を振って待っていた。
バンダナが、新しいものに替わっていた。同じ赤だった。誰かがわざわざ、同じ色を選んで買ってきたのだ。
「おはよう、ムギ」
小さな声で言った。
口笛は、吹かなかった。
*
離れは、お義父さまがアトリエに使っていた平屋だ。
天井の高い一間に、北向きの大きな窓。
油絵の具の匂いが、まだかすかに残っている。壁際には、布をかけたキャンバスが何枚も立てかけてあった。
一枚だけ、布がかかっていない絵があった。
窓際のイーゼルに立てかけられた、小さな油絵。
白い花が、ガラスの花瓶に挿してある。花びらの先が丸く、真ん中が淡い緑色の、白いガーベラだった。
雪の墓地で見た花と、同じだった。
お義父さまが、こんな優しい絵を描く人だとは知らなかった。
私が知っているお義父さまは、いつも和館の奥で新聞を読んでいて、嫁の私には、時候の挨拶しかしない人だった。
その部屋が、いまは書類で埋まっていた。
床にも、机にも、椅子の上にも。
ファイルの山が、窓際から入口まで、雪崩の手前のように積み重なっている。
最初の日、台所の冷蔵庫を開けて、私は言葉を失った。
ミネラルウォーターのボトルが六本。
それだけだった。
「……召し上がっていないんですか」
「外で食べています」
「外で、何を」
「…………」
榊さんは、答えなかった。
その日から私は、散歩のついでに、離れの掃除をするようになった。
誰にも頼まれていない。家政婦の仕事でもない。
書類には触らない。床の、書類のない場所だけを拭く。
流しに溜まったコーヒーカップを洗い、窓の桟の埃を払う。冷蔵庫に、作り置きの煮物と、おにぎりを二つ。
次の日、器は洗って、流しの横に伏せてあった。
おにぎりの代わりに、メモが一枚置いてあった。
経費で払う。いくらですか。
角ばった、右上がりの字だった。
私はメモの裏に、右手で書いた。
坊ちゃんのおやつの残りです。お代はいりません。
翌朝、メモの下に、もう一行増えていた。
では、バンダナの代金と相殺で。
ムギの首の、新しい赤いバンダナのことだった。
私は流しの前で、声を出さずに笑った。喉が引きつって、小さく咳が出た。
*
その日、榊さんは珍しく、昼過ぎに離れにいた。
雨が、強くなっていた。
散歩から戻ったムギの足を、軒下でタオルで拭く。ムギは私の膝に顎をのせて、目を閉じた。
「ずいぶん、懐いている」
戸口に、榊さんが立っていた。
シャツの袖をまくり、眼鏡を指で押し上げる。
「……怪我をした人間の匂いが、わかるそうです」
「そうですか」
それ以上は、聞かれなかった。
私はタオルを畳んで、上がり框に置いた。
その横に、ムギの顔を拭いたハンカチを、いつものように千鳥に畳んで。
置いてから、手が止まった。
また、やってしまった。
榊さんの目が、それを見ていた。
雨の音だけが、離れの屋根を叩いていた。
「父の葬儀の日も、雨でした」
不意に、榊さんが言った。
私は顔を上げなかった。
ムギの背中を撫でる手を、止めないようにした。
「三年前の夏です。俺は、焼香をさせてもらえなかった。この家の門の前で、追い返された。あの人の子が来る場所ではない、と」
その声を、私も覚えている。
喪服の背中。閉ざされた門。
「出棺のあと、家の者はみんな火葬場へ行った。俺は帰るつもりで、裏の路地を歩いていた。そうしたら、勝手口が開いた」
榊さんは、窓の外の雨を見ていた。
「若い女の人でした。喪服の上に、生成りのエプロンをかけて。精進落としの支度で、一人だけ残っていたらしい。『こちらから、どうぞ』と言って、台所を通して、仏間の祭壇まで案内してくれた」
私の手の下で、ムギがもぞりと動いた。
「焼香をして出てきたら、その人が傘を差し出した。俺の肩がずぶ濡れだったから。それから、千鳥に畳んだハンカチと、湯呑みに一杯のお茶」
覚えている。
冷えきった顔の、背の高い人だった。誰にも見送られずに、雨の中を帰ろうとしていた。
「梅と、生姜のお茶でした」
榊さんの声が、少しだけ低くなった。
「梅干しを潰して、すった生姜を入れて、熱い番茶を注いだだけのもの。体が冷えたときに母がよく作ってくれた、と、その人は言っていた」
私の母だ。
冬になると、鎌倉の店の奥で、母はそれを作ってくれた。かじかんだ指で器を包んでいる私に、「先に飲みなさい」と湯呑みを押しつけて。
「名前は、聞きませんでした」
榊さんは、それきり黙った。
その人が誰だったのか。その人が、いまどこにいるのか。
私は知っている。
その人は、いま、あなたの目の前で、犬の背中を撫でている。
「……素敵な方ですね」
凛の声で、私は言った。
「ええ」
榊さんは、窓のほうを向いたまま答えた。
「素敵な人でした」
過去形だった。
*
母屋に戻ると、麗奈が玄関ホールで待ちかまえていた。
手に、一冊の雑誌を持っている。
「月刊ミセス・グレース」。お義母さまが、何十年も定期購読している婦人誌だ。
「凛さん、聞いて。取材が来るの」
麗奈の頬が、上気していた。
「来月号の特集、『白樺台の新しい奥様』。うちが選ばれたのよ。巻頭の見開き、カラーで四ページ」
「おめでとうございます、奥様」
「撮影は、今月の最後の土曜日。お料理と、お茶の時間と、お庭と、インテリア。それから、私のインタビュー」
麗奈は、雑誌を胸に抱いた。
「お料理もお菓子も、家の管理も、全部私がやってることにするから。あなたは裏で全部作って、当日は厨房から出てこないで。家政婦がいるってわかったら、記事にならないでしょ?」
「……かしこまりました」
私は頭を下げた。
麗奈の胸の雑誌の裏表紙で、制服の少女たちが小さく笑っていた。聖ルチア女学院の、生徒募集の広告だった。
三時に和館へお茶を運ぶと、麗奈が先に来て、同じ話をお義母さまにしていた。
「グレースに載るのよ、お義母さま。御影の家が」
お義母さまは、湯呑みを茶托に置いた。
「あの雑誌は、私が三十年読んでいるものよ。載るなら、恥ずかしくないようになさい」
「もちろん。お料理もお茶も、私がおもてなしするんですから」
お義母さまは、何も答えなかった。
老眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬、麗奈の長いネイルの上で止まった。
*
夕方、ムギを離れに返しに行った。
榊さんは、机の書類の山の向こうにいた。
私がムギの足を拭き終えて立ち上がると、彼も椅子から立った。
上がり框の、千鳥のハンカチ。
昼間、私が置き忘れたものだった。
榊さんはそれを、指先でつまみ上げた。
形を崩さないように、そっと手のひらにのせる。
それから、眼鏡の奥の目で、私を見た。
「あなたの畳み方は、死んだ弟の妻と同じだ」