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話を聞き終えた拓真の眉間には、深いしわが刻まれていた。
「辛いことを無理に言わせることになってしまって悪かった。だけど話してくれてありがとう。もっと早く気づいてあげられたら良かった」
拓真は私の目を見つめる。
「もう俺の所においで」
「……だけど、ちゃんと別れないと、拓真君に迷惑をかけることになるから」
「どんな迷惑?」
「どんなも何も、きっと拓真君にも嫌な思いをさせてしまう……」
「自分のことじゃなくて、俺のことを心配してくれるの?ありがとう。だけど今は、自分のことだけを考えて。あの人のせいで、これ以上碧ちゃんが傷つくのを見たくない。俺が守るから、逃げて来てほしい」
「でもそんなのは、拓真君から逃げたあの時と同じになってしまう。それに、逃げたって何の解決にもならないと思うの」
「もしかして昔のことが頭にあるから、別れ話をしなきゃ、別れるって言ってもらわなきゃ、って思ってる?」
拓真の問いに、私は無言で頷いた。
「だけど、今回のことは俺の時とは全然事情が違うよ。こんなに傷ついている君を、このまま黙って見ていられるわけがない」
しかし、逃げると言っても実際にはきっと無理だ。それはすでに一度考えたことだが、その先に明るい光は見出せなかった。
「私が別れるって言っても彼は頷かなかった。別れるつもりはないって言うの。会社ではどうしたって顔を合わせる。仕事で絡むこともある。私の部屋も知ってる。それに、待ち伏せしてまで私を待っているような人なのよ」
言っているうちに、声が震え出す。
拓真の手が背中を撫でる。
「大丈夫。何か方法を考えよう。彼から離れるための、差し当たっての問題は部屋かな。向こうに戻ったら、すぐにも訪ねて来そうな感じなんだろ?」
「電話ではそう言っていたわ」
「だったら、ひとまず俺の部屋に来ない?」
「そんな訳にはいかないよ!」
私は首を横に振った。
「いくらなんでもそこまでは甘えられないわ」
「俺は全然構わないよ。むしろ、俺の目の届く所にいてほしいと思う。その方が安心だから」
「それなら、ひとまず知り合いにお願いしてみるわ。私が一人じゃないなら、拓真君も安心できるでしょ?」
「そういうことじゃないんだけどな……」
拓真の口から大きなため息がもれた。
「分かった。この際だ。はっきりさせよう」
「な、何を?」
拓真の口から何が飛び出すのかと緊張する。
彼はふっと目元を緩めた。
「碧ちゃん、保留していた答えを、今、聞かせてもらおう。もう一度言うよ。俺の彼女になってください」
拓真の言葉に鼓動が大きく跳ねる。
「返事は?」
「でも私、まだ……」
「だめだよ。もう『はい』以外は聞かないから」
「そんな答えを強制するようなこと……」
「強制じゃなくて、確認だよ」
拓真はしれっとした顔をする。
私は苦笑し、これ以上の引き延ばしはもう意味がないと観念する。
「はい。よろしくお願いします」
拓真はほっとしたように笑みを浮かべ、しかし急にがくっとうな垂れた。
「ど、どうしたの……?」
驚く私に彼は恥ずかしそうに笑う。
「安心して緊張が解けた。やっぱり気が変わったなんて言われた日にはどうしよう、って思ってたから」
「そんなわけないのに」
私はくすくす笑った。
拓真がほっとしたように笑みを浮かべる。
「やっぱり碧ちゃんは笑った顔が一番可愛い」
「そ、それは、ありがとう」
拓真の言葉に照れながらも、口元は嬉しさに綻ぶ。
「さて、ここで話は戻るけど」
拓真は悪戯っぽい目をして私を見る。
「俺の部屋においで。彼女なんだから、遠慮はいらないよ」
しかし私は首を横に振った。
「それはできないわ」
拓真は苦笑いを浮かべる。
「碧ちゃんはほんと、真面目だよな。……それで、さっき言っていた知り合いっていうのは、どういう人?」
「池上さんの奥さんよ。梨都子さんっていうんだけど、拓真君は知ってる?私にとっては姉のような人なの」
「俺はまだ会ったことがないな。でも池上さんの奥さんなら信頼できる人なんだろうな。だけどそれって、池上さんの家ってことだよね?」
「そういうことになるわね」
「池上さんのね。ふぅん……」
拓真は複雑そうに眉根を寄せている。
なんとなくだが、彼が何を思ったのかが想像できて、私は苦笑した。
