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明浦路司は氷の上の〝冷たさ〟を知っている。
それがどれだけ残酷で、温度がなく、人の心を殺すのか。
刺さったナイフの無機質さを、その体は覚えている。
司は憧れの人物のスケートに言葉を奪われた。
傘を差し出した相手がたまたま自分の人生を変えたフィギュアスケート金メダリストだった。嘘みたいな本当の話だ。
感極まって初対面にも関わらず自分の至らなさをこれ以上ないほど晒し、しまいには泣いた。号泣だ。目の前の顔を直視できない。勿論テレビや雑誌越しではない生のGOE+5のビジュアルだからというのもある。
「君のコーチはどこ?」
「……コーチはいません」
その問いへの答えは少し遅れた。そして司には画面の割れた携帯を差し出される。いないの意味を、ここにはいない、という風に解釈されたのだとすぐに気がついた。これで連絡しろということのようだが、元々この電話の向こう側には誰の姿もない。
コーチがいないこと、クラブに通ったことがないことを正直に話すのは勇気が必要だった。夢がこれで終わってしまったらどうしよう。怯える司に、
「ちょうどいい」
とだけ言った夜鷹に連れられて、司は彼の知り合いがいるという横浜へと移動した。
当然司に金メダリストのマンツーマン指導への給金など払えるはずがなかった。コーチへのレッスン料はとらないと言った夜鷹に「駄目ですよ!」と司の中の正義が声をあげた。
当初は練習時間の間にバイトをしようと考えていたが、夜鷹はそれを認めなかった。
「君に足りないのは時間だけだ。ただでさえ足りない練習時間をさらに削るほどの余裕が君にあるの?」
なんの反論もできず、優しさに縋るしかなかった。それまでしていたバイトを全て辞めて、ただひたすら氷と己のスケートに向き合い続けた。
すぐに変えなければならなくなるブレード代にリンクへの入場料、衣装代に生活費、夜鷹と出会う前にバイトで貯めていたスケート貯金を切り崩しても余裕はそうなかった。
そんなある日、司の人生を変えた出会いがあった。
「すみません、携帯の充電器を……」
「芽衣子さん?」
偶然横浜で出会った加護家の人たちは、司がスケートをやめていなかったことをとても喜んでくれた。そしてアルバイト……というよりはちょっとしたお手伝いとして司のことを雇ってくれることになった。夜鷹に加護家に住むこと、住居の恩に報いるためにちょっとしたお手伝いをして給金をもらうことになったことを伝えた。夜鷹は反対しなかった。
加護家の皆が「司くんのコーチなら是非ともご挨拶しなければ」というので一度家に招いた。闘病中のスケートファンである芽衣子の気晴らしになるのではないかという気持ちもあった。
夜鷹は恐ろしいほどに加護家に馴染んだ。世話焼きの二人と世話を焼かれ慣れている男の相性は最高だった。羊は最初は人見知りしていたものの、すぐに慣れた。そうして当たり前のように加護家と夜鷹は繋がっていき、ついには加護家には夜鷹純のお泊まり部屋ができていた。なぜだ。
泊まると否応なしに食べ物を食べさせられるため、泊まって行く頻度はそう多くはない。それでも当たり前のように、羊と興味はないだろうに一緒に子供向けのテレビを見ている姿に違和感を感じないほどには入り浸っている。
初めての指導の際に夜鷹に言われた言葉を司は一言一句間違いなく覚えている。
「君は氷の上で生きていたいって言ったけど、この氷の上の世界は君を幸せにすることは絶対にないよ」
氷の上で生きたいと泣いた司を、夜鷹はそう諭した。
ずっともがいていた。氷の上では尾鰭を持つ魚のように皆がすいすいと泳いでいた。陸の生き物とは違うのだと、その生まれの違いを彼らは存外に言葉と態度に含んだ。
裕福ではない家庭のために家族に支援を求めることはできず、なんとか自ら探して入ったスケート同好会。長年スケートに触れている人たちが多く在籍しており、レッスン代なんて必要ないと笑ってくれた。貸し切りにも参加させてくれた。初心者も歓迎だと最初は誰もが司を迎え入れてくれた。けれどすぐに温度が変わった。最初は手取り足取り、優しく教えてくれていた。けれど司が氷の上で行きたいのだという態度を示した時、彼らは態度を変えた。
様々な言葉で、飛ぶことを止められた。
桜味 まっちゃ!
ポメ
葵 だざむ🤕🍷
そんなことしても意味ない、危険だから、他の人に迷惑が。そんな善意に見せかけた瞳の奥にある黒く蠢く何かには気づいていた。気づいていて、知らないふりをして笑った。ここすら居場所がなくなったら、滑れなくなる。司は他人に許されないと、誰かに助けてもらわないとスケートができなかった。それが間違いだと知りながらそれ以外の道はなかった。
だからジャンプの練習はこっそりとした。けれど彼らとの溝はどんどん開いていった。陰口を叩かれることが増えた。
『そんなことをして無意味なのに』
『何を考えてるんだろうね』
『本気でシングルの選手に今からなれるとか夢見てるのかな』
『できるわけないのにね』
そして高校最後のタイミングで初めて大会に出場した。誰も教えてくれなかった演技はやっぱり散々で、最下位に自分の名前があった。それをみたスケート同好会の人たちは「ほら見たことか」と笑っていた。誰一人〝次〟を口にすることはなく、一人だけがむしゃらに滑り続ける司は〝空気の読めない同好会の厄介者〟になった。
遠回しにここにいても成長は見込めない、本気でやるなら別のクラブに行った方がいいと善意のふりをして提案してきた。司がクラブに入れないから同好会に入ったのだと彼らは全員知っていたはずなのに。
小さい頃からスケートができなかったんだから仕方ない――だから俺は選手になれない。
180も身長があるんだから仕方ない――だから俺は選手になれない。
『司くんは上達しても絶対選手にはなれないよ』――だから俺は選手にはなれない。
鉛のような言葉たちを飲み込んだ。足に巻きついた鎖は重く、もう飛ぶことなんでできなかった。
司は氷の世界に嫌われていた。
リンクの上に、司の居場所はなかった。
そうして司はスケート同好会を辞めた。卒業の報告と共に加護家の皆さんに頭を下げて、別れを告げた。
スケートを愛していた。
フィギュアスケートをしたかった。
憧れた人のように、誰かを感動させられるような滑りができるようになりたかった。
諦めようと背を向けた。それでもしがみつくことをやめられなかった。18歳を超えたことで夜間も働けるようになり、増えた収入をスケート費用に回した。自分でリンク代を払った。相変わらず家賃に食費、リンクの入場料で財布はカツカツだった。スクールに通えるほどのお金はなかったが、いつかとコツコツとお金を貯め続けた。
