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大和屋仁平
「爺さん、志麻から手紙が届いてるぜ」一刀斎が粉挽慈心こなびきじしんの住戸の引き戸を開けた。
慈心は浅草での居合抜き商売を終えて刀の手入れをしていた所だ。
手を止めて一刀斎を見遣みやる。
「なんと言ってきた、元気に旅は続けておるのか?」
「それがな・・・」一刀斎が慈心の前に手紙を投げて寄越した。「まあ、読んでみねぇ」
刀を鞘に収めて手紙を開き、短い文面に目を落とすと慈心は眉根を曇らせた。
「志麻が刺客に狙われておる・・・と?」
「そこに書かれている大和屋仁平という男を知ってるかい?」
「いや知らぬ、しかし名前から察すると何かの商いをやっておるようじゃな」
「その文面じゃ詳しい事は分からねぇが、どうやらそいつが志麻に刺客を送り込んでいる張本人らしい」
「なぜそのような事になった?」
「それも分からねぇ、志麻が恨みを買うとしたら草壁監物くさかべけんもつしか思い当たらねぇが・・・」
「ふむ、ありそうな事じゃな・・・」
慈心は手紙を畳むと一刀斎に返した。
「で、どうする?」
「志麻には鬼神丸があるから大丈夫だろうが、お紺が一緒だからな。何とかしてやらなくちゃなるめぇ」
「大和屋を斬るか?」
「もしそいつが裏の稼業に関わりのある奴なら一筋縄じゃいくめぇよ。まず情報を集めるのが先だ」
「裏の稼業に詳しいと言えば・・・」
「銀次しかあるめぇ」
「奴はもう掏摸すり稼業に復帰しておるのか?」
「元締めに頼み込んで、ようやく許しをもらったみてぇだ」
「そうか、ならば早速銀次の奴に頼んでみよう。志麻の危機とあらば嫌とは言うまい」
「よし、俺が銀次の所へ行って来る」
「お梅婆さんにはくれぐれも気付かれぬようにな、卒倒して死ぬぞ」
「ああ、分かってる」
一刀斎は腰高障子を開けて表を確かめると、足音を忍ばせて銀次の住戸へ向かった。
*******
銀次は素早く天水桶の後ろに身を隠した。
一刀斎に頼まれて掏摸すりの元締めに話を通し大和屋の所在を突き止めたのだ。
その為に元締めは江戸一円の掏摸の情報網を最大限に使って探索に協力してくれた。
元締めは一つだけ条件を出した。銀次を自分の後継あとつぎにすると言う事。
銀次は一も二もなく承諾した。志麻を助ける為なら何だってする。
それに元々仕立て屋よりは性に合っている。
掏摸は盗賊と違って非道はしない。元締めの方針で貧乏人を標的にする事は無いし、金持ちの成金や横暴な侍を専門に狙うので罪悪感も少ない。まぁ、それで銀次は草壁監物を狙って失敗したのだが、元締めはいい勉強になったと言ってくれた。掏すった金は元締めの元に集められ、そのうち何割かは身寄りのない子供達を養う為に使われる。残りは働きに応じてそれぞれに分配される仕組みになっている。
別に義賊を気取るつもりはないが、お上の手の届かない所を、自分達が穴埋めしているという矜持きょうじは持っているのだ。それにピンで活動している掏摸は、何を仕出かすか分からない。組織として管理した方が理に適っている。自分が後継になってその組織をしっかりと纏め上げると言うのも悪く無いと思った。
しかしまぁ、それは先の話、今は大和屋の尻尾を掴むのが先決である。
通りの向こうから供の下男に提灯を持たせて歩いて来るのは、間違いなく口入屋の大和屋仁平である。
歳はそれほどいっていない、せいぜい四十代半ばというところか。
背が高く役者絵にしても良いような色男である。
天水桶の斜向はすむかいにある大店の潜戸を下男が叩くと、中から扉が開いた。
お帰りなさいませ、と女の声が聞こえて仁平は吸い込まれるように姿を消した。
「さて、これから寝ずの番か・・・」
銀次がここを見張り始めて今日で五日目になる、そろそろ動きがあっても良い頃だ。
「頼むぜ、今日こそ尻尾を掴ませてくれ・・・」
