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大本(おおもと)は、出口なおとその娘婿出口王仁三郎が興した神道系新宗教。「大本教」と呼ばれる事が多いが、正式名称には「教」がつかない。
概要
1892年(明治25年)2月3日、京都府綾部に住む貧しい初老の女性である出口なおに「うしとらのこんじん(艮の金神)」と名乗る神が憑依する。それは国祖国常立尊であった。大本では、この日をもって開教としている。
1898年(明治31年)、なおと王仁三郎が教団組織を作る。王仁三郎はなおの娘すみの婿となり、なおの養子となった。
なおには国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)によって伝えられた。王仁三郎には豊雲野尊などの神懸りによって神示が伝えられていたが、なおが死去すると、国常立尊の神懸りも加わり、『霊界物語』の口述を始めた。そして、「立替え・立直し」という終末主義的な宣伝が活発化し、知識人や日露戦争で活躍した秋山真之などの海軍士官を含め急激に信徒を拡大していくが、これが当局の警戒を招き、1921年には王仁三郎らが不敬罪などで逮捕される(第一次大本事件)。
1927年に大赦された王仁三郎らは布教活動を再開、1934年には外郭団体「昭和神聖会」を結成し、軍人や民間右翼団体と連携して活発な政治的活動をしようとするが、1935年に再び王仁三郎らは投獄される(第二次大本事件)。
戦後、活動を再開するが、1980年(昭和55年)、三代教主直日の後継者をめぐって内紛が起こる。王仁三郎の孫・出口和明が教団批判を行った。当初直日の後継者とされていた直日の長女・直美の夫である出口榮二が追放されたことを機に、教団全体を巻き込んだ抗争となり、裁判沙汰となった。最終的に大本は三女・聖子が継ぐことになった。直美を四代教主と仰ぐ一派は「大本信徒連合会」を結成、和明は王仁三郎のみを教祖とする宗教法人愛善苑を設立した(第三次大本事件)。
儀式は一般的な神道のものに似るが、大本では榊の代わりに松を用いる。
コメント
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