司のスケートに正しさなんてどこにもなかった。環境も、年齢も、金銭も、周囲も、全てが司がスケートを夢見ることを許さなかった。
―――貴方以外、誰一人も。
氷の世界の残酷さを、司は知っている。スタートラインに立つことすら、世界は司に許してはくれなかった。
できない理由はたくさん教えてくれた。
どうやったらできるようになるのか、どうしたらいいのかは誰も教えてくれなかった。
氷に愛された男の言う通り、氷の上は残酷だ。きらきらと光って見えるリンクですら、その足元には数多くの犠牲と苦痛が埋まっていく。
それでも、貴方は知らない。きっと世界で司が最もそれを知っている。氷に乗れない辛さではない、氷に乗ることすら、夢見ることすら許されない現実を、今後司が戦う選手たちの誰もが知らないだろう。彼らは氷の上に乗れなくなる日が来る現実と戦い続けている。けど司はそのスタート地点に立つために足掻いている。氷に立つことすら許されないことの苦しみを司は誰より知っている。
だから司はその手を取った。この先に待つのが地獄の業火だとしても、躊躇わなかった。
すでに司のスケート人生には苦しみしかなかった。これ以上があったとしても、もう止まることなんてできなかった。
退路すら燃やして司は差し出されその手に縋りついた。離したら死ぬと言う力強さだったが、夜鷹は振り払いはしなかった。
「見た?やって」
指導を受けるのは初めてだった。けれどその指導方法が世間一般のそれとは違うことはなんとなく察していた。
言葉は少なかったし、理不尽な時もあった。懇切丁寧な指導ではなかった。絶対に曲かけで転んではいけなかった。少しの妥協も甘えも一切許さず、完璧だけを追い求めた。
あまりの謂れようと要望に答えられない自分の情けなさになにくそと叫んだことだってある。不器用で、人の心への配慮なんてなくて、唯我独尊で、偏食を通りこして拒食にすらなっていて、当たり前のように司を顎で使う人。
それでも夜鷹純のスケートはいつだって正しかった。
スケート選手になれると夜鷹だけが言ってくれた。素人の司でも、同じもの(フィギュアスケーター)になれるのだと言ってくれた。
世界中で夜鷹純だけがその道を示してくれた。
お世辞も愛嬌も何一つない、嘘すらつけない夜鷹の誠実さは司の救いだった。
こびりついて離れなかった〝呪い〟を一つ一つの溶かしてくれた。
「できるでしょ」
期待ですらない、ただの事実の確認作業。
それがどれだけ司を救ったのか、きっと本人にもわからない。どんな暗闇でも、月明かりがあれば前に進める。それがどんなに淡く掴めない、途方もない殉教の旅でも、茨の道でも構わない。
「俺は金メダルを取れますか?」
四回転どころか三回転すら飛べない、
6級どころか初級しか持っていない、
独学で碌に指導も受けていない、
なんの結果も出していない、
スタートラインにすら立てていない俺が。
その問いに夜鷹は眉を顰めた。
「取るんだ。そう言う契約のはずだよ」
だから司は信じている。
運のない遅すぎた明浦路司ではなく、夜鷹純に選ばれた明浦路司だけを信じてる。
「…………夢か」
夜鷹純に見つけてもらえたあの日の記憶。
こんな夢を見た理由はわかってる。今日が自分の中の一つの夢が叶う日だからだ。
「よしっ!ランニングして朝ごはんの準備して純さん起こそう!」
自らの頬をパチンと叩き意識を切り替えると、まずは洗顔だと司は自室を出て階段を駆け降りた。
日課のランニングを終え戻ってくると、家主である耕一がフライパンを握っていた。本来であれば朝食作りは居候である司の役割である。慌てて駆け寄れば、
「今日は大会でしょ?それにもう作り終わっちゃったし、気にしないで」
「じゃあ洗い物は俺が……!」
「それも今日はいいから。ほら、それよりも純くんと羊のこと起こしてきてくれる?純くんは司くん以外が起こすとご機嫌斜めになっちゃうから」
「そんなことないと思いますけど………」
「あるんだよ。ほら、頼んだよ!」
そう、今日は全日本フィギュアスケート選手権大会、初日。
司の一生を左右する大会が幕を上げた。
「純くん、今日司くん大会なんでしょ?」
羊は一足先に朝食を終え、台所の奥へと消えていく司の背中を見ながらスプーンを口に運ぶ。食べながら喋っちゃいけない、なんてマナーを夜鷹が指摘するわけもなく、
「今日の大会で優勝するとオリンピックに出れるんでしょ?」
「……そうだよ」
「司くん、優勝できる?」
夜鷹はせめてこれだけは食べてほしいと出されたほとんど具の入っていないスープの入ったカップを持ち上げる手を止めた。
羊の視線はいまだに見えなくなった司の背中から外れない。大人びた子供の本気の問いかけに、夜鷹の視線が持ち上がる。
「司くんずっとがんばってた。金メダリストでスケートが世界で一番うまい純くんが教えたんだから絶対大丈夫だよね?」
「頑張るだけじゃメダルは取れないよ」
気持ちだけでどうにかなるものじゃない。君のお母さんの病気のように、とは言わなかった。
飲み込んだ言葉だけが夜鷹が返せる誠実さだ。子供だからと慰めを吐いたりすることはない。上っ面の言葉で誤魔化すこともしない。他の大人のように、何の根拠もない希望的観測で宥めるようなことが当たり前にできるのであれば、きっとここまで世界を息苦しくは感じなかっただろう。
羊はそんな不器用な夜鷹の対応に泣いたり怒ったりしない。絶対に嘘をつかない人、それが羊にとっての夜鷹という男だった。血は繋がっていないが大切な家族である司が大好きだと公言してやまない人。ある日から司と共に家に来るようになった男は、真っ黒でニコリともしない、絵本で見た黒猫のような人だった。最初は少し怖かったけど、すぐに悪い人ではないと気づいた。
夜鷹は良くも悪くも羊を子供扱いしなかった。 媚びることも慰めることも子供だからと誤魔化すこともしない。そして何よりこの人がいれば司くんは大好きなスケートができると理解してから、羊のなかで〝この家にいてもいい人〟になった。お父さんや司くんみたいにガミガミ行ったりしないところも羊的には加点ポイントだ。
「じゃあ司くんはメダルとれないの?」
「とるよ。最初からそういう約束だからね」
そんな夜鷹の言葉だからこそ、羊は何より信じられた。
「なら明日はご馳走だね。わたし、手巻き寿司がいいな。ケーキに、司くんの好きなドーナツも買ってもらわなきゃ。純くんも一口は食べてね」
「君も耕一くんも食べれる分だけ頼みなよ」
「純くんだけには言われたくない。司くんに全部押し付けてるくせに」
「食べ物を押し付けてくるのは僕じゃなくてあっちだよ」
純くん、と少し大人ぶった子供の声が繰り返される。
