「ごめんなさい。こんなによくしてもらってるのに私、何も話せなくて……」
普通の夫婦の悩みならば相談出来たのかもしれない、むしろそうであればよかったとさえ思う。ちょっとした夫の愚痴をお互いで笑い話にできるような、そんな関係になれたらと。
だが実際には人に話せないような奇妙な夫婦関係を望まれていて、とてもそれを相談する気にはなれそうにない。未だ友人にも話せずにいるのは……多分、そんな相手とは離婚するべきだとはっきり言われてしまうのが怖いから。
まだ彼のことを愛していて、離れる自信がない。そんな弱い自分を分かっている、もしかしたら夫もそんな私のことを理解してこんな夫婦生活を提案してきたのかもしれない。
「なんでも話さなければ良い関係が築けないわけじゃないと思うわ。でもそんな泣きそうな顔をしている間は傍にいてあげたいの、それではダメかしら?」
「|久我《くが》さん……」
鼻の奥がツンとする、目の裏側が熱くてジンジンするようで。視界が滲んでぼやけてしまうから、俯いて久我さんから顔を逸らした。
……そういえば久我さんがやたらと私に話しかけるようになったのは、最近のことで。前からフレンドリーな人ではあったが、視線が合うようになったのも。
そう、岳紘さんとのルールが決まった頃からだった。
「いつも真面目な|麻実《あさみ》ちゃんが、あの日だけとてもミスが多かったでしょう? それからずっと貴女の様子が今までと違って見えて、放っておけなくなってたのよ」
「そう、だったんですね。私の変化に気付く人なんていないとばかり思ってました」
自分ではいつもと変わらぬ態度で仕事をしているつもりでいた。たとえ心穏やかでなくても、それを誰かが気にするなんて思いもしなかったとうのもある。職場の人間関係だから、それくらいドライなものだと深く考えもしないで……
「こういうの、迷惑かもしれないとは思ったの。でも私ってほら、すごくお節介な性格だから」
「そんなことないです、私は今すごく|久我《くが》さんに救われてますから……」
勝手に一線引いていたのは私の方だ。自分が周りを見る余裕がなかったから、そう自身に言い聞かせて都合よく考えてしまっていた。そんな自分が恥ずかしくもあったが、久我さんの優しさは素直に嬉しいと思えた。
久我さんは屈託のない笑顔でそう笑ってみせるけど、彼女のそんな性格に周りの人がどれだけ元気をもらえるのか本人は知らないのかもしれない。
「だといいのだけどね、こんな性格だから身内にはよく怒られちゃうのよ。近所でも有名なお節介おばさんなんだって、恥ずかしいってね」
「そうなんですか? 結構厳しいですね……」
私にとって久我さんはフレンドリーな職場の先輩だけど、彼女の家族の反応は意外と厳しいようで。それでも周りを放って置けない彼女はすごく強くて素敵な女性なのだと思う。
辛い現実ばかりと向き合ってるつもりになって、一人で全部抱え込んでいたけれどそれは違ったのかもしれない。もっと周りを見て今の自分に何が出来るのか、これから何が必要なのかを見つめ直して前に進む努力をしなければ。
……こうして、私のことを気がけてくれてる人に情けない姿ばかりは見せられない。
「|久我《くが》さん、わたし……あ」
今の気持ちを真っ直ぐに伝えようとした瞬間、ポケットに入れたままになっていたスマホが震える。着信音じゃない、だけど私にとっては特別なメッセージの受信音。個別に設定されたそのメロディーが、いまでもこうして私の心を揺らす。
ゆっくりスマホを取り出して、ロックを解除し送られてきたメッセージを確認する。ああ、どうして……
「旦那さんからよね? 大丈夫?」
「……ええ、大丈夫です。大した用ではなかったので」
そう、別にどうって事ない。何なら返事をしなくてもいいような内容に過ぎないのに、私のスマホを持つ手は震えていた。どうして今になってこんな言葉を私に送ってくるのかと。
『楽しんでおいで、帰ってきたら君の話が聞きたいから』
妻である私を遠ざけるようなルールを作ったのは岳紘さんの方なのに、これじゃあまるで……期待しそうになる心に私は慌ててストップをかける。後で肩透かしを食らってガッカリするのは自分なのだ、このメッセージに深い意味などきっと無いに違いないのだから。
「戻りましょうか、だいぶ酔いも冷めてきましたし」
「そうね、でも|麻実《あさみ》ちゃんはもう帰った方がいいわ。私がタクシーを呼んであげるから」
|久我《くが》さんにはもしかしたら自分の悩みを気付かれているのかもしれない。もちろん全てを分かっているわけではないだろうけれど、彼女の気遣いで何となくそう思った。
……全部を話せなくても、久我さんがこうして背中を押してくれるだけでとても心強いわ。
「はい、ありがとうございます」
「あら、ちょっと元気出たみたいね。じゃあ私が荷物を持ってくるから待っていて、|麻実《あさみ》ちゃんが帰るって言ったら男共が五月蠅いでしょうから」
そう言って軽い足取りで久我さんは店に中へと戻っていく。その様子を少しだけホッとしながら見つめていると、手に持っていたスマホが新しいメッセージを知らせてくる。
|岳紘《たけひろ》さんは何度もメッセージを送ってくるような人ではない、少なくとも今まではそうだった。それなのに……
「何で……?」
私の知っている夫はこんな事でメッセージを送ってくる人だった? 今まで私から何度メッセージを送っても、必要最低限の返事しかもらっていなかった。岳紘さんはそういう人だと思い込むことで、その寂しさを必死で誤魔化していたのに。
『|雫《しずく》、ごめん。コーヒーの詰め替えが、どこにあるのか教えて欲しい』
……何故、今コーヒーの詰め替えを? 思わず首を傾げてしまう、私が今朝見たときはまだ詰め替えが必要な状態ではなかったはずなのに。
確かに普段詰め替えをしているのは私だし、彼は分からないのかもしれないが。それなら自販機で買ってくれば良さそうなのに。ストックの置き場はメッセージでは説明しにくい、今から帰るからと返事を送って久我さんの呼んでくれたタクシーに乗り込んだ。
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