テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
「同じ、でございますか」
私は、千鳥のハンカチから目をそらさなかった。
そらしたら、そこで負けると思った。
「旅館の女将さんに教わった畳み方です。お客様におしぼりをお出しするときは、こうするようにと」
「長野の旅館で」
「はい」
榊さんは、ハンカチを手のひらにのせたまま、しばらく黙っていた。
「……そうですか」
彼はハンカチを、私に返さなかった。
上着のポケットに、形を崩さないように入れた。
「洗って、返します」
それだけ言って、書類の山の向こうへ戻っていった。
*
翌日から、撮影の準備が始まった。
「いい? これ、全部覚えて」
麗奈は応接間のソファで、私にスマートフォンの画面を見せた。
メモ帳の画面に、短い文が何行も並んでいた。
聖ルチア女学院大学、文学部卒業。茶道は学生時代から。趣味はお菓子作りとガーデニング。好きな言葉は一期一会。
「記者さんがもしあなたに何か聞いたら、これに合わせてね。奥様は昔からお料理がお上手で、って」
「かしこまりました」
聖ルチア女学院。
週刊誌にも、そう書いてあった。才色兼備の元秘書、と。
私は、画面をなぞる麗奈の指を見た。
長いネイル。茶筅を一度でも振ったことのある人の爪ではなかった。
「それでね、編集長が直接来るんだって。葛城綾乃さん。知ってる?」
知っている。
月刊ミセス・グレースの、編集長。
お義母さまの定期購読誌を、私は三年間、毎月、和館の座卓に置いてきた。お義母さまが読み終えたあと、厨房の隅でこっそりページをめくるのが、ひそかな楽しみだった。
巻末に、編集長のコラムがある。
葛城綾乃は、聖ルチア女学院の卒業生だった。毎号のように、母校の思い出を書いていた。
十二月十三日の、聖ルチア祭。
寮の娘たちが白い服を着て、頭にろうそくの冠をのせ、暗い廊下を歌いながら歩く朝。その朝だけ焼かれる、サフランで黄色く染めたパン。
「凛さん? 聞いてる?」
「はい、奥様」
私は画面の文字を、もう一度読んだ。
聖ルチア女学院大学、文学部卒業。
この人は、ルチア祭の朝を知っているのだろうか。
*
その日の午後、麗奈は和館の茶室で、お茶の稽古をすると言い出した。
「撮影でね、お点前のところも撮りたいんだって。お義母さま、ちょっと見てくださる?」
お義母さまは何も言わずに、茶室の上座に座った。
私は水屋で、湯を沸かした。
障子越しに、帛紗をさばく音が聞こえた。
ぱさ、ぱさ、と、空気を叩くだけの音。三つにたたむ手順が、一つ飛んでいる。
「……学生時代から、と伺ったけれど」
お義母さまの声だった。
「ええ。でも、ずいぶんやってないから、忘れちゃって」
「そう」
それきり、お義母さまは何も言わなかった。
三十年、人に茶を教えてきた人の「そう」だった。
*
夜、和館の納戸の掃除を言いつかった。
棚の一段に、月刊ミセス・グレースのバックナンバーが、年ごとに紐で束ねて積んである。
お義母さまは、雑誌を捨てない人だった。
私は、去年の一月号の束を探した。
十二月の終わりに出る、新年号。
巻末のコラムを開く。
小さな顔写真の横に、題が一つ。「ろうそくの冠」。
大学一年の冬、寮で過ごした一晩のこと。
冠をかぶる役は、学年でいちばん歌の上手な子が選ばれたこと。暗い廊下に白い服の列が並び、歌が近づいてくる朝のこと。最後に食べた、黄色いパンのこと。
今でもサフランパンの匂いをかぐと、泣きたくなります。
私の記憶と、一字も違わなかった。
この一行を書いた人が、来週、この家のテーブルにつく。
私は束を元どおりに縛り、棚に戻した。紐の結び目は、お義母さまの結び方に揃えた。
*
「お茶の時間のお菓子ですが」
献立の打ち合わせの席で、私は言った。
「サフランを使ったパンは、いかがでしょう。黄色くて、写真に映えます。北欧のほうでは、お茶の時間によく出すものだそうです」