「司くんのこと、絶対優勝させてね」
最後にもう一度念押しして、羊は空になった皿を持って台所にいる司の元に向かっていった。ぱたぱたと軽くなるスリッパの音が遠ざかっていくの聴きながら、夜鷹はふっと息を吐いた。
本当に、司に過保護な人達だ。
まぁ、けれど―――
「絶対はあるんだから、仕方ないか」
それを証明したのは他でもない、自分自身なのだから。
夜鷹はまだ残っているスープ皿を持って羊に続いた。
「あっ、羊さんまたグリンピースだけ残してる!純さんも、あと少しなんだからもうちょっとだけ頑張りましょうよ!」
二人はまるで揃ったように司の言葉を無視した。結局綺麗に残ったグリンピースと野菜スープの残りはゴミ箱ではなく将来の金メダリストの胃袋に収められたのだった。
成人してからフィギュアスケート選手の道を歩み出した司は には所謂フィギュア選手たちの普通がない。いざたどり着いた会場でまたおのぼりさんのようにあたりをキョロキョロと見回す司に対して、
「君、また緊張してるの?」
「緊張するに決まってるじゃないですか!今日はほらあそこ、テレビカメラも入ってるしこんなに人も多いし……!」
「そんな騒音、気にする必要ある?」
「皆が皆、貴方みたいに観客や大衆を野菜以下に見れるわけじゃないんですよぉ……!」
こんな人見知りのような発言をしているが、夜鷹は司の異常とも思えるコミュニケーション能力を知っている。誰かのためや、スケートのため、という枕詞がつけば臆さないどころがメラメラと効果音を出しながら突撃していく男が一体何を言っているのか。年齢も性別も関係なく学びにいく姿勢は立派だが一歩間違えれば通報されるレベルの暑苦しさで人に接する男の嘆きは、感情の起伏の乏しい夜鷹にとっては宇宙人のように映ることがある。感情がジェットコースターのように動き回るものだから、自然と夜鷹の視線も振り回されている。
本当に、飽きる暇もくれない子だ。
「ツーくん!」
「あ、ジュナくん!」
「そろそろ開会式だし早く行こうぜ!ツーくんこの会場来るの初めてだろうから優しい先輩の俺が迎えに来てあげたよ!」
「あ、うん……ありがとう」
同じくリンクメイトであり、シングル参加者である白鳥珠那の姿にて司はすっと感情の波を落ち着かせる。司をここまで無感情にできるのは、世界広しといえどもこの男ぐらいだ。
司曰く、「嫌いではではないし、フィギュアスケートを教えてくれた先輩であるが、俺は絶対あんな風にはならない」らしい。そこまでの感情があって嫌いとは言わないところが司が善人である証左であるが、そこまで言うのならいっそ嫌ったほうが早いのではないかと呆れる気持ちも少しある。
「純さんっ、俺、開会式に行ってきますね!」
よだかは瞼を伏せることで了承を示す。先輩の後をカルガモのように追う背中が、後ろ髪を引かれるように振り返る。
「……なに?」
「またどっかにあったりするのは無しですからね……?」
「ちゃんと君の番には戻るよ」
その返答に肩を撫で下ろして、司は開会式へと向かっていった。遠ざかっていくだけの背中が曲がり道で見えなくなってからようやく夜鷹は踵を返す。
今のうちやらねばならないことを成すために歩き出す。重くも軽くもない革靴が、廊下の床を鳴らした。やはり日本選手権大会ともなれば人の数が変わる。まあ、世界を知る夜鷹にとってはリンクの氷の違い以外に気にすべきことはなかった。モーゼのように勝手に開いていく道をすすみ、ようやく目的の人物を見つけた。
「慎一郎くん」
「純くん?」
「少し話があるんだけど」
「……司くんはいなくてもいいの?」
「司がいない今の方が都合がいい」
そして人目を避けるように副流煙という名目で人気のない場所に設置された喫煙所で夜鷹はタバコに火をつけた。息を吸い、紫煙をくゆらす。
「手紙は届いた?」
慎一郎は一瞬言葉に詰まった。けれど引くことなく長年の戦友でありライバルであった男に向き合う。言葉足らずなその表情から伝わるものを見落とさないように、その顔をじっと見つめながら、
「……読んだよ。でも、本気なの?」
驚くほど丁寧な文章。
それよりも衝撃だったのは達筆で書かれた内容だった。
「この試合の後、司を君のところのクラブに入れる」
断定的な言い方に、それが彼の中で揺るぎない確定事項であることを知る。
「けど、明浦路選手は純くんが見つけた初めての教え子だろう……?」
「本当は、最初は君に司を預けようと思っていた。慎一郎くんは背丈も司と近いし、いいお手本になるだろうから。けどまずは先に形になっているスケートティング技術のほうを優先させるべきだったから、高峰匠に任せた。もう司のスケーティングレベルはアイスダンスの選手と比較しても遜色ない。もうあのクラブで学べることはなにもないよ」
「純くんがそうやって移籍先で力をつけてきたことは僕も知っている。けど、だからこそ移籍したとして、純くんがコーチを辞める必要はないはずだよね」
「司は『僕になりたい』と言った。ならこれが最善の選択だ。司には僕と同じ道を歩ませる」
「でも……」
「僕はそうしたよ。そうして金メダルを取った。一度も負けなかった。僕の選択の正しさは僕自信が証明している。金メダルを取るのに、コーチはいらない。これは僕が彼のコーチになった日から決めていたことだ」
別れを前提とした、始まりだったというのなら。
その言葉が真実だとするならば。
「純くんはそれでどうするの。一体君に何が残るの」
「最初から何かを残すための選択じゃない。残り滓のような僕自身を焚べるために、司を選んだ。中途半端な炎じゃ意味がない。骨すら残さないほど圧倒的な、そんな裁きの炎じゃなくちゃ。最初から善意でなんて動いてない。可哀想だなんてくだらない感傷で彼に地獄を歩ませたわけじゃないよ」
「……明浦路選手は移籍の話を知ってるの?」
「この大会の後に言う」
「きっと彼はそれを認めないよ。明浦路選手には君と言うコーチが必要だ」
「僕より司のことをわかるみたいに言うんだね」
夜鷹は心底不思議そうだった。
それが夜鷹自身にとって司という存在がいかに大きいか、彼の日常の中に根付いているか。それを証明する言葉であることにきっと本人だけが気づいていない。だからこそ、慎一郎は今友人として言葉を紡がなければならなかった。
「明浦路選手がどれだけ純くんのことを大切に思い、信頼し、頼りにしているかはあのスケートを見れば誰にだってわかるよ。明浦路選手の異常なまでの成長速度は、同じ視点を持ちかつ瑕疵のない完璧な正解を示してあげられる純くんが指導したからこその結果だ。他の誰にも同じことはできないよ」
「だからこそ捨てるんだ。僕になるって言うのはそう言うことだよ」
