声をかけられて自分がまた岳紘さんの事を考えてしまっていることに気付かされる。今日は奥野君の悩みを聞き出そうと張り切ってここに来たのに、結局は自分の事でいっぱいいっぱいになって。
私以外の女性を愛している夫なんてどうでもいいと思いたいのに、そう出来ない事にまた苦しんでしまう。そんな自分自身が嫌なのに……
「そんな本音で話せないような男のどこがいいんです? 俺に対するみたいに、全部ありのままの雫先輩でぶつかればいいのに」
「そんなことしたら、夫に嫌われるかもしれないもの」
そう言った自分にハッとさせられる、こんなにも私は岳紘さんに嫌われることに怯えているのかと。だけど私が驚いた以上に、奥野君はその言葉が意外だという顔をしていた。
そんなに私らしくないことを言っただろうか?
「そうかもしれないですね、俺も……そうなのかもしれません」
「奥野君もって、それは奥さんに対して?」
彼が驚いた表情をした理由は私が原因ではなく、彼の奥さんとの事だったようで。もしかしたら奥野君は私と同じように相手に嫌われるのが怖くて、本音で話せなくなっているという事なのかもしれない。
夫には本音で話せないのに、奥野君には言いたい事が言える私。そして私には人懐っこい笑顔で行為を伝えてくるのに、奥さんにはそう出来ない奥野君。
だとすれば私たちは、とても似ているのかもしれない。相手との距離もその複雑な夫婦関係も。
「……俺の奥さん、ちょっと特別な人なんですよね。自慢の妻と言えばそうなんですけど、夫婦としては色々と複雑で」
「そうなの?」
今まで奥野君が奥さんの事について話そうとしなかったのは、そういう理由があったから? ハキハキとモノを言う彼にしては珍しく歯切れの悪い話し方だった。
でもそのことについて相談しようと思ってくれたのが嬉しくて、私は黙って彼の話の続きを聞くことにした。
「奥さんは仕事に生きているような女性で、結婚前も俺たちは恋人同士というより協力者みたいな関係でした。それは結婚後もあまり変わらなかったけれど、妻が仕事で成功するとどんどん忙しくなって」
「奥さんは、どんな仕事を?」
私が思っていたのよりも奥野君の夫婦関係は複雑なようだった。協力者のような関係だったと言いながらも、結婚に踏み切ったと言うことは少なくとも奥野君には奥さんに対する愛情はあったはず。
それなのに、どうして……?
「カリスマヘアメイクアーティスト、だそうです。時々テレビなんかにも出たりしているみたいですけど」
「……そう、なんだ」
自分の妻がテレビに出るのはどんな気持ちがするのだろう? 少なくとも今の奥野君の表情からは喜びや嬉しさという感情は見られない。
……話を聞いていて何となく想像がついた、奥野君はきっと寂しいのだろう。
「奥さんが成功して人気が出る事は嬉しいんです、本当に良かったと思える。ですが、それと同時に彼女にとって俺は今必要なのかとも思うようになりました」
「え? でもそれは、夫婦関係とは関係ないんじゃないの」
奥さんの仕事が成功したとしても、それは夫である奥野君の協力があってこそだったはず。それなのにどうして彼は奥さんに必要とされてないと感じたのだろうか。
けれど自分に置き換えると何となくわかるような気がした。私も夫に必要とされているかと聞かれれば、きっとその答えは「NO」だから。
……だって岳紘さんに、私が必要な理由が何も無いもの。
「忙しい彼女を支える協力的な夫、という意味では必要だったかもしれません。でも、それは俺でなくても良かったような気がして。今ならきっと妻に協力して支えたいという男性はたくさんいるでしょうし」
「ずっと奥さんとのことを、そんな風に考えてたの? それを伝えようとはしないで」
そう出来なかった理由は何となく分かるのに、それでももどかしく感じるのは何故だろうか。奥野君の奥さんが必ずそう考えてると決まったわけではないのに、彼の中では答えが決まってしまってるかのようで。
それが自分と岳紘さんとの姿に重なって、余計にもやもやとした感情を持て余す。
「……ええ、雫先輩と同じ理由です。妻から嫌われるというか、もう必要ないと言われるのが怖かったからかもしれない」
「奥野君……」
気持ちはよく分かる、私も同じようにずっと夫からそう言われるんじゃないかって怯えていたから。
結婚前は籍さえ入れてしまえば、そのうちに岳紘さんも自分だけを見てくれると信じてたけれど現実は違っていた。それどころか、自分に都合の良いルールを作って妻の私とは別の人を愛してる。
悲しさだけじゃない、悔しさだってこの胸をギリギリまで支配してるのに私はまだ夫に何も言えてない。こんなにも、こんなにも私は苦しいのに……
「ねえ雫先輩、泣かないで」
「え……私、泣いてなんか」
そう言いかけて自分の瞳から涙が零れ落ちていたことに気付いた。透明なその雫は頬を伝ってそのままテーブルへと真っ直ぐに落下していく。
今辛い話をしていたのは奥野君のはずなのに、その話に共感して私の方が涙を流してしまったらしい。
「ねえ、雫先輩。もし先輩が俺に頼るのがどうしても嫌なら、お互いが相手を慰めるって言うのはどうですか?」
「なによ、それ……」
「ああ、変な意味じゃないです。ただ辛い時に慰め合える相手、そういうのって欲しくないですか?」
意味が分からない、そう思うのになぜか私はすぐに「必要ない」とは言えなかった。その言葉が私や奥野君が一番恐れている言葉だと分かっていたからかもしれない。
そして、私の出した答えは――――