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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
段ボール箱の角が、腕に食いこんでいた。
離れの軒灯は、戸口の手前までしか届かない。
その光の外側で、榊さんはまだ私の左手を見ていた。
「……どなたのことでしょう」
凛の声で言った。
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
「私は、佐伯凛です。旦那様の前の奥様には、お会いしたことも」
「伝票の字です」
榊さんは、私の腕から段ボール箱を取り上げた。
片手で抱え、戸口の内側に置く。
「横線が、右下がりに傾く。右手で書く人間の字は、たいてい右に上がる」
「疲れていて、手が」
「四十九日の墓で泣いていた。ハンカチを千鳥に畳む。左の人差し指に、古い傷がある。梅と生姜のお茶を淹れる」
指を一本ずつ折るように、彼は言った。
低く、平らな声だった。
「どれか一つなら、偶然です。全部そろったら、偶然とは呼ばない」
戸口の奥で、ムギが鼻を鳴らした。
とことこと出てきて、私の膝に頭を押しつける。
否定の言葉を、私はいくつも用意していた。
トキさんの家で、何十回も練習した言葉だった。
口から出たのは、そのどれでもなかった。
「……いつから」
「診察券を拾ったときから、疑っていました。確信したのは、いまです」
榊さんは、戸口の脇へ身を引いた。
「入ってください。ここなら、母屋の誰にも聞こえない」
*
全部を話すのに、二十分かかった。
書類の山のあいだの、小さな卓袱台を挟んで座った。
ムギは私の足に背中をくっつけて、眠ったふりをしていた。
去年の十一月二十日の夜のこと。
配膳リフトの竪穴を降りてきた、蒼真の声。ブレーキ。保険。二億。
録音したレコーダーを、リフトで地下へ下ろしたこと。
坂の途中で、ずぶ濡れの女の人を車に乗せたこと。
その人が、震えている私の代わりにハンドルを握ってくれたこと。私のコートを着て、運転席で死んだこと。
「佐伯凛さんです」
私は、自分の胸に手を当てた。
「この名前は、その人のものです。私は、借りているだけです」
病院で目を覚ましたら、自分の葬式が終わっていたこと。
東雲先生が顔を作り直してくれたこと。トキさんが、凛さんのために干してあった布団で私を寝かせてくれたこと。
この家に戻ってきて、レコーダーが消えていたこと。
新居祝いの夜、蒼真と麗奈が二億で乾杯するのを、ワインを注ぎながら聞いたこと。
榊さんは、一度も口を挟まなかった。
眼鏡の奥の目を伏せ、膝の上で指を組んだまま、聞いていた。
話し終えると、離れの屋根を打つ雨の音だけが残った。
いつのまにか、また降りだしていた。
「警察に、行こうと思っていました」
私は言った。
「証拠がそろったら。録音が見つかったら。明日にでも」
「反対です」
即答だった。
「いま行けば、あなたは事故の生存者の『佐伯凛』のままだ。記憶がないと供述した人間が、半年たって急に思い出した、と言うことになる」
榊さんは、指を一本立てた。
「車は燃えた。録音機は消えた。あなたが話せるのは、あなたが聞いたことだけです。蒼真には弁護士がつく。堂島を切って、全部をあの男一人の仕業にして終わる」
私は、スマートフォンを出した。
書斎の隠し引き出しで撮った写真。蒼真の字で、「御影澪」と何十回も練習した紙。二億の保険の申込書の控え。
温室の缶から出した、ホテルの前の二人の写真。
榊さんは一枚ずつ、指で拡大して見た。
署名の練習紙のところで、長く手が止まった。
「よく撮りましたね」
それから、画面を私のほうへ返した。
「でも、これは家政婦が主人の書斎を漁って撮ったものです。俺が蒼真の弁護士なら、まずそこを突く。どこまで本物か、誰が置いたのか、と」
わかっていた。
わかっていて、誰かに言ってほしかったのだと思う。私一人で、そう決めるのが怖かったから。
「……では、どうすれば」
「条件が、二つあります」
榊さんは、眼鏡を外した。
指で目頭を押さえ、もう一度かけ直す。
「一つ。一人で命を賭けないこと。危ないことをするときは、先に俺に言う」