「どんなにスケートが似ていたとしても、純くんと明浦路選手は同じじゃない。純くんが辿った道が明浦路選手にとっても最善であるとは限らないよ」
「けど僕が辿った道の先に彼が望む金メダルがある。ならそれを拒む理由ないはずだし、生徒が望む結果を出せるよう協力するのが大人コーチの役目じゃないの」
「僕は僕の選択の正しさを結果で証明した。慎一郎くんにも否定できない、これが最善の選択だよ」
「…………純くんは、どうして明浦路選手のコーチになったの?コーチの声かけは別に引退後にもすでにあったし、もっとお金を積む人もいたはずだ。それでも純くんがたった一人、明浦路選手だけを選んだ理由は何?」
「彼がスケートをしたいと泣いたから」
彼の小さいけれども燻る火種は、タバコの火種になるだろうと思っただけだよ。夜鷹は顔色ひとつ変えずにそう言った。
「慎一郎くんが一番最善なだけで、他にも候補はある。今すぐ答えなくてもいいけど考えておいて………司のこと、よろしくね」
タバコの残り香を残し、夜鷹は背を向けて歩き出した。
その背を引き留めることは慎一郎にできなかった。現役時代も、今も。
「…………うそ、だ」
一人建物の陰でうずくまった青年がいたことを、まだ誰も知らなかった。
***
「あ、いたいた、司くん!もうすぐ順番なのにどこにも姿が見えないから探したんだよ」
控室に向かう司に駆け寄ってきてくれた人物に、司は頬を緩ませた。自身の先輩であり、20歳からスケートを始めた司を受け入れてくれた、優しい先輩たち。自分を排除せず、受け入れてくれたリンクメイトの洸平もまた、今回アイスダンス選手として出場が決まっている。
「あ……もうこんな時間だったんだ。ごめんちょっと緊張してて、外の空気を吸いに行ってたんだ。もうアイスダンスの練習は終わったんだね」
「クラブのみんなも応援に来てたよ。ジュナのやつもさっきまで『ツーくんが帰ってこないんだけど!』って一緒に探してたんだけど、滑走順が近くなったから先に行かせた」
「ジュナくんも探してくれてたんだ、ごめん」
「いいよいいよ、あいつはツーくんに先輩面したいだけなんだから。それにしてもまさか本当に20歳からスケートを始めて全日本に出場するなんて……ツーくんはやっぱりすごいよ」
「俺は別に、凄くなんてないよ」
「また、『すごいのは夜鷹純』だろ?確かに夜鷹純は凄いけど、ツーくんが成し遂げたことは夜鷹純にもなし得ない凄いことなんだから」
「そうよ、もっと自分に自信を持ってって何度も言ったでしょう?」
「瞳さん…」
「司くんなら絶対大丈夫。氷の上に君の居場所を作っておいでね」
「ありがとう」
「………司くん?」
「あっ、俺もそろそろ行かなきゃ!洸平くん、瞳さんもまた後で!」
その笑みに緊張以外が何かが滲んでいる気がして、瞳は思わず声をかける。しかしその心配を振り払うように貼り付けた笑みのまま司は前へと進んでいく。
「……ねぇ、今の司くん少しだけ変じゃなかった?」
「そうかな、まぁ司くんは初めての大きな大会だし、緊張してるのかもね。司くんには次はないから、特に」
「そう……そうよね」
納得の言葉を返したものの、瞳の不安は拭えなかった。
その目に見えない違和感の正体は、すぐに表面化することになる。
「普段通りに滑るだけでいいから」
「………」
「司?」
「あ、はい!」
夜鷹はいつも通り、リングに向かう司の手を握る。緊張しているのか、普段は高すぎる体温がその指先には届いていない。
全日本という大舞台のせいだろうか。その表情に違和感を感じて夜鷹が声をかけるよりも早く、
「行ってきますね」
遠ざかっていく戦士の背中を見送った。セットポジションにつき、祈るように片膝をついた。そして『魔弾の射手』は奏でられた。
そうして始まった演技は、過去一番の驚きを夜鷹純にもたらすものだった。
(ーーーなんだ、これは)
司のスケートは、その全てが夜鷹純のものと似通っている。夜鷹をお手本にスケートを覚えたこともあるが、何よりも司がもつ目の良さと脳のつくりが、世界最高峰の演技をそのまま己の体に落とし込ませた。
誰から見ても、それは夜鷹純のスケートだった。コーチにその名があるから当たり前ではあるのだが、本当に夜鷹純の初めての教え子であるのだと思い知らせるには十分だった。
ステップも、ジャンプの飛び方も、その全てを教え込んだのは夜鷹自身である。だからこそ、司のスケートを最も知る男もまた夜鷹純に他ならない。
しかし、今、氷の上にいるのは夜鷹純の知らないフィギュアスケーターだった。
(一体何だこれは)
司は氷の上で重力をなくす。指先まで神経が通い切ったその演技で残る指先がまるで蝶の羽ばたきにスローモーションにすら感じるスケーティング技術。ふわりと舞うように、己を追う視線を弄ぶ、見るものを魅了してやまない飛び方。
だが踏切の瞬間に夜鷹には数秒先の未来が見えた。夜鷹のイメージと重なるように、まるで翼が折れたイカロスのようにその体は氷に叩きつけられた。
(4回転ループ――――転倒)
フィギュアスケートをやる上で、約束された成功はない。どれだけ練習してもその日のコンディション、氷の状態、踏切のちょっとしたズレは起きてしまう。氷の上に絶対はない。何十何百と練習しても、絶対の成功は約束できない。賭けを見守るスポーツと表現するものもいるほどだ。二本のブレードに全てを賭けて選手たちは飛ぶ。絶対はないと知りながら、それでも失敗の可能性を1%でも減らすために何十、何百と跳ぶのだ。
そんな絶対のない世界で、絶対を証明してみせた男はサングラスの奥で目を見開いた。
「司……?」
氷の上でのステップ、いや、氷の削り方そのものすら違う。躊躇いなく構成通りにジャンプを跳び―――転倒する。
尻もちをつく形での完全なる転倒は最初の一回だけだったが、その時点からすでに歯車は狂っていた。
その後も手をつきなんとか転倒は避けてはいるが、コンビネーションジャンプは単独になり、回転不足による減点も免れないだろう。こんな酷い演技は曲かけでも見たことがない。そもそも誓約通り、曲かけで司は一度も転倒しなかった。
初めての事態に夜鷹は目を背けることはしなかった。自分と同じスケートがどんどん壊れていくのをリンクサイドから見ていることしかできない。これがコーチの仕事なのかと夜鷹はその時理解した。
悪魔に魂を売ってでも勝利を目指した男は、今や完全に悪魔に飲まれていた。
高峰匠による徹底的な指導もあり、そのスケーティング技術だけなら夜鷹にすら負けることはないほどの美しい。氷の上に導き出される図形すらいつもの軌跡を描くことはなく。音に乗り切るステップは一見普段通りに見えるが、夜鷹から見ればいつもよりも何か焦っているように思える。
