トラゾーに手伝いのことを言うが、当然何のことか分かっていなかった。
こうなる前のトラゾーだったらきっと、
『もう!また溜めてんですか?あなたやればできるのに何でしないの!…え?俺がした方が丁寧で分かりやすくなるから?まぁ、それは言えてますけど』
なんて笑いながら言うのだろう。
手を出した時も、彼は仕方ないなぁと言いながら俺の手に自身の手を重ねていた。
でも、あの時はそんな仕草は見られず。
当たり前だ。
俺ら自体を忘れているのだから、それに関することは身に覚えがないだろうから。
「……」
「……」
手を引かれることに対して疑問を抱かないのは単純に俺の執務室を覚えていないから案内してもらってると思ってるのだろう。
けど、強張る腕は俺に対する拒否感を表していた。
彼は本当に俺らのことだけすっぽり忘れている。
我慢ばかりするトラゾーに無理をさせていたのは俺らだ。
心身のキャパを超えてしまったのだろう。
だから、自身の柔らかい部分を守る為に不必要なものを忘れることにしたのだ。
それが俺たち。
当たり前って、当たり前じゃないのに。
人間はどうしていつも気付くのが遅いのだろうか。
後悔はいつだってそんなものだ。
優しさなんて無限にあるわけないのに。
これは、そんな今にも割れてしまいそうな硝子の上に胡座をかいて当たり前を当たり前だと勘違いしていた俺たちに対する罰だ。
「トラゾー」
「?、何でしょうか?」
言葉遣いだっていつも以上に丁寧で、他人行儀だ。
それが余計に俺らの心を抉った。
「…ううん、手伝い引き受けてくれてありがとね」
「いえ、…困っていたんでしょう?」
「…そうだね」
「……」
「……」
こんなにも会話が弾まないことなかった。
トラゾーはよく喋る。
いろんな話を聞かせてくれるのを俺らも嬉しく思っていた。
何より、俺らの前でくるくる変わる表情を見るのが好きだった。
こんなにもぎこちなく、他人を見るような表情は見たくなかった。
───────────
執務室に招き、散らばる書類や乱雑に置かれた紙たちを指示しながらまとめてもらう。
「それはこっちで、そこのはあっちに」
「はい」
簡単な指示でテキパキとまとめていくトラゾーを見て、余計に悲しくなった。
その動作は何も変わっていないのに。
「…トラゾー」
「はい?」
「お腹の傷、大丈夫?」
「え?…あー、大丈夫ですよこのくらい。まだ痛みますけど、薬のおかげでなんとか。…それに慣れてますから」
きちんと縫合されたらしく、処方された痛み止めも効いているようだった。
傷を見させてもらったことはないけど、そのあまりにも自然に当たり前のように出てきた言葉に手が止まる。
「慣れ…?」
俺の呟きを拾ったトラゾーは手を止めずに話し始めた。
「だって俺は潜入して情報収集するのが役目なんで、そりゃバレて殺されかけることなんて普通にありますよ。まぁ…、よっぽど勘の鋭い人じゃないと気付かれませんが……ゼロではないですからね」
ファイリングされた書類たちを順番に棚に戻していく。
俺に背を向けているからその表情は見えない。
「大丈夫ですよ、皆さんのことは何一つ吐いてない筈なので」
トラゾーが病院を嫌っているのを分かっていて、でも俺らじゃどうしようもない傷などができた時は、彼がすごく嫌そうな顔をしながら自己申告してくる。
行ってきますと言い、知らぬ間に行ってしまうのだ。
どの程度の傷かを知られない為に、見せない為に。
だから体を見られるのを極端に嫌がる。
そんなトラゾーの必死の形相に負けた俺らも何も言わないし、見ることはしなかった。
優しいトラゾーに拒絶されたら、と思うとそれが怖かったから。
「そ、れは何も疑ったりはしてないよ。トラゾーはそんなことしないって信じてるから」
ぴたりと動きをトラゾーは急に止めた。
「……ほんとに?」
「え?」
「本当にそう思ってるんですか」
咎めるような硬い声。
「トラゾー?」
「俺”は”いなくてもいいって思ってるんじゃないですか」
疑問を投げかけてるように見えて、断定したような言い方だった。
「………なんて。失礼なこと言いましたね、すみません。さっさと片付けてしまいましょう」
今のはトラゾーが心の根底に隠している本心なのだろうか。
一瞬、素のトラゾーのように見えた。
「ぁ……そう、だね。あんま遅いとぺいんとにどやされちゃうし」
振り向きもしないトラゾーは黙々と、何も変わっていない素早い動作で片付けをしていった。
対して俺は回らない頭と鈍い動きで、間違えながら書類整理をしていった。
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