ステージ裏の廊下には、まだピアノの余韻がかすかに残っていた。誰もいないその静けさは、まるで時間が一瞬だけ止まったかのようで――
そこに満ちているのは、静寂というより、音が静かに息を潜めているような空気だった。
淡い照明が壁を照らし、足元に落ちる影が重なる。
そこに、史記とケビンが並んで立っていた。
史記は、そっと手を伸ばした。
触れたケビンの指は、思ったよりも冷たくて、長く細かった。
長い時間、誰にも触れられなかった音の指。
でもその冷たさの奥に、確かに命の鼓動が感じられた。
「この手……やっぱり、冷たいな」
そう呟くと、自分の胸元にそっとケビンの手を当てた。
制服の生地越しに、自分の心臓の音を感じさせるように。
「でも……あったかいよ。ちゃんと、生きてる」
心臓の鼓動が、手のひらを通して伝わっていく。
音楽じゃない、言葉でもない、ただ確かに「生きている」証。
ケビンは、少しだけ目を伏せたあと、静かに頷いた。
その目には光るものが浮かんでいたが、不思議と苦しげではなかった。
むしろ、それはようやくたどり着いた場所に流れる安堵の涙のようだった。
「史記……君がいたから、俺は……音を取り戻せた。自分を取り戻せたんだ」
吐き出すように、でもひとつひとつ確かめるように紡がれる言葉。
どこか怖がるような声色で、それでも懸命に、真実を伝えようとしていた。
「俺は、あのとき……“いなければよかった”なんて、本心じゃなかった。
本当は、君がいてくれて……救われてた」
史記は、ケビンの目をじっと見つめたまま、柔らかく微笑んだ。
その笑顔は、どんな言葉よりも優しくて、どこまでもあたたかかった。
「知ってるよ。……でも、言ってくれてありがとう」
ケビンは、その笑顔を見つめて、ようやく深く息を吐いた。
長く背負っていたものが、少しだけ軽くなるような、そんな呼吸だった。
肩の力がふっと抜けて――彼はようやく“今”という時間に立てた気がした。
その夜。
演奏会がすべて終わったあと、2人は大学の屋上にいた。
高層ビルの隙間から流れる夜風が、2人の髪と服をそっと揺らしている。
空には星がいくつか滲んでいたが、それすらもかき消すように、街の明かりが瞬いていた。
遠くのクラクション、足音、駅から流れるアナウンス――
人の営みの音が、風に混じって小さく届く。
フェンスにもたれて並ぶ2人の肩と肩が、そっと触れ合っていた。
言葉を選ぶようにして、史記がぽつりと尋ねる。
「これから……どうする?」
その問いに、ケビンはすぐには答えなかった。
しばらく空を見上げて、深く息を吸い込む。
夜空は遠く、そして広い。
まるで迷いも戸惑いも、そこへ溶けていくような静けさだった。
「……君と一緒に、生きていきたい」
その言葉は、小さな声だった。
でも、それ以上のどんな音よりも、まっすぐに胸を打った。
簡単な言葉のはずなのに――
今まで何度も言えなかった、それだけが言えなかった言葉。
「誰に何を言われても、もう逃げない。
俺は、君を“好き”だって……堂々と言える自分でいたい」
静かに語られるその決意は、どんな旋律よりもあたたかく、強かった。
史記は、言葉の代わりにそっと手を握った。
ゆっくりと、けれどしっかりと、その手を包み込む。
その力は、迷いのない、まっすぐな温もりだった。
「じゃあ、さっそく一緒に朝ごはんからだな。明日、俺んち来いよ。オムライス作るから」
「……急すぎない?」
ケビンが小さく笑って突っ込むと、史記は肩をすくめて言った。
「ゆっくりしすぎてたから、ちょうどいいんだよ」
ふたりは、顔を見合わせて笑った。
笑い声は、夜風に乗って静かに空へ昇っていく。
街の音が、遠くで響いている。
でもその中に――確かに聞こえた。始まりの予感。
心の奥に、長い間しまっていた「好き」を、ようやく抱きしめて。
過去も迷いも、音も言葉も、すべてを胸に抱きながら。
ふたりは静かに、未来へと歩き出した。
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