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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
手の中で湯呑みが揺れ、熱い番茶が一滴、手袋に落ちた。
「旅館で、女将さんに教わったものです。風邪のひきはじめに、と」
私は、手首を引いた。
熱い指は、思ったよりあっけなくほどけた。
榊さんは何も言わずに、私の手から湯呑みを受け取った。
両手で包み、一口、飲んだ。
それから、長い息を吐いた。
「……同じ味だ」
私は布団を敷いて、離れを出た。
あの人は、気づきかけている。
それなのに私は、あの人のためにお湯を沸かす手を、止められなかった。
*
撮影の日の土曜日は、梅雨の晴れ間だった。
朝の六時から、私は厨房に立っていた。
ローストビーフは前の晩から仕込み、サフランパンの生地は、二度目の発酵を待つばかり。前菜の野菜のテリーヌは、型ごと冷蔵庫で冷えている。
あとは、仕上げるだけだった。
「凛さん、ちょっと来て」
八時過ぎ、麗奈が厨房に顔を出した。
もう、撮影用のパステルブルーのワンピースに着替えていた。
「地下のセラーに、撮影で使うワインを取りに行きたいの。どれがいいか、一緒に選んで」
私はエプロンで手を拭き、麗奈のあとについて、半地下への階段を下りた。
セラーの扉を開ける。
裸電球の紐を引き、棚の前に立った。
振り向いたとき、扉が閉まった。
がちゃり、と外から鍵のかかる音がした。
「奥様?」
扉の向こうで、麗奈の笑い声がした。
「料理は、私が作ったことにするの。だから、家政婦はいないほうがいいのよ」
「奥様、まだ仕上げが――」
「わかってる。あとは並べるだけでしょ? 私だって、それくらいできるわよ」
ヒールの音が、階段を上っていった。
「撮影が終わったら、出してあげる。あんたはそこで黙ってて」
*
私は、扉を叩かなかった。
叩いても、誰にも聞こえない。
並べるだけ、ではなかった。
サフランパンは、二次発酵が終わったら卵を塗って焼く。焼き時間は十八分。焦げやすいから、十分で天板の向きを変える。
テリーヌは、型ごと湯に一瞬くぐらせなければ抜けない。
麗奈は、そのどれも知らない。
このままでは、料理は出せない。
そして麗奈は、家政婦が仕込みを台無しにした、と言うだろう。それでは、私が首になるだけだ。
私は、奥の壁を見た。
配膳リフトの、最下点の扉。
*
箱は、地下に下りていた。
昨夜、私がワインを上げたあと、ここへ戻しておいたものだ。
扉を開ける。
七十センチ四方の、木の箱。
この箱に乗るのは、陽翔のミニカーを取ったとき以来だった。
靴を脱ぎ、箱の中に、膝を抱えて入った。
首のスカーフが、天井の板に擦れた。
竪穴の壁ぎわを通るロープを、両手でつかんで下へ引く。
ぎし、と箱が軋んだ。
少しずつ、上がりはじめる。
真っ暗だった。
手のひらの下を、ざらざらしたロープが滑っていく。手袋の中で、左の人差し指の傷が引きつれた。
厨房の扉の裏で、箱を止めた。
耳を澄ませる。
誰もいない。
内側から扉を押し開け、私は厨房の床に転がり出た。
*
それから四十分、私は一度も手を止めなかった。
オーブンに火を入れる。パンに卵を塗り、天板を入れる。
ローストビーフを切って皿に並べ、ソースを煮詰める。テリーヌを型から抜き、切り口を揃える。
十分で、天板の向きを変えた。
廊下の向こうで、麗奈がスタイリストと笑う声がしていた。
誰も、厨房には来なかった。
十八分。
黄色いパンが、ふっくらと焼き上がった。
全部の皿を配膳台に並べ、パンを籠に盛って、白いナプキンをかけた。
それから、リフトの箱にもう一度、膝を抱えて乗った。
ロープを上へ送る。箱が、暗い竪穴を下りていく。
ワインセラーの床に、ことり、と箱が着いた。
私は箱から出て扉を閉め、靴を履いて、棚の前に座りこんだ。
ロープでこすれた手のひらが、じんじんと熱かった。
十一時過ぎ、階段を下りてくる足音がした。
鍵穴に、鍵が差しこまれる。
扉が細く開き、麗奈の顔がのぞいた。
血の気が、引いていた。
「……あんた、ずっとここにいた?」
「はい、奥様。鍵がかかっておりましたので」
鍵をかけたのは、あなたです。
その言葉は、喉の奥にしまった。
麗奈はセラーの中を見回した。リフトの扉には、目もくれなかった。
「厨房に、料理が全部……」
言いかけて、麗奈は口をつぐんだ。
誰がやったの、とは聞けない。聞けば、自分が何もしていないことを認めることになる。
「……もういいわ。撮影が終わるまで、厨房から出てこないで」