曲の中盤になって、ようやくジャンプが成功した。
(けど、着地姿勢が乱れてる。加点が得られるような完成度じゃない)
パラパラと拍手が起こるがそんな一体感のない拍手は夜鷹の耳には届かない。今までこんなことは一度もなかった。一度もこんなふうに壊れていく司のスケートを見たことはなかった。
ずっと目標にしていた全日本選手権だからか。甲子園の魔物のように氷上にも魔物がいる。しかしそれに食われるような精神性ならそもそもここまで来れていないはずだ。曲かけで一度も転倒しないという約束を果たす精神力があるのに、なぜ。
夜鷹には理解できない。
目の前の現実が信じられない。
美しいものが壊れていくのを見ていることしかできない。
普段の何倍にも感じられる演技がようやく終わると、司はいつもより緩慢に立ち上がり観客たちに挨拶をしてリンクサイドに戻ってきた。
何か言おうとして、そして口をつぐんだ司に言葉をかけることなくキスクラに向かう。点数を待つ間も二人の視線は噛み合わない。額の汗を拭い、司はただ電光掲示板を見つめた。
『明浦路司選手――――ショートプログラム、現在の順位は第3位です』
告げられた順位に司は顔を上げることも横を見ることもできなかった。動揺して泣くことも、その場に土下座することもなく、ただ黙って光で作られた数字を見ていた。夜鷹の自己ベストどころか予選大会の司のパーソナルベストよりも格段に低いものだった。
そして司の後にさらに二人の選手が滑り、結果として司のSPは第4位という結果になった。夜鷹はその日、人生で初めて台落ちを知った。
「あの演技は何」
口を開いたのは、夜鷹だった。
結局あの演技以降、二人が言葉を交わしたのは司の着替えが終わり全ての結果が出て帰りのタクシーを待っている時のことだった。
「ジャンプは跳ぶ瞬間の軸がすでにズレてる。転倒後のリカバリーすらろくにできてない。失敗を断ち切れていないせいで流れが悪い。だから得意のステップだってレベル4を取れてない」
物にあたれない分、その苛立ちは声色に乗った。
「僕との約束、覚えてるよね」
「……はい」
「なら――――」
ここから挽回して。
そう続くはずだった言葉。
4位とはいえ、上位3人との点数の差はそう大きくない。司のフリープログラムのこれまでの点数と加点要素からしても、いまだ金メダル圏外ではない。
夜鷹にとってこの演技は予想外ではある。しかし曲かけではない大会では、金メダルさえ取れば夜鷹との約束は果たされる。今なお二人の契約は続いている。そのはずだった。
「………これで貴方はもう俺のコーチじゃない」
その言葉にようやく夜鷹は足を止めて振り返った。当たり前のようにすぐ後ろにいると思っていた司は足を止めており、約数メートルの距離が離れていたことにその時気づく。
普段のまるで大型犬のようにうるさいはずの表情は凪いでいた。まるでサンタクロースがいないことを悟った子供のような顔で終わりを口にする。
「転倒したらコーチを辞める。そう言う約束でしたもんね」
「それは曲かけの話だよ。大会に関しては金メダルさえ取るのであれば僕がいうことはないよ」
夜鷹の言葉に司は安堵することはなかった。
そうなんですか。とどこか他人事のように呟いて、
「でもそれってたいして変わらないですよね?だって、たとえ俺がどんな滑りをしても貴方を俺のコーチをやめるんだから」
その言葉で、自分から司の態度にようやく説明がついた。
今日の演技の理由がようやくわかった。
「慎一郎くんから聞いたの?」
「いいえ、鴗鳥先生と貴方の会話を聞いてました。俺をずっと捨てるつもりだったんですよね。貴方が自身がそうしてきたように」
「君のためだよ」
「ははっ!俺のため?」
司は声をあげて、体をくの字に折り曲げた。
「本当に、人生の中で一番面白い。貴方ってジョークの全部があったんですね」
あまりにも人を馬鹿にした舞台役者のような笑い声は、夜鷹の神経を逆撫でするには十分だった。
「僕は全てを犠牲にした。君は何の犠牲もなしに世界一になれるなんて思ってたの?」
夜鷹は神様ではない。
スケートの神様は捧げられた犠牲を無視できない。夜鷹はそれを誰よりも知る、全てを捧げた側の人間だった。
そうして全てを犠牲にし、捧げて掴んだ結果の果てに自身をスケートの神様と呼ぶ人間が現れた。それだけのことだ。
ただ願われたそれをなんの対価も得ずに叶えてあげるような、そんな都合のいい神様なんて存在しない。見返りも必要とせず愛でて寵愛するような価値なんて人間なんかにはないのだと、他でもない司ならわかっていると思ったのに。
「僕はコーチを手放した。僕はたくさん移籍して様々な思想を学ぼうとしたが結局キスクラの飾りにしかならなかった。自分の力だけで導き出した技術と信念だけが最後の金メダルに欠かせないものになったんだよ」
なんでわからない
―――いや、わかろうとしないのだろう。
「僕がこのままコーチとして君を導く限り君は僕の歩んだ道は進めない。もがきながら自分の才能と向き合い極めていくこと、これが僕と同じ金メダルへの道だよ」
夜鷹は芽生えた感情にようやく一つの名前をつけた。
――――〝失望〟だ。
夜鷹は自分の正しさを疑わない。その心理の正しさを自らの手で立証してみせたから。
夜鷹の公式はすでに完成されている。だからあとは司をそこに当てはめるだけだった。
「他でもない、君が〝僕になりたい〟って言ったんだよ」
別に夜鷹がその選択を強制したわけではない。司がこの幸福も喜びもない地獄を選び込んできたのだ。退路を指差して教えたのに、自ら狂信者のように火中に飛び込んできた。
司なら理解すると思っていた。
自分と同じものを見れる、同じ道を歩くと確信して指導を決めた。
「君はそんなくだらないことで心を乱してあんなお粗末な演技をしたの?」
なのに今、司はまるで被害者のような顔をして夜鷹を見つめている。それがひどく不快だった。
「……貴方は本当に自分のことしか見てないんですね」
夜鷹純の知る明浦路司はいつだって自分に自信がなく、恐ろしいほどに他人を信じた。動物のように素直に感情を表現でき、強い感情に波打たれてもそれを引きずることはしない。人間らしくありながら夜鷹が知る人間よりもずっと綺麗で真っ直ぐな存在だった。
「くだらないこと……ええ、そうですね。貴方にとっては取るに足らないどうでもいいことなんでしょうね」
歪な口元が下がり、吐き出されたそれを〝怒り〟だと夜鷹は感じた。
「夜鷹純が俺のコーチでなくなることがくだらないこと?コーチは不要で、全部犠牲にしたら強くなれる?本気で言ってるんですか?貴方が正しさを証明したように、俺だって間違えを知ってる!正しい方向を示してくる誰かがいれば、こんな歳になるよりも早く、もっと若いうちに挑戦ができた。自分を信じてくれる誰かがいれば俺はスケートを一度も諦めずにすんだッ」
