テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ゆうき あきや
4,767
80
150
友ゴリラ
1,059
第221話:大自然の無料スタジオと、バズりの奇跡
北海道、日高山脈の麓。
道なき道である沢の入り口に、冷たい水音がゴォォォォッと響き渡っている。
俺——株式会社インフィニティ・ワン代表取締役社長、秋谷雪(40歳)は、総重量二十五キロの巨大バックパックを背負い、膝まで川の冷水に浸かりながら、最新型ジンバルを構えていた。
『配信開始まで、あと十秒です。ルシフェル様、絶対に手ブレさせないでくださいね。数万人のリスナーが、4K画質の絶景を待っています』
耳に装着したイヤホンから、冷徹秘書である結愛(ゆあ)の氷点下ボイスが飛ぶ。
「わかってる! 自衛隊の需品科で鍛えた体幹を舐めるな!」
俺はジンバルを握る両手に全神経を集中させ、足元の苔むした岩にスパイクシューズを食い込ませた。
二十五キロの殺人的な重さが、四十歳の腰と膝の軟骨を容赦なくすり潰してくる。
エウリアン(絵画商法)に騙されて背負った500万円の極悪ローンを返し、ヒモ社長の屈辱から這い上がるための、社運を賭けた第一回ロケ。
『3、2、1……配信、スタートしました!』
ジェミニ先生の無機質な合図と共に、カメラの録画ランプが赤く点灯した。
それと同時に、俺の目の前で、マウンテンパーカー姿の少女が元気いっぱいに両手を広げた。
「みんなーっ! こんやまー! やまむすめの、日向(ひなた)です!」
彼女の澄み切った声が、北海道の雄大な景色とともに、全世界へ配信されていく。
もちろん実際の配信画面では、高度なトラッキング技術によって、現実の風景に日向の可愛いVTuberアバターが完璧に合成されているはずだ。
「今日は記念すべき第一回ロケ! 究極の自給自足サバイバルをお届けします! 見てください、このすっごく綺麗な川!」
日向がカメラに向かって無邪気に笑いかける。
『うおおおおおっ! 景色ガチすぎる!』
『4K画質やばい! 水の透明度すごっ!』
『日向ちゃん可愛い!!』
『本当に山奥の川の中歩いてて草』
裏回線で監視している結愛から、コメント欄の熱狂が次々と読み上げられる。
『ルシフェル様。配信開始一分で、同接数が3万人を突破しました。信じられないペースです』
結愛の声が、かつてないほど上ずっていた。
「よっしゃぁぁっ! そのまま突っ走るぞ、日向ちゃん!」
俺の裏方からの声援を受け、日向はピョンピョンと軽快なステップで、苔むした岩場を登り始めた。
「さあ、今日の目標はあの沢のずっと上にある滝壺です! そこで火を起こして、お昼ご飯を作りますよー!」
彼女はツルツルと滑る危険な岩場を、まるで平地を歩くようにヒョイヒョイと進んでいく。
その身のこなしは、まさに山の申し子だ。
「あだだだっ! ちょ、ちょっと待て日向ちゃん! 早い!」
一方の俺は、二十五キロの機材を背負い、一歩進むたびに「ギックゥ」と腰から異音を鳴らしながら、必死に彼女の背中を追っていた。
「あははっ! 社長さん、しっかりついてきてくださいね! ほら、足元滑りますから気をつけて!」
『社長の悲鳴助かるww』
『カメラマン(40歳社長)死にそうww』
『タレントが元気すぎて裏方がボロボロの図ww』
リスナーたちは、過酷な大自然と、バケモノ体力の新人VTuber、そして悲鳴を上げる限界社長のコントラストに大爆笑している。
『……あー、社長ぉ、スパチャの勢い止まんないっすねぇ。海外のリスナーも「日本のクレイジーな社長が頑張ってる」って大ウケしてるっすよぉ……ふわぁ』
海外スタッフのヨモが、相変わらずの気だるげな様子で報告してくる。
【社長の腰椎に湿布代】——¥10,000
【日向ちゃん足腰つよすぎ!】——¥5,000
【これぞ求めてたサバイバル】——¥50,000
画面の向こうでは、万の札束が乱れ飛んでいるのだ。
この重さは、借金を返すための黄金の重さだ。
そう思えば、二十五キロのバックパックすら愛おしく感じてくる。
「あっ! みんな見てください! あそこに生えてるの、ギョウジャニンニクです!」
日向が突然立ち止まり、川岸の斜面に生えている緑の葉っぱを指差した。
「これを豚肉と一緒に炒めると最高に美味しいんですけど、今日は調味料しかないので、後で素焼きにしてお醤油をかけて食べましょうね!」
彼女はサバイバルナイフを器用に使い、根元を残して見事に山菜を収穫していく。
『すげえ! ガチで現地調達してる!』
『知識パねぇ!』
『マジで食費ゼロ円ロケじゃんww』
日向のガチすぎるサバイバル知識と大自然の映像に、コメント欄の熱狂はとどまることを知らない。
『ルシフェル様、同接5万人を突破! スーパーチャットの総額は、すでに開始三十分で400万円を超えました!』
結愛の叫び声が、イヤホンを通して俺の鼓膜を震わせる。
「よ、よんひゃくまん……っ!?」
俺はジンバルを持つ手を震わせながら、冷たい川の中で歓喜の涙を流しそうになった。
勝った。
完全に俺たちの勝利だ。
あの『う○む○め』の背中を追って立ち上げた、無謀すぎるアウトドア特化型事務所。
それが今、北海道の広大な自然を「無料スタジオ」として味方につけ、本気で業界の覇権に手をかけようとしている。
「この調子で滝壺まで行って、焚き火で美味い飯を食うぞ! インフィニティ・ワンの快進撃はこれからだ!」
俺が満面の笑みで叫んだ、その直後だった。
ヒュオォォォォォォォッ……!