嘘は、ついていない。
料理の本で、そう読んだことがある。
麗奈は、目を輝かせた。
「サフラン? いいじゃない、それっぽい。おしゃれだし」
それっぽい。
麗奈の口から、その言葉が出た。本物を知っている人は、それっぽい、とは言わない。
「じゃあ、それで。私が焼いたことにしてね」
「かしこまりました、奥様」
私は頭を下げた。
葛城さんの母校の名物を、私はテーブルに出すだけだ。
本当に聖ルチアを出た人なら、懐かしいと笑って、話に花が咲くだろう。
嘘をついている人なら。
その先は、私が作るものではない。
*
撮影まで一週間を切った日、雨は朝からやまなかった。
麗奈の言いつけで、私は一日、試作に追われた。
サフランパンを三度焼き直し、ローストビーフの焼き加減を測り、テーブルクロスに霧を吹いてアイロンをかけた。
ムギの夕方の散歩に出られたのは、夜の七時を過ぎてからだった。
傘を差して、離れへの小径を急ぐ。
軒下に、ムギはいなかった。
代わりに、小径の脇の紫陽花の前に、背の高い影が立っていた。
榊さんだった。
傘も差さずに、ムギのリードを握っていた。
シャツが、肩から背中まで、雨で肌に張りついている。
「榊様!」
私は駆け寄った。
「何をなさってるんですか。傘も差さないで」
「あなたが来ないので、ムギが落ち着かなかった」
声が、かすれていた。
「少し、外に出ていた。それだけです」
少し、ではなかった。
髪の先から、雨が滴っている。眼鏡のレンズが、曇っていた。
いつから、ここに立っていたのだろう。
ムギのリードを握った手の甲が、白くふやけていた。
私は自分の傘を、彼の頭の上に差しかけた。
彼のほうが、ずっと背が高い。腕をいっぱいに伸ばしても、傘の骨が彼の髪に触れた。
離れに戻ると、榊さんは上がり框に腰を下ろしたまま、動かなくなった。
額に、手を当てる。
熱い。
「熱があります」
「大したことはない」
「あります」
タオルで頭を拭き、奥から乾いたシャツを探して手渡した。
彼が着替えているあいだに、私は離れの小さな台所に立った。
冷蔵庫に、私が入れておいた梅干しの瓶。
流しの下の籠に、生姜が一かけ。棚に、番茶の缶。
手が、勝手に動いていた。
梅干しを一つ、湯呑みの底で潰す。
生姜をすりおろして、絞り汁を落とす。沸かした番茶を、熱いまま注ぐ。
湯気が立った。
母の店の奥の、冬の匂いがした。
盆にのせてから、気がついた。
私は、何を作ったのだろう。
いま、この人に、何を出そうとしているのだろう。
捨てればいい。
流しに捨てて、白湯を出し直せばいい。
「……いい匂いがする」
背後で、声がした。
着替えた榊さんが、壁に手をついて立っていた。
眼鏡を外していた。濡れた前髪が、額に落ちている。
その目が、私の手元の湯呑みを見ていた。
「それは」
「……生姜湯です。体が温まります」
もう、引っこめられなかった。
私は湯呑みを差し出した。
榊さんは、湯呑みを受け取らなかった。
代わりに、熱い手で、私の手首をつかんだ。
強くはなかった。
けれど、ほどけなかった。
熱のせいで、指が細かく震えている。
その指が、手袋の上から、私の手首の内側を押さえていた。脈を確かめるように。
「お布団を、敷きますので」
「待ってくれ」
敬語が、崩れていた。
彼は私の手首を握ったまま、湯呑みに顔を近づけた。
湯気を吸いこみ、目を閉じる。
梅と、生姜の匂い。
それから、目を開けた。
熱でうるんだ目が、まっすぐに私を見ていた。
「このお茶を淹れられる人間を、俺は一人しか知らない」
コメント
1件
うわあああ第19話もめっちゃエモかった!!😭💕✨ サフランパンの伏線、そして茶室でのお義母さまの「そう」、めちゃくちゃ刺さった……静かに嘘を見抜く感じが(震) ラストの生姜湯、榊さんの「一人しか知らない」って台詞で鳥肌立ったよ!!バレるっバレちゃうよ凛さん!!って画面に叫びかけた🥺🔥 マジでもう次の話すぐ読みたいんだけど!!続きまだ!?!?