「―――ッ俺は!コーチがいなかったからこんなにも時間も無駄にした!!!」
それは司だけの慟哭。
「今、貴方の目の前にいるのは誰ですか?」
スケートを子供の頃から始められなかった。
家族に金銭的な支援をお願いすることすらできなかった。
無謀な子供の夢を誰もが笑った。
その身長でジャンプはできないと繰り返された。
ろくな指導も受けれず迷路の中で彷徨い続けた。
20歳になるまで本格的なスケートを学べなかった。
実績も、経歴も、何一つ持っていない。
諦める努力すら実らなかった。
美しい幕切れすら選べない、ただ醜く縋り付いて足掻くしかないスケート人生。
「これが、〝貴方〟ですか?」
こんな道を歩くことしかできなかった、司の人生。
スケートをすることを認められなかった、冷たい人生。
輝かしい金メダルを首から下げて、世界中が夜鷹純の演技を待っていた。見るもの全てを熱狂させ、その引退を誰もが惜しみ悲しんだ。
スケートをするために生まれてきたような、貴方。
氷の上でしか生きられない、貴方。
俺の憧れた俺とは全く正反対の、貴方。
(どんなに似せたとしても絶対に同じものにはならない―――俺の形の歪さ)
「俺には貴方しかいなかった。貴方に誇れる自分でいたかった。貴方を誰にも奪われたくなかった。それが俺の原動力でした。俺は、貴方の〝愛〟を証明したかった。
貴方の選択を正しいものにしたかった。
貴方を選べた幸福を世界中に自慢したかった。
俺を見つけて指導した夜鷹純は凄いんだって、もう一度……貴方の名前を全員の心に刻んでやりたかった」
「……でも貴方は俺のことなんてこれっぽっちも見てなかった」
あんなに見てほしいって、繰り返し言ったのに。
司の演技は、リンクサイドに立つ夜鷹に捧げた言葉も心も、何一つ届いていなかった。
司の宣誓は、人生を賭けた祈りは、聞き届けられていなかった。
「俺、ずっと貴方の指導の中で唯一理解できないことがあったんです。犠牲って貴方は何度も何度もくりかえしてましたけど、俺は犠牲を払ったなんて一度も思ったことないんですよ。俺は貴方がいるから強くなれた。俺が失ってきたものを貴方が全部与えてくれた。貴方からの〝恩恵〟で俺のスケートは出来ていた」
本当は、金メダルをとって伝えたい言葉があった。
でもそれはもう叶わない。
「俺は貴方みたいなフィギュアスケーターになりたかった。どれだけスケートを真似しても俺は絶対貴方にはなれないと知っていたから」
司はスケートをするためならきっと夢の形を変えるだろう。ジャンプができないのであればアイスダンスという形でも、氷の上で生きるために夢をねじ曲げたはずだ。
司の夢はとうの昔に形を変えている。夜鷹純のようなフィギュアスケーターになること。それは夜鷹純の経歴をコピペするという意味ではない。司が夜鷹純のように美しく、人を感動させる演技のできる金メダリストになりたいという夢になっていた。
そんなことにも、夜鷹純は気づかない。
なら一体、貴方が見ていた俺はなんなのだろう。側だけ貴方を真似た模造品?それとも意図で操られたパペット?
唯一確かなのは、それが〝明浦路司〟という一人の人間ではないこと。
「あんたの幻想じゃない、今目の前にいる俺をちゃんと見ろよ!!!」
――――ッ俺を、見ろよ!!!
その絶叫は、虚しく曇天の夜に消えた。
痛む心臓を抑えて発した言葉にはなんのこだまも返らない。その虚しさに、司は無理やりに口角を上げた。
「……すみませんでした。貴方を裏切って、失望させてしまって」
返答を待たずに司は言葉を重ねる。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「……なに」
「この全日本大会でコーチを辞めて、貴方はどうするつもりだったんですか」
「僕は……今度こそ氷に全部置いてくるつもりだった」
「それはスケートを辞めるってことですか?」
「……僕は君に会う前にすでに氷から降りた人間だったからね。犠牲の対価には釣り合うはずだ」
「ッそんなこと頼んでない!俺の犠牲になって欲しいなんて言ったことないだろ!」
一瞬沸騰した怒りは、吐き出された息に流されるようにどこかに追いやられた。
もういいです。司はそれ以上の対話を拒絶した。ぼろぼろと両の目から自分の意思とは関係なく流れる涙を服の袖で乱暴に拭う。
「明日こそ、ちゃんと滑ります」
「今日の君の演技はボロボロだった。なのに明日はちゃんとできるの」
「できるかじゃなく、やるんです。これ以上貴方の名前を貶めたらきっとスケートを辞めることを迷わず選択するぐらい、後悔するから。貴方にスケートを教えてもらったのに金メダルを取れないのなら、俺には貴方の教え子である前にスケートをする資格も価値もない。結果を出せなきゃ誰も俺がスケートをすることを許してくれない」
高橋匠先生も、スケートを愛する人たちも、そして―――夜鷹も。
それだけを告げて、司は背を向けた。遠ざかる背に夜鷹は何の言葉もかけなかった。かけることができなかった。
自分の選択が間違えてるとは夜鷹は思っていない。司のあの世界へのむき出しの憎悪のような怒りを聞いた後でも、自分の選択の正しさの天秤の傾く方向は変わらない。
これでいい。司は困難や逆境を力にできるタイプのスケーターだ。緊張しぃではあるが、それに飲まれて自滅するほど心は弱くない。今はわからなくても、この先表彰台の頂点が彼専用の玉座に変われば夜鷹の言葉の正しさを理解するだろう。
司は夜鷹とは違いコミュニケーション能力が高すぎる男で、全人類は無理でも世界の9割からは好かれる天賦の才がある。移転先のクラブでも変わらず輪の中心になり、台風の目のように全てを荒らし通り過ぎていく。簡単に想像できる、約束された未来だ。
なのに目を瞑った夜鷹の網膜に蘇るのは、捨て犬のように哀れで、哀しく、痛々しい、唯一の教え子である男の泣き顔だった。
氷の上でしか生きられなかった夜鷹にとって、氷に戻る唯一の理由になった男。氷の上でしか生きられない自分とは鏡合わせのように、氷の上で生きることを願わずにはいられなかった存在。
始まりは気まぐれだった。その圧倒的な才能を無かったことにするのはあまりにも勿体なかった。
司はきっと、他の誰かに見出されることはなかっただろう。ことシングルに関しては絶対と言える。それだけの時間も、経済的支援も、環境も、何一つない。夜鷹でなければ司をここまで引き上げることは出来なかった。あまりにも遅く、日の目を浴びることもなく、けれど確かにある圧倒的な才能。
