予想もしなかった夫の言葉に、私は自分の耳を疑った。もしかしたらこの言葉は私が岳紘さんからそう言われたいと思うあまり、勘違いしたのではないかと。驚いて返事を出来ないままでいた私に、彼は少しだけ目を伏せてかろうじて聞き取れるほどの声で呟いた。
「俺が待っていたら、迷惑だったか……?」
「! そ、そんなわけない。私はただ疲れてるだろうと思って」
考えてみれば私が岳紘さんよりも遅く帰宅したことなど、結婚してから一度か二度あるかどうかくらいだ。それだって深夜になる前には帰って来ていた、今回のように彼が寝る時間より遅くなるかもしれないのは初めてだ。
私が帰るまで起きて待っている、その理由を聞きたいがまた期待して裏切られるのは辛い。それが私のわがままだとしても、中途半端に望みを持たせるのは彼の悪いところだとも思ってしまう。
「じゃあ、待っている。俺がそうしたくてしている事だから、雫は気にしなくていい」
「でも、岳紘さん……いいえ、ありがとう」
彼が一度こうと決めたら、割と頑固な性格だと言うことは長付き合いで分かっている。理由もなく断り続ければ岳紘さんもいい気はしないはずだと思い、私は素直に彼の待っているという言葉に頷いた。
正直な気持ちを言えば、少しだけ嬉しかったのだ。大した理由はなくても、岳紘さんが私を待っていると言ってくれたことが。ずっと彼を待つばかりだったけど、今回の言葉で夫がほんの少し自分を見てくれた気がして。
――――
「カンパーイ!」
ビールのジョッキがぶつかりカチンカチンと音がする、久しぶりに聞くそれに少しテンションが上がる。
当日まで迷いながらも結局参加することを選んだ親睦会だったが、やっぱり来て良かったと思う。気を使って私の横に座ってくれている久我さんの存在も有難い。
「ところで麻実ちゃんはお酒強いの? あまり得意じゃなければ私に任せてくれてもいいんだからね?」
「ありがとうございます、久我さん。もしかしたら……お願いするかもしれません」
「いいわよぉ、そうやって仕事の時も遠慮なく頼ってくれると嬉しいんだけど」
そう言って笑う久我さんにつられて私も頬が緩む。仕事の時、いつも自分のことは自分でやらなければと気を張っている事を久我さんには気付かれていたようだ。
仕事の話はしても休憩時間などの世間話には積極的に参加しなかった私を、彼女はいつも気にかけてくれていた。それが冗談なのか本気なのかを私が分かっていなかっただけで。
「あー、久我さんばかり麻実さんと話をしててズルいですよ! 僕だって麻実さんに色々聞きたいの我慢してたのに」
「はいはい、いいから。秋葉君は先生たちのお酌をしながら、ためになる長ーい話でも聞いてなさいね」
「ヒドい!」
久我さんにあしらわれ、恨みが増しそうな視線を向けながらも新人医師の秋葉君はまたベテラン医師のお酌をしに戻っていく。そんな二人のやり取りを微笑ましく感じながらも、飲み慣れないビールのジョッキを傾ける。
苦味を味わい、喉が熱くなるのを感じる。普段、岳紘さんが私に勧めてくるのはワインが多いためか久しぶりのビールはより美味しく感じられた。
「美味しそうに飲むのね、意外とお酒に強いとか?」
「あ、いえ……久しぶりだったので、つい」
ニコニコと笑顔で私を見る|久我《くが》さん、私はそんな彼女の視線に恥ずかしさを感じながらも決して悪い気はしていない。周りの人たちもいつの間にかジョッキを空けて追加注文したり、テーブルの料理をつまみながら楽しそうに談笑している。
学生時代にも何度かこうやってサークル仲間と飲み会をしたことはあるけれど、この雰囲気はやっぱり嫌いじゃない。アルコールが入った所為もあってかどこかふわふわとした気分で楽しくなってくる。
「でも飲みすぎには注意しなきゃね、旦那さんに怒られて次がなくなったら私が寂しいもの」
「……怒る、かどうかは分かりませんけどね」
「そう? その割りにはずいぶんスマホを気にしているみたいだけど。あの時も、そうだったわよね」
そう久世さんに言われて始めて気づいた、自分が何度もスマホの画面をチェックしていたということに。そして彼女の言うあの時というのが、私が唯一この職場で参加した飲み会だと言うことも。
「あの日、何度もスマホをチャックしてた貴女は途中で帰ったのよね。だから私はてっきり旦那さんが怒ったのかと思ったのよ」
「そう、だったんですか。誤解させてしまってすみません」
あの時に送られてきたメールにはたった一言だけ『いつ帰る?』と打たれていた。それを心配してくれているのだと勘違いした私が、勝手に慌てて帰ってしまっただけ。すぐに家へと帰った私に|岳紘《たけひろ》さんはいつもと変わらない態度と表情しか見せてくれなかった。
そう、私が……勝手に期待してしまっただけ。
「麻実ちゃん、大丈夫?」
いつの間にか目の前には心配そうに私を見つめる久我さんがいた。どうやら私は岳紘さんのことをばかりを考えてしまい、周りの話を聞き流してしまっていたようだ。焦って何か言わなければと思っていると、久我さんが私に水の入ったグラスを渡して……
「ちょっとハイペースで飲ませてしまったかも、麻実ちゃんが来てくれて嬉しくて。責任持って私が彼女を見てるから、みんなは楽しんでて。さ、麻実ちゃんは外で風にでもあたりましょう?」
「あ、はい」
実際はそれほど酔ってはいなかったが、この状況で久我さんの言葉は有り難く彼女の言う通り具合の悪いふりをして店の外に出た。少し火照った身体に、冷たい夜風が気持ち良い。
「すみません、迷惑をかけちゃって。でも……助かりました。ちょっとぼーっと考え事してしまってたので」
「そんなことは気にしなくていいのよ、さっきの麻実ちゃんの様子を見てて放っておけるわけないもの」
よほど酷い顔をしていたのだろうか? 久我さんはまだ心配で仕方がないという表情のまま。私もそんな彼女の様子に気のせいでしょう、と言えないでいた。気を使わせてしまい申し訳ないと言う気持ちはもちろんある、でも正直なところ誰かにこの悩みに気づいて欲しかったのかもしれない。
私と岳紘さんの二人だけのルールを話せるわけじゃない、それでもただこうして傍にいて支えようとしてくれている久我さんの心遣いが嬉しかったのだ。