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リフェアリー
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八月。商店街の銀行が開いて、一ヶ月が経った。
預金は、三千二百件。燃やした紙幣は、二億三千万円分。三冊の台帳は、三千二百行。三つの場所に。商店街。八王子。木曽。
要は、一ノ瀬の事務所に、毎日、通った。
一ノ瀬は、痩せていた。一ヶ月で、目に見えて。足は、もう、まったく動かなかった。手も、震えるようになっていた。でも、毎日、印を押していた。
「公正証書は、何通になった」一ノ瀬が聞いた。
「百四十二通です」
「一ヶ月で、五十六通か。二年で八十四通だったのに」
「銀行が、貸し始めたからです。大きな貸付は、公正証書にする。一ノ瀬さんが、決めた」
「わしが決めた。だが、わしの手は、もう、一日に二通しか、書けん」
要は、一ノ瀬の手を見た。筆を持つ指が、小刻みに、震えていた。
「……一ノ瀬さん」
「わかっとる。そろそろだ。七十四だ。足は、死んだ。手も、死にかけとる。目は、まだ、生きとる」
*
「後を、誰にする」一ノ瀬は、要に聞いた。
「公証人の、ですか」
「公証人のだ。公正証書は、わしがいなくなったら、誰が書く。商店街の銀行の、大きな貸付は、誰が、証する」
要は、考えた。
公証人は、第三者だ。当事者ではない。貸す側でも、借りる側でもない。当事者ではない人間が、当事者の約束を、証する。
一ノ瀬は、四十五年、それをやってきた。
「……一人じゃなく、三人にします」要は言った。
「三人?」
「公証人を、三人。会長と、鷺沼さんと、瑠衣。三人が、別々に、証する。三人の印が、揃ったときだけ、公正証書になる」
一ノ瀬は、要を見た。
「……三判だな」
「三判です」
「会長は、二年、商店街で、顔を見てきた。鷺沼は、ゼロを作った。瑠衣は、穴を見つける。三人とも、公証人じゃない」
「公証人の資格は、もう、どこにもない。法務省は、大剥離で、なくなった。資格を証するものが、ない。だったら、資格じゃなく、三人にする。一人の資格より、三人の目」
一ノ瀬は、長い間、黙っていた。
「……わしは、四十五年、一人で、証してきた」
「はい」
「一人で、間違えたことも、ある」
「はい」
「三人なら、間違えなかったかもしれんな」
一ノ瀬は、少し、笑った。
*
一ノ瀬は、最後の公正証書を、書いた。
大剥離後、公正証書、第百四十三号。
中身は、一ノ瀬自身の、遺言だった。
要は、その場にいた。会長と、鷺沼と、瑠衣も。四人が、証人だった。
一ノ瀬は、筆を持った。手が、震えていた。一文字、書くのに、一分かかった。
要は、代わりに書こうかと言った。一ノ瀬は、首を振った。
「これは、わしの字で、書く」
一時間かかった。
『遺言。
一、事務所の棚の公正証書、昭和、平成、令和、大剥離後、全部を、商店街の銀行に預ける。
二、公正証書の後を、会長、鷺沼慧、瑠衣の三人に託す。三人の印が揃ったときだけ、公正証書とする。
三、わしの印は、燃やす。わしの印で、新しい証書を作る者が出ないように。
四、封蝋の法の、三つ目の蝋は、土師要が押す。
五、わしの体は、商店街の裏の、寺に。墓は、要らん。
一ノ瀬恭一』
一ノ瀬は、印を押した。最後に。
印は、かすれていた。手が震えて、朱肉が、均一につかなかった。
「……下手な印だ」一ノ瀬は言った。
「下手です」要は言った。
「だが、真似できん。震えた手の印は、真似できん」
一ノ瀬は、印を、要に渡した。
「燃やせ」
要は、印を受け取った。木の印。四十五年、使われた印。角が、丸くなっていた。
店の裏のドラム缶。権田の三千万円が燃えた缶。
要は、印を、そこに入れた。マッチを擦った。
印は、ゆっくり、燃えた。木の匂いがした。朱肉の匂いも。
一ノ瀬は、二階の窓から、それを見ていた。
*
夜、要は、一ノ瀬の枕元にいた。
一ノ瀬は、布団に、横になっていた。目を、開けていた。
「……兄ちゃん」
「はい」
「二年前、お前が、ここに来たとき、わしは、『これからは、わしらの時代かもしれん』と言った」
「言いました」
「間違ってた。わしらの時代じゃなかった。お前らの時代だった」
「一ノ瀬さんがいなければ、何もできませんでした」
「わしは、割符と、公正証書と、封蝋を、教えただけだ」
「それが、全部でした」
一ノ瀬は、少し、笑った。
「……兄ちゃん。一つ、頼みがある」
「何ですか」
「仕組みに、名前をつけろ」
「名前」
「二年前、わしは、『それは、国だな』と言った。お前は、『国じゃない』と言った。名前は、後で考えろと、わしは言った」
「言いました」
「後が、来た。考えろ」
要は、一ノ瀬を見た。
一ノ瀬は、目を、閉じていた。息は、していた。眠っていた。
要は、枕元で、一晩、考えた。
名前は、出なかった。
コメント
1件
もう涙腺崩壊したんだけど……!!😭💦 一ノ瀬さんの最後の印、震えた手で押したからこそ誰にも真似できないってのが、もう…言葉にならん…。四十五年一人で証してきた人が、最後に三人の目を認めて、「間違えなかったかもしれんな」って笑うとこ、尊すぎて胸がぎゅうってなったよ。名前、まだ出てないんだね。要くんが考えつくその日まで、ちゃんと見届けるよ。次も、読ませてもらうからね🌸✨