一度見ただけで演技全てを覚えられる記憶力と、それを再現できる抜群のリズム感と高い身体能力。そして何よりその常人離れした学習速度を可能にする、荒天的に身につけることは決してできない自身を俯瞰できる鷹の目。脳裏のイメージ通りに自分の動きを修正することができる、他人が重ねた努力と時間、その全てを飛び越えていく天賦の才。
二十歳すぎてただの人になるどころか、二十歳になって現れた、異次元の怪物。
司は、今までのスケート業界を塗り替える。
氷を焼け野原に変えるような、圧倒的な存在として君臨することになる。
夜鷹は、司が全ての当たり前を壊す姿を見たくなった。
現役時代の自分よりも鮮やかに、過激に、全てを破壊者を生み出そう。氷から降りた後の方が長い人生に絶望した夜鷹自身の自虐にも近い。だから燃える炎に素手で触れた。
それは気まぐれでしかなく、早く終わってほしい人生の暇つぶしだった。
雪の日に出会った、マッチのような小さな灯り。
その熱がなくとも夜鷹の人生は何も変わらない。変わらないはずなのに、心臓を通り抜ける風は以前の何倍も冷たく感じた。
最初は歩いていたが、そのうち感情が抑えきれなくなり無意識に早足から駆け足へと変わっていた。
「―――夜鷹純の分からず屋ぁあああぁああ!!!」
できるだけ人目のない場所を全力で走り、たどり着いた河川敷で司は叫ぶ。近所迷惑を気にする心の余裕もない。
「ひとでなし!!!鬼!!!悪魔!!!暴君!!!冷血漢!!!器物損壊男!!!生活力なさ男!!!氷上生物!!!スケート加点マシーン!!!そんなに何も見れないならタバコの前にメガネ買えよ!!!」
叫んで、それでも怒りは収まらない。
燻る火種を抱えたまま芝生に横になる。夜だから地面はひどく冷たい。まるであの人のように。そんなことを考えてしまってまた叫んだ。
「――――ッ夜鷹純の、馬鹿野郎……!」
滲む瞳をあの人の瞳のような月に見られないように、両手を顔に押し当てた。
氷の上で絶対に幸せになれないと夜鷹は言った。
でも氷に乗れなかった司の人生だって、幸福ではなかった。それなりには生きていけたかもしれない。普通の会社に入って、同じ年代の人と恋に落ちて、子供に恵まれ、定年退職を迎えてももう少しだけ頑張って働いて、孫たちに看取られる。そんな普通の道を歩んでいたかもしれない。
一度壊れたものは二度と元には戻らない。
一度燃えたこの心の燻りは消えない。
普通も、当たり前も、いらない。司は特別が欲しい。一等スケートが上手い、夜鷹のように氷の上で生きる資格が欲しかった。
夜鷹純は毎シーズンごとにコーチを変えていた。ファンだから知ってる。歴代のコーチを全員誦じられる。だから夜鷹にはコーチが不必要だったことも、最後は自分一人で戦い抜いてメダルを手に入れたことも事実なんだろう。
(でも、俺は貴方じゃない)
コーチがいない苦しみを、一人で答えのない道を歩み続ける苦痛を、この体はとっくのとうに知っている。夜鷹が最後に辿り着いた場所から、司はスケートを始めたのだから。一人ではただ溺れないように必死に手足を動かし足掻くしかできなかった。右を左もわからない、正解すらもわからない、先のわからない迷路の中を裸足で歩き続けるしかなかった。
そんな俺に、スケート靴を履かせてくれた貴方。
俺のため。俺のために貴方がいなくなる。
そうすれば俺はもっと強くなれる。
貴方のような金メダリストになれる、そのはずだった。
なのに首輪は外された。また再び、氷に一人で向き合わなくてはならないのか。
「……一人じゃ2回転すら飛べなかったのに?」
『……この冷たい風が肌に当たること。これが僕にとっての氷上の世界への衝動だ。君も自分だけの衝動を手に入れるんだよ』
そう言った夜鷹の横顔を、司は一生忘れない。
(俺の衝動は、貴方だった。世界からスケートをすることを許されること、それが俺の衝動だった)
あの頃と、全く同じではないことはわかってる。
夜鷹は司が生きられるように環境を整えてくれた。鴗鳥慎一郎の指導力は疑うまでもない。リンクで自由にスケートが出来る、それだけでも大きく違う。
だから、もう大丈夫だと司の手を離した。まるで弓につがえた矢を放つように。放たれた矢はただ真っ直ぐ飛ぶしかないのだと疑っていない。
「純さんの、馬鹿……っ」
ぼろぼろと、悔しさと憤りが溢れ出る。
多分世界中で、夜鷹が一番理解できない。夜鷹純は全ての努力が過不足なく報われてきた人間だ。その道の先を塞ぐ大きな岩などなく、舗装された道をいかに早く、美しく走りきり命を燃やすかだけに全てを捧げてきた。氷の上に彼の歩みを妨げるようなものはなく、夜鷹純にとっての敵は常に過去の自分であった。
そのスタートラインに立つことがどれだけ遠く険しく孤独であったのか。大変だった、なんて短い言葉で表現するしかない14歳でスケートを知った司の苦悩を、正しく理解できる人なんていない。20歳からコーチの指導を得てオリンピックを目指すような馬鹿、司だって他に誰も知らないのだから。
司にとって、夜鷹純は特別だった。人生を変えた人だった。
だからこそ、司もまた夜鷹にとっての特別になりたかった。夜鷹のようにオリンピックで金メダルを取ればそれが叶うんじゃないかって、自分の思考ながらなんて夢見がちで愚かなことか。
夜鷹からの赦しが、司にとっての免罪符だった。
夜鷹に師事できることが、司にとっての幸運だった。
夜鷹の正しさを証明することが、司にとっての恩返しになるはずだった。
夜鷹が己から離れていく、いつそんな日が来るかと考えなかった日はない。布団の中で毎日怯えていた。それが今だっただけのことだ。
本当はずっとわかっていた、自分にそんな価値はないのだと。この奇跡を奪われないように足掻いていた。他人を蹴落としてまで縋りついた蜘蛛の糸は、今神自身の手によって絶たれたのだ。
自分はまさしく悪人である。
世界から夜鷹純を独占した、悪人である。
自分より才能があり、若く、未来有望な若手選手など腐るほどいる。それでも自分だけが、あの人の特別でありたかった。この感情は、間違いなく悪だ。だからこんなふうに傷つくのは間違っている。夜鷹純へのさっきの態度は司の八つ当たりだ。
心臓が、押しつぶされるように苦しい。
「……相変わらず泣き虫だね、君は」
降ってきた声に思わず上半身を飛び起こす。そしてそれが自分の幻想ではないことで浮ついた己に司は絶望した。
「携帯しない携帯に意味はないって言ったのは君でしょ」
「……どうしてここがわかったんですか」
「出ないから君が行きそうな人気のない場所を探した。どうせ遠くには行ってないのはわかってたし。明日の大会が控えてる状況で全部投げ捨てられるほど君は投げやりでも無責任でもない」
「俺を探してたんですか?」
―――なぜ?