突然、谷底を吹き抜ける風が、氷のように冷たくなった。
「……え?」
先ほどまで明るかった太陽の光が、まるで誰かが巨大なスイッチを切ったかのように、スッと消え失せる。
俺が空を見上げると、いつの間にか、頭上の切り立った崖と崖の間を、真っ黒な鉛色の雲がびっしりと覆い尽くしていた。
『ルシフェルさん。気象レーダーに致命的な異常を検知しました』
ジェミニ先生の合成音声が、緊急を告げるアラート音と共に鳴り響いた。
『日高山脈の上空に、局地的な巨大積乱雲が急速に発達しています。いわゆる【ゲリラ雷雨】、山岳地帯における鉄砲水の危険性が極めて高い状態です』
「て、鉄砲水だと……!?」
ポツリ。
俺の頬に、冷たい雨粒が当たった。
それを合図にしたかのように。
ザァァァァァァァァァァッ!!
息をするのも苦しいほどの、暴力的な豪雨が上から叩きつけてきた。
「きゃあっ!?」
先ほどまで元気に笑っていた日向が、突然の豪雨に悲鳴を上げてしゃがみ込む。
「日向ちゃん! 大丈夫か!」
俺は慌ててジンバルを防水カバーで覆い隠し、彼女の元へ駆け寄ろうとした。
だが、沢の水位が、たった数十秒の間に、足首から膝、そして太もも付近まで急激に上昇してきている。
ゴバァァァァァッ!!
川のせせらぎだった音は、大地を削るような恐ろしい濁流の轟音へと変わっていた。
『ルシフェル様! 配信の映像が乱れています! 機材が水没します、直ちに安全な高台へ避難してください!』
結愛の悲痛な叫び声がイヤホンから聞こえるが、雨音と濁流の轟音で、ほとんど聞き取れない。
「社長さん! 川の色が濁ってきました! ここにいたら流されます! 早く斜面を登って!」
日向が野生の勘で危機を察知し、俺の腕を力強く引っ張った。
俺たちは命からがら、沢から数メートル高い位置にある、木々が生い茂る斜面へとよじ登った。
ドォォォォォォッ!!
俺たちがさっきまで立っていた苔むした岩場は、あっという間に茶色い濁流に飲み込まれ、巨大な流木が猛スピードで流されていく。
「はぁっ、はぁっ……! あぶ、危なかった……」
俺は斜面の泥にまみれながら、恐怖でガタガタと震えていた。
もし逃げるのがあと十秒遅れていたら、俺も日向も、二十五キロの機材ごと濁流に飲み込まれて、今頃は太平洋まで流されていただろう。
『ルシフェル様! 応答してください! 日向! 無事ですか!?』
「結愛! なんとか高台に避難した! 生きてるぞ!」
俺が大声で叫ぶと、イヤホンの向こうで結愛が安堵の息を吐くのが聞こえた。
『ジェミニ先生! 現在の天候予測と、二人のエスケープルートの算出を急いで!』
結愛の指示に対し、ジェミニ先生の返答は、あまりにも絶望的なものだった。
『……算出不能です。豪雨の影響により、電波状況が極度に悪化。現在、かろうじて音声通話のみ繋がっている状態ですが、映像の配信は完全にストップしています。さらに……』
ジェミニ先生の音声が、ノイズ混じりに途切れる。
『この豪雨は、最低でもあと数時間は続きます。沢の水位が下がるまでは、下山ルートは完全に遮断されました』
「遮断……? それって、つまり……」
俺は隣で泥だらけになって震えている日向と、自分自身の悲惨な姿を見下ろした。
『はい。ルシフェルさんと日向は現在、日高山脈の山中において、完全に【孤立・遭難】しました』
さっきまで俺たちを歓迎してくれていた「無料の絶景スタジオ」は、一瞬にして牙を剥いた。
同接5万人、スパチャ400万。
その大熱狂の代償が、これか。
「……嘘だろ。冗談じゃないぞ……」
食料ゼロ。逃げ道ゼロ。しかもこの辺りはヒグマの生息域だ。
俺の絶望の声は、容赦なく岩を叩く雨音に一瞬でかき消された。
コメント
1件
いやっはー!第223話、一気に読んだわ!最初は大自然×VTuber配信のワチャワチャ感が楽しくて、日向ちゃんの軽快な動きと社長の限界ギリギリの掛け合いに思わず笑ってたんだけど…最後の遭難展開でガラッと空気変わるのが凄い。同接5万、スパチャ400万の熱狂の代償がこれかって終わり方、震えるわ。次の話どうなるんや…!