「二つ目は」
「全部終わったら、自分の名前を取り戻すこと」
私は、顔を上げた。
「凛さんの名前のまま、凛さんの墓の下に澪さんを置いておくような終わり方は、させない。それが二つ目です」
喉が、詰まった。
火傷の痕が、ひりひりと熱くなった。
「……どうして」
声が、かすれた。
「どうして、そこまでしてくださるんですか。私は、あなたにとって、弟の妻だった女です。それも、三年のあいだ、ほとんど口をきいたこともない」
榊さんは、すぐには答えなかった。
窓の外の雨を見ていた。
三年前の、あの雨の勝手口を見ているのだろうか、と思った。
「借りがある」
それだけだった。
*
「俺のほうからも、一つ話しておきます」
榊さんは、卓袱台の上の書類を一枚、裏返した。
「父は生前、遺言は書いてある、と言っていました。俺にも、叔父にも」
「遺言」
「葬儀の翌日、父の顧問弁護士が書斎の金庫を開けた。空だった。金庫の番号を知っていたのは、父と、義母だけです」
お義母さま。
和館の奥の、背筋の伸びた着物の背中が浮かんだ。
「あの人は、何かを隠している。三年前から、ずっとそう思っています」
あの人は何も残さなかったわ。
応接間で、お義母さまはそう言った。
扇子を、膝の上でほんのわずかに傾けて。
「この家には、いくつも鍵がかかっている。蒼真の書斎。洋館の浴室。茶室。蔵」
榊さんは、私の顔を見た。
「その全部を、あなたは知っている」
「……埃のたまる場所なら、目をつぶっても指でなぞれます」
口が、勝手にそう言っていた。
榊さんの口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれなかった。
*
壁の時計を見た。
九時四十分。散歩は三十分の約束だった。
「戻らないと。堂島さんが、夜の見回りをしています」
立ち上がりかけた私を、榊さんの声が止めた。
「呼び方を、決めておきましょう」
「呼び方」
「その『榊様』は、やめてください。俺は、この家の主人じゃない」
私は少し迷ってから、口にした。
「……榊さん」
「人前では、佐伯さんと呼びます。二人のときは、凛さん、と」
彼は、一度言葉を切った。
「澪さんと呼ぶのは、今夜だけにします。壁に耳がある家だ」
今夜だけ。
その言葉が、思っていたより胸に落ちた。
榊さんは立ち上がり、戸口に置いた段ボール箱の封を、指で裂いた。
中には、分厚いファイルの束と、その上に、白い小箱が一つ。
彼はその小箱を取り出して、私の前に差し出した。
医療用の、薄い使い捨て手袋だった。
肌の色に近い、ぴったりと指に沿う種類のもの。
「その手袋じゃ、水仕事で傷が開く」
私の白い木綿の手袋を、彼は見ていた。
左手の人差し指のあたりが、ロープでこすれて、うっすらと赤く滲んでいた。
「木綿の下に、これを一枚。濡れても、傷に水が入らない」
「……いただけません。こんな」
「経費だ」
敬語が、また崩れていた。
経費で払う。いくらですか。
流しの横に置いてあった、角ばった字のメモを思い出した。
あのときから、この人は私の手を見ていたのだ。
いつ、注文したのだろう。今夜より前に。私が誰なのか、確かめるより前に。
小箱を受け取った。
軽かった。それなのに、両手でないと持てない気がした。
「ありがとうございます、榊さん」
凛の声で、そう言った。
蒼真から三年かけてもらえなかったものを、私はこの人から、たった一箱でもらってしまった。
それは、口には出さなかった。
ムギのリードを外して、戸口を出る。
雨はまた、細くなっていた。
「凛さん」
背中で、名前を呼ばれた。
借りている名前のほうで。
振り返ると、榊さんは軒灯の下に立っていた。
眼鏡のレンズに、雨粒が一つついていた。
「まず、義母から崩す。この家の鍵を握っているのは、あの人だ」
コメント
1件
おお、ついに…! 榊さんの「借りがある」の一言が重すぎる。 「今夜だけ」って呼び方の制限とか、経費で手袋買ってくれたとか、そういう細かい気配りが榊さんのキャラを完璧に際立たせててやばい…。義母から崩すってラストからの展開すごく気になるわ。 凛さんの名前じゃなくて、澪さんとして自分を取り戻す戦いが始まるんだな。続きめっちゃ楽しみ!