扉は開いたままだった。
*
午後二時。お茶の時間の撮影は、食堂で行われた。
私は厨房にいた。
食堂とのあいだの配膳口の小さな戸が、指一本ぶん開いていた。
長いテーブルに、サフランパンの籠。ローズの花。銀のティーポット。
麗奈の隣で、蒼真が白いシャツにネイビーのジャケットで微笑んでいる。お義母さまは上座で、背筋を伸ばしていた。
向かいの席に、灰色のスーツの女性が座っていた。
短く整えた髪に、真珠の一連。コラムの横の、小さな顔写真と同じ人だった。
「このパン、奥様が焼かれたんですって?」
葛城さんが、籠から一つを手に取った。
黄色い生地を、そっと割る。サフランの香りが、配膳口のこちらまで流れてきた。
「ええ。お菓子作りが趣味で」
麗奈がにっこり笑った。
カメラマンのシャッターが、何度も鳴った。
葛城さんは、割ったパンの断面を見つめていた。
それから、ふっと目を細めた。
「懐かしい」
声が、少しだけ揺れていた。
「ルチア祭の朝の、寮の匂いだわ。御影さん、聖ルチアのご出身なんですってね。何寮でいらしたの?」
麗奈の笑顔が、一瞬、止まった。
「あ……私、寮には入っていなくて。通いだったので」
「そう。じゃあ、ルチア祭の朝は? あなたの学年で、ろうそくの冠をかぶったのはどなた?」
「……ああ、そういうのは、あまり」
麗奈はティーカップを持ち上げた。
指先が、かすかに震えていた。
「行事とかは、そんなに出なかったんです。勉強のほうが、忙しくて」
葛城さんは、パンを皿に置いた。
カメラマンの指が、シャッターの上で止まった。
「御影さん」
葛城さんの声は、穏やかだった。
穏やかなまま、笑顔だけが、その顔から消えていた。
「聖ルチアでは、通いの学生も、一年生の十二月の一晩だけは、全員が寮に泊まるの。そして、ルチア祭の朝を迎える。それが、うちの学校のいちばん大事な行事なのよ」
麗奈の唇が、半分開いたまま固まった。
「聖ルチアの卒業生で、ルチア祭を知らない人はいないわ」
誰も、何も言わなかった。
蒼真のえくぼが、頬の途中で凍りついていた。
お義母さまが、膝の上の扇子をゆっくりと閉じた。ぱちり、という音が、食堂じゅうに響いた。
「今日の撮影は、ここまでにしましょう」
葛城さんは立ち上がり、カメラマンに目をやった。
「この記事は、載せられません。うちの読者には、本物の聖ルチアの卒業生が、たくさんいるの」
「待ってください。これは、何かの行き違いで」
蒼真が腰を浮かせた。
「御影社長。奥様の経歴は、週刊誌でも拝見しました。訂正なさるなら、ご自分の口でなさったほうがいいわ」
葛城さんはハンドバッグを手に取り、食堂の出口で一度だけ振り返った。
「パンは、とてもおいしかった。焼いた方に、そうお伝えになって」
麗奈は、椅子に座ったまま動かなかった。
パステルブルーのワンピースが、急に色あせて見えた。
私は、配膳口の戸を音を立てずに閉めた。
*
その夜、九時を過ぎて、私はムギの散歩に出た。
書斎で蒼真が何かを床に叩きつける音が一度だけして、母屋はそれきり静まりかえった。
離れの前に、ちょうど宅配便の車が止まったところだった。
「榊さんのお宅ですね。お届け物です」
段ボール箱を抱えた配達員が、私を見た。
離れの奥から、電話で話す榊さんの低い声が聞こえていた。熱は、もう下がったらしい。
「代わりに、お受け取りします」
「じゃあ、ここにサインをお願いします」
配達員が、伝票とボールペンを差し出した。
疲れていた。
朝の六時から厨房に立ち、真っ暗な竪穴を上り下りし、冷たいセラーで膝を抱えていた。
ペンを受け取り、伝票の欄に「榊」と書いた。
書き終えてペンを返そうとしたとき、指が止まった。
ペンを握っていたのは、左手だった。
伝票の上の、「榊」の字。
横線が、少しだけ右下がりに傾いていた。
配達員は気にも留めず、伝票をちぎって車に戻っていった。
段ボール箱を抱えて、振り返った。
離れの戸口の暗がりに、榊さんが立っていた。
眼鏡の奥の目が、私の左手を見ていた。
それから、私の顔を見た。
一歩、近づいてくる。
軒灯の届かない、暗がりの中で。
「……生きていたんですね」
低い声だった。
氷の、と呼ばれる人の声とは思えないほど、かすれていた。
「澪さん」
コメント
1件
いやっ…… ラストの「生きていたんですね」で震えたわ。 配膳リフトで厨房に戻るシーン、マジで手に汗握った。暗い竪穴を手袋の感触だけで上がる緊張感、めっちゃ映像が浮かんだ。 聖ルチアの矛盾を突かれるざまぁも痛快だったけど、それより榊さんに「澪さん」って呼ばれた瞬間の、名前が戻る重みが刺さった……。 続きが気になりすぎる!!🔥