「一応言っておくけど、そもそも池上さんは梨都子さんしか眼中にないから」
「分かってる。別に池上さんと碧ちゃんがどうこうだなんて思わない。俺の勝手なくだらないヤキモチだよ。俺よりも池上さんたちの方を信頼してるんだな、っていうね」
「そういう訳じゃなくて……」
困って目を泳がせる私に拓真は訊ねる。
「ちなみにだけど、もしも池上さんの所がだめだったらどうするつもり?」
「その時は、ひとまずどこか安いホテルにでも泊まって、後は落ち着くまでウイークリーマンションとか?」
「そうなったとしても、俺の部屋に来る選択肢はないわけ?」
「だって、けじめは必要でしょ?」
「けじめ、ねぇ……。碧ちゃんの生真面目さが今は本当に恨めしいよ」
拓真は深々とため息をついた。
その横顔に向かって私はおずおずと訊ねる。
「ところで、拓真君。私も確認したいんだけど」
「何?」
「本当にいいのかな?私がまた彼女になっても……」
「何を言い出すのかと思えば」
彼の顔に苦笑が広がる。私の不安を取り除くかのように、言い聞かせるかのように、彼はひと言ひと言ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺が君を彼女にしたいんだよ」
その言葉は胸にすっと入ってきた。彼が私を再び受け入れてくれたことを心の底から嬉しく思う。
「拓真君に再会できて良かった。私のことを受け入れてくれて良かった。私の話を聞いてくれて、一緒に考えてくれて、そして優しい言葉をくれて、本当に感謝してる。元気と勇気が出てきた気がするわ。……そろそろ部屋に戻るね。拓真君のおかげで今夜はよく眠れそう。押しかけるようにして来ちゃってごめんね。おやすみなさい。また明日」
ベッドから立ち上がろうとした私を、拓真の手が引き留める。
「待って。本当に一人で大丈夫?何度も言うけど、俺には甘えていいんだからね。もう彼女なんだから」
一人で眠れると思ったばかりなのに、拓真の言葉に気持ちが揺れる。
「君が俺の所に戻ってきてくれる日がやってきて、嬉しくて仕方ないんだ。これが夢じゃないって信じられるように、今夜はこのまま一緒にいてくれないか?」
拓真の瞳が潤んで見えてどきりとする。
「で、でも、一人の方がゆっくり眠れるわ」
「一人より二人の方が、不安な気持ちも和らぐよ。それに、きっとあったかい気分で眠れるはず」
「甘えさせ上手な所は変わっていないのね」
「甘えさせ上手?」
「言い方が上手だってことよ」
「何、それ」
拓真は苦笑し、それから思い出したように言った。
「そう言えば、着替えるって言ってたんだったね」
「うん。行って来る」
「行ってらっしゃい。待ってるよ」
艶めいたことを言われたわけではないのにどきりとする。そそくさと拓真の部屋を出て、自分の部屋に戻るとすぐに、明日の夜泊めてほしいことなどをお願いするために、梨都子宛にメールを送る。
パジャマに着替え終えたタイミングで、彼女から「了解」との返事が来た。
部屋を出る前に、念のためにと持ってきていたカーディガンを羽織る。貴重品を入れたバッグだけを持ち、再び拓真の部屋の前に戻った。ノックをしてすぐに彼が顔を出す。
拓真はまぶし気に目を細めた。
「可愛いパジャマ、着てるね」
彼の言葉のせいで頬が熱くなる。
「恥ずかしいからあんまり見ないで」
「それは難しいな」
拓真はくすくす笑いながら、ベッドがある方へ足を向けて私を呼ぶ。
「おいで」
「し、失礼します……」
カーディガンを脱いで椅子の背にかけた。どきどきしながら、拓真がめくり上げた掛布団の中に入る。
「電気、消すよ」
足元の灯りだけを残して部屋の照明を落とし、拓真は私の隣に体を横たえた。
「おやすみ」
彼の穏やかな声が降って来る。
「おやすみなさい」
彼は私の髪を繰り返し撫でるだけで、それ以上は触れようとしなかった。
少しだけ残念に思う。しかし、優しい手つきで頭を撫でられているうちに、瞼が重くなってきた。どきどきとうるさかった鼓動も落ち着き出す。
私を気遣う彼の声が静かに聞こえる。
「眠れそう?」
「えぇ。眠くなってきた……」
「それは良かった。おやすみ」
「おやすみなさい。ありがとう」
髪に拓真の息遣いを感じながら、目を閉じた。すぐ傍に感じる彼の温もりが心地よい。こんな風に温かい安心感を覚えたのはいつぶりだろう。あっという間に睡魔が訪れ、私は眠りに引き込まれた。