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ホールの中は、張りつめた静けさに包まれていた。
天井のシャンデリアがわずかに揺れて、光が床に反射する。
客席の一人ひとりが息をひそめ、まるで空気すら音を立てることを恐れているかのようだった。
最後の演奏者の名前が、静寂を裂くようにアナウンスされた。
「ケビン」
その名が響いた瞬間、場の空気が揺れた。
客席の一角から、ざわめきが広がる。
(彼はもう、辞めたって聞いてた)
誰かの小さな声が、ざらりとした緊張感の中で浮かぶ。
しかしその噂を打ち消すように、舞台袖のカーテンが静かに揺れ、白い光の中から一人の青年が姿を現す。
ケビン
白いシャツに身を包み、淡い影を引きながら舞台へと歩を進める。
その表情に余計な感情はない。ただまっすぐ前を見ていた。
客席に一礼し、椅子に腰を下ろす。
指先が鍵盤に触れた瞬間――
一音目がホールに流れた。
それは静かで、けれど確かに芯のある音だった。
誰にも媚びず、誰のためでもなく、それでいて――
たったひとりに向けて紡がれたような、祈りのような旋律。
それは、傷を抱えた心が、そっと差し出す手のようだった。
痛みを知る者だけが持てる優しさが、音となって客席を満たしていく。
その旋律は、確かに――史記に届いていた。
史記は、息を切らして走っていた。
夕暮れの風が髪を揺らし、制服の袖が頬にあたるたび、胸がぎゅっと締め付けられる。
(間に合ってほしい)
何度も心の中で願いながら、石畳を踏みしめる足に力を込める。
古い学舎を抜け、坂道を駆け上がったとき――
遠くに見えたホールの扉から、微かにピアノの音が漏れ聞こえた。
その音を聴いた瞬間、史記の足が止まりそうになった。
全身に鳥肌が立ち、胸がじんわりと熱を帯びる。
(あの音だ……)
紛れもなく、ケビンの音だった。
かつて隣で何度も聞いた音。けれど今は、誰かに届けようと、迷いながらも放たれている音だった。
そっとホールの扉を押し開け、史記は静かに客席の後方に滑り込む。
カーペットを踏む足音さえ遠慮がちに、ひっそりと椅子に腰を下ろした。
舞台の上。
スポットライトに照らされたケビンが、ピアノに向かっている。
その背中はまっすぐで、でもどこか寂しげだった。
鍵盤を見つめているはずなのに、その瞳は――まるで誰かを、遠い誰かを見つめているようだった。
そして、その視線の先に、史記は立っていた。
一瞬、ケビンの指がわずかに揺らぐ。
だがすぐに持ち直し、小さく笑んでから、最後の音を静かに紡いだ。
その音は、まるで「ありがとう」と言っていた。
演奏が終わると、ホールには柔らかな拍手が広がった。
けれど、史記の耳にはそれが届いていなかった。
彼の視線は舞台袖へと真っ直ぐ向けられ、気づけば身体が動いていた。
舞台裏の廊下。
楽屋へと続く静かな通路の先で、ケビンが立っていた。
彼はまだ少し息を切らしていて、額に浮かぶ汗をそのままにしていた。
けれど、その瞳に宿る光は確かだった。もう、何ひとつ迷っていなかった。
「……来てくれたんだね」
ケビンの声は震えていた。でも、その響きはあたたかかった。
史記は何も言わず、ただ一歩近づいてそっと抱きしめた。
鼓動の重なりが、お互いの存在を確かめ合う。
「お前がいたから、俺はここまで走ってこれた」
震える声で、やっとの思いで言葉を絞り出す。
ケビンは、史記の胸元に額を押し付け、まぶたを閉じた。
その唇から漏れたのは、確かな願いだった。
「俺も……もう一度信じたい。史記と、未来を」
音楽に背を向けた日も、言葉が届かなかった夜も、すべてが今ここで繋がっていく。
誰に何を言われても、もう揺らがない。
この音と、この想いだけを胸に抱いて――
2人は、もう離れなかった。