銀次は祈るように仁平の消えた潜戸を見ていた。
*******
「しっ、良い子だからあっちへ行ってくれ・・・」
江戸では防犯の為町内で町犬まちいぬを飼っている。銀次は見張の初日に黒い町犬に吠えられて這々(ほうほう)の態で逃げ帰った。次の日には魚の干物と焼き芋の尻尾を持って行き、まんまと犬を籠絡ろうらくしたのであった。
銀次は懐から用意して来た蒲鉾かまぼこの切れ端を出して犬の鼻先に持って行く。犬は鼻を鳴らして匂いを嗅ぐと銀次の手から蒲鉾を奪ってガツガツと喰い始めた。喰い終えて、もっと無いのかと銀次を見上げる。銀次はもう無いよと両手を開いて見せた。
その時、犬の耳がピクリと動いたかと思うと、唸り声を上げて凄い勢いで駆け出して行った。
いつの間に現れたのか、黒い着物に黒い袴をつけた二本差しに向かって、けたたましく吼えたてている。
侍は落ち着いた態度で刀を抜くと、一刀の元に犬を斬り捨てた。犬は高い声で一声鳴くと道に倒れて事切れた。
「酷ひでぇ事をしやがる・・・」銀次は口の中で呟いた。それなりに情が移っていたのだろう。
懐紙で刀身を拭って鞘に収めると、侍は一刻前に大和屋の潜った潜戸を叩いた。
くぐもった声で何か言ったが銀次には聞き取れなかった。
暫くして戸が開き、侍が中へ入るとすぐに閉められた。
「やっと現れやがった・・・」
銀次は天水桶の陰から出ると大和屋の裏口へと回って行った。
*******
大和屋の裏口は水路に面している。この時間は舟の行き来も無く、板塀を乗り越えるのに造作は無かった。
庭に降り立つと灯りのついている部屋を探した。小さな池を挟んだ北側に濡れ縁のついた部屋があり、そこの障子に二つの影が映っている。
銀次が足音を消して忍び寄り、濡れ縁の下に潜り込むと大和屋らしき声が聞こえた。
「もう何人も返り討ちに遭っている、とても小娘とは思えねぇ腕だ」
「そんなに強いのか?」もう一つの声が訊いた。おそらく犬を斬った侍だろう。
「強いなんてもんじゃねぇ、ありゃ化け物だ。何かに取り憑かれているんじゃねぇのか?」
「なぜそれほど執拗に狙う?」
「兄貴の敵討ちだ」
「仇?」
「うちは元々多摩の郷士で剣術の盛んな土地柄だ。屋敷には道場まで建てて江戸の有名どころの先生を呼んだ。長男はからっきしだったが次男の兄貴は先生も認めるほどの腕だった。そこで兄貴は剣で一旗上げると言って家を出た・・・」
大和屋はそこで言い淀んだが、侍が先を促した。
「・・・立派な道場を構えたまでは良かったんだが、つまらぬ事で田舎侍と口論になり斬っちまった」
「それで仇を討たれたという訳か。侍の仇討ちならそこで終いのはずだが?」
「俺は侍じゃねぇ、このまま黙って引き下がるわけにはいかねぇんだ」
侍は間を置いて敢えて尋ねた。
「それで、俺に頼みとは何だ?」
「小娘を斬って貰いてぇ。もちろんこれは裏の仕事じゃなく俺の私怨だ、特別料金をはずむ」
「いくらだ?」
「五百両」
「それはまた豪勢だな」
「俺にとっちゃいい兄貴だった・・・」
「分かった引き受けよう」
「ありがたい」
「で、その娘は何処にいる?」
「伊勢参りの連れと一緒に東海道を上っている。今頃は島田か金谷宿辺りかと」
「今から追っても間に合わぬではないか?」
「三河まで船を出す、そこから下って貰えばどこかで行き会う筈だ」
侍は顎に手をやって無精髭を撫でていたが、仁平を見て言った。
「心得た」
「では話はここまでにして・・・」
仁平は手を打って女中を呼んだ。
「酒の支度をしてくれ」
女中が酒の支度に戻って行く音に紛れて、銀次は濡れ縁を這い出して塀を乗り越えた。
「早く一刀斎の兄ぃに知らせなくっちゃ」
懐に手を入れて夜道を歩き出した。
侍は外の気配を追うように障子の方に目を遣った。
「大和屋、気付いておったか?」
「へぃ、ケツの下にネズミが一匹。すぐに誰かに尾つけさせやしょう」
「ふむ、面白うなってきたな・・・」