完全に見限られたと思っていたのに。
「大丈夫です。ちゃんと明日は出ますから。だからもう放っておいてください。貴方が明日リンクサイドにいてもいなくても、貴方の名を汚さないようにしますから」
再び芝生に寝転んだ司の耳に、失望に遠ざかる足音は聞こえなかった。
僕は。
耳だけがその言葉を拾い上げる。
「本当は、最初から君のコーチを名乗るつもりはなかった」
それはとある男の独白。
言葉足らずな男の語る胸の内。
「君を見かけたのはたまたまだ。君のコーチを引き受けたのも気まぐれだった。ただその才能が日の目を見ることなく終わるのは勿体無いと思った」
ある雪の日に、今にも消えそうな燃える炎を見つけた。それに薪をくべることを選んだのは気まぐれだ。その火種が消えることを惜しいと思った。その炎はきっと多くのものを燃料に変え、業火のように燃え上がるだろう。
誰から見ても才能があるのに、自分のことを信じられない。歪すぎる形は正常ではなかった。夜鷹も他者から見れば自罰的に見えるほどに自らを律してスケートを向き合ってきた。けれどそれは自分のためで、誰かにそれを示すためではなかった。
まるでそうでもしなければいけないのだと、一種の強迫観念にすら似た、その胸に巣食う恐怖。夜鷹と出会う前に、彼が氷の上で失った全て。足枷を自分で外せもしなくなっていた司は、他人のことだけは盲目と呼べるほどに深く信じ、疑わなかった。
「けどあまりに君が僕がいないと駄目だから、仕方なく表に出た」
あまりにも君がごねるから。隣に居てほしいと懇願するから。
大人であるが故に、司にはお守りが必要だった。一人で戦い続けて傷だらけになった司を氷の上に導いてくれる存在を求めていた。
「もしこれがも才能も時間もある子供だったら、僕は絶対コーチを名乗らなかっただろうね。君に残された時間の短さと、氷に乗る人間の呪いで自分のことを信じられなくなっていた君だから、仕方なくだ。僕は自分の正しさの証明に君を利用して、君も僕を自分のエゴのために利用する。そうして始まった関係だったはずだ」
「………はい」
「最初から僕はそう言って手を差し出した。その手を君は掴んだ。だから君は〝魔弾の射手〟を滑った。〝君自身〟のことだから、感情を込めるのも容易かったはずだよ。違う?」
「………いえ」
「犠牲がなくても強くなるなんて戯言だ。犠牲を払ったからこそ、僕は誰にも負けなかった。氷の上の絶対を証明した」
夜鷹純金メダリストの言葉はきっと正しい。
ただ〝正しいだけ〟
だからこんなにも虚しい。
これまでの時間は全て、ロスタイム・ライフに過ぎなかったのだと夜鷹の語る真実が、司を心をさらに抉る。痛みの感覚がすでに麻痺していた司にあるのは達観だけだった。
「僕は今でもそうすべきだと思ってる」
紡がれる言葉に司は何も返さない。否、返せない。
「僕の選択の正しさはもう証明されている。だからこそ、君は〝僕〟を捨てる。そうしてこそ君は〝金メダリスト〟として産声を上げられる。君の言葉を聞いた。聞いた上で、それでも僕は自分の選択が間違ってるとは思わない」
あぁ、やっぱり―――
「でも、君を泣かせたいわけじゃなかった。だから、今度は君が証明して見せて。僕が隣にいる限り君は最強なんだって」
「しょう、めい……?」
「君がこの全日本選手権のフリープログラムで優勝……いや、金メダルを取れたら、君の勝ちでいい。僕の選択は間違いではなくとも、君の示した選択肢でもゴールに辿り着くことができると理解する」
「…………ッ」
「君にコーチという存在……つまり僕がいるからこそ誰よりも強いフィギュアスケーターになれるんだと証明するチャンスをあげる。君が金メダルを取るために僕が欠かせない存在なんだと妥協する。君が僕になるまで、いや、勝ち続けるためそこ僕が必要なんだと君が証明するのなら僕もそれに付き合ってあげる」
「―――やります」
迷いなど一切なく。
その瞳の奥で太陽が燃えている。
それがどれだけ困難で、無謀な挑戦であるか、わからないわけではないだろうに。それでも司は迷わない。
「そうしたら、貴方は俺のコーチでいてくれるんですよね、俺はまだ貴方の隣に居られるんですよね。純さんと一緒に戦っていけるんですよね」
「金メダルはまだ射程圏内だけど、点数にそう余裕はない。それに証明するのなら生半可な周りのおかげで取れた金メダル程度なら僕は認めない。曲かけじゃないけど転んだらそれまで。僕も譲歩してるんだから条件が厳しくなるのは当然だよね」
「はい。とりますッ!絶対、明日のフリープログラムで過去最高得点を出します。出して、表彰台の一番高い場所に登ってみせます。氷の上に絶対はあるって、貴方のように証明します!」
「……そう。なら明日、ちゃんと君を見てるよ」
「帰るよ」
告げられた言葉に、司は鼻水を刺さった。
「あぁ、そうだ」
慌てて追いかけた黒い背中が止まる。まだ何かあるのかと思わず背筋が伸びたが、
「君はさっき俺を見ろっていったけど、僕は僕なりに君を見てたよ」
「君のステップも、ジャンプも、ドーナツが好きなところも、暑苦しいところも、ミミズがきらいなところも、嘘がつけないところも、自分を卑下するところも、僕のスケートが大好きなところも、世界中の誰よりも君のスケート(明浦路司)を知ってる」
「僕は君に犠牲を強いたけど、君の手を離すことで心が痛まなかったわけじゃない。それでも僕の心の痛みに耐えてでも、そうするべきだと思っただけだ」
「純さんにとっても、俺と離れることは苦しいことですか?」
「なんでそんな当たり前のことを聞くの」
「――――――ッ!」
「純さんは、いつも言葉が足らなさすぎるんですよ」
「だから僕には氷の上しかなかったんだよ」
「……今も寒いですか?」
「……いや、もう寒くないよ」
君と出会った日から、ずっと。
わずかに上がった口角に、司はまた声をあげて泣いた。
泣き続ける大きな子供の手を引いて、夜鷹は帰路につく。