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配給倉庫の空気は、いつも少し冷たい。穀物の袋が整然と積まれ、壁際には陶器の瓶が並んでいる。塩、油、干し肉。民へ配給される物資は、ここで管理されている。
縫季は倉庫の奥を歩きながら、壁に掛けられた木簡に目を走らせた。日付、品目、量、配給先。すべてが几帳面に刻まれている。
殷の官僚機構は、驚くほど整っている。記録の正確さ、流通の管理。どれをとっても、この時代としては異常なほどだ。
(帝辛の、いや、この国の完成度だな)
縫季は木簡を一つ手に取った。三日前の配給記録。穀物、五百斤。配給先は南区。問題ない。次の木簡。穀物、三百斤。配給先は東区。これも問題ない。
だが。
縫季の手が、ある木簡の前で止まった。「……安堵配給?」
聞き慣れない言葉だった。配給先の欄には、「民生安定」とだけ記されている。品目は穀物と塩。量は、少なくない。
(安堵配給……民生安定……)
配給には、通常、明確な理由と配給先が記される。災害があれば「災害救済」、祭祀があれば「祭祀供給」。曖昧な名目で物資が動くことは、まずない。それなのに、この項目には、具体的な配給先が書かれていない。
(いつから?)
縫季は木簡を日付順に追った。一ヶ月前――記載なし。二十日前――なし。十五日前――……あった。
「安堵配給。穀物、二百斤。民生安定」
(十五日前から……急に始まった)
縫季は木簡を元に戻す前に、掌を広げた。
調整員の本能が、線を辿ろうとする。
殷の世界線――この時代の記録の層を、指先で探る。一ヶ月前、三週間前、二十日前……流れは読める。だが。
十五日前を境に、線が――薄くなる。
薄い、ではない。読めない。
霧ではなく、最初からそこに何も刻まれていなかったような、空白の感触。
(……記録が、ない)
記録がない場所は、照合不能として扱われる。行動の根拠にはできない。管理官の言葉が、冷えた音で蘇る。
だが、目の前の木簡には確かに文字が刻まれている。安堵配給。穀物、二百斤。民生安定。
存在している。なのに、線には残っていない。
(記録されているのに、線に刻まれていない――)
それは、記録が「誰かに読まれないように」作られた、ということだ。
縫季は木簡を元に戻し、倉庫の管理を担当している老吏のもとへ向かった。
「安堵配給、ですか」
老吏は首を傾げた。長年ここで働く男だ。深い皺の奥に、倉庫の流れを見落とさない目がある。
「ああ」縫季は頷いた。「最近、その項目が増えたように見える」
老吏は少し考えるように視線を上げた。「……そうですね。半月ほど前からでしょうか」
「誰の指示だ?」
「医官経由です」
縫季の目が、わずかに鋭くなる。「医官?」
「はい。殿下のお側にいる医官から、民の体を健やかに保つため、定期的に物資を配給するようにと」
「配給先は?」
「それが……」老吏は困ったように眉を寄せた。「具体的な場所は指定されていないのです」
縫季は黙って老吏を見つめた。
「医官が直接受け取りに来られます。そして、必要な地域へ配るとのことで」
「医官が、直接?」
「はい」
(おかしい)
配給は通常、各地区の責任者を通じて行われる。医官が直接物資を受け取り、配給するなど聞いたことがない。しかも配給先が明記されていない。
(流れが見えない)
これは、殷の官僚機構の原則に反している。帝辛が築いた制度は、すべてが記録され、追跡できるように作られている。それがこの国の強さであり、安定の礎だった。なのに、この「安堵配給」だけは、流れが見えない。
「その医官の名は?」
老吏は少し考えた後、答えた。「清朗殿の名で、指示が来ています」
縫季の心臓が、一度だけ強く打った。
(清朗……)
市場で見た顔が浮かぶ。人の輪の中心で、軽く笑っていた男。帝辛の横で、言葉を挟み、空気をほどく男。
――それだけのはずだ。
だが、口の奥に甘い香の記憶が残っている。あの日、風に紛れて届いた匂い。甘すぎて、喉の奥がわずかに乾いた。
(名義が清朗。医官経由。配給先が不明)
縫季は呼吸を整えた。ここで揺れたら、見落とす。
帝辛が築いた仕組みは、すべてが記録され、追えるように作られている。なのに、追えない流れが混ざり始めている。それが、清朗の名の下で行われている。
(清朗が、やっているのか)(それとも、清朗の名が使われているのか)
縫季は老吏へ視線を戻した。「受け取りは、いつも同じ刻か?」
「だいたい、午前の早い刻です。週に二度ほど」
「受け取りに来るのは、清朗本人か」
老吏は首を横に振った。「いえ……使いの者が。清朗殿のお印を持って」
縫季の胸の奥が、冷たくなった。(印――)
名義は、動かせる。印も、動かせる。人の善意も、動かせる。
「分かった」縫季は短く答えた。「ありがとう」
老吏は少し不安そうに縫季を見た。「何か……問題でも?」
「いや」縫季は首を振った。「念のため、確認しているだけだ」
倉庫を出ると、午後の光が眩しい。民の声が、どこまでも穏やかに続いている。子どもの笑い声。商人の呼び声。風に揺れる布の音。
平和だ。だからこそ、薄い異物は目立つ。
(安堵配給)(配給先が不明)(清朗の名義)(印を持つ使い)(十五日前を境に、線が読めない)
点は揃ってきた。だが、まだ輪郭が足りない。――何のために、誰が、どこへ流している。
縫季は王太子府へ向かって歩き出した。
途中、ふと帝辛の姿が脳裏に差し込む。湯を測る指先。器を扱う慎重さ。あれは、秩序に触れる人間の動きだ。
(あの人の国に、追えない流れが混ざる)
そのことが、嫌だった。個人的な感情ではない、と縫季は自分に言い聞かせる。制度が崩れる前兆を見逃したくないだけだ。
地に足音が落ちる。穏やかな午後の中で、縫季だけが、見えない歪の縁をなぞっていた。
(俺は、調整員だ)
まずは線にする。感情は、その後だ。
コメント
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第15話、読み終えました。縫季が倉庫で「安堵配給」という不自然な記録を見つける場面、すごく引き込まれました。特に「記録されているのに、線に刻まれていない」という矛盾の描き方が巧みで、官僚機構の整った殷だからこそ余計に不気味に感じます。最後の「印は動かせる」という一文が、これからの展開に不安と期待を同時に抱かせてくれました。清朗の影がまた一歩、縫季に近づいてきた気がして、続きが気になります。