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朝、秘書室で、葉子と話しながら、デスクを拭いていると、渚が来た。
「おはようございます」
と二人で頭を下げる。
渚が、おはよう、と言いながら、こちらを見たが、蓮は視線をそらしてしまう。
そのまま、社長室の扉は閉まった。
「あら、よそよそしい。
なにかあった? 蓮ちゃん」
布巾を手に、葉子がにんまりと笑う。
怖いよ。
こういうときの浦島さんは怖い。
言い逃れできないような雰囲気を醸し出しているからだ。
すぐにまた扉が開いた。
「なんか機嫌悪いのか、蓮」
ぎゃーっ。
戻ってきたっ。
蓮は何故か葉子の後ろに隠れてしまう。
渚は、なんなんだ? という顔をしたあとで、
「後でお茶持ってこい」
と蓮に言って扉を閉める。
渚が消えるのを待って、葉子は笑い出した。
「やだーっ。
蓮ちゃんって、わかりやすいーっ。
結局、社長の押しに負けたのね」
隠す気もない社長と対照的ね、と言われてしまう。
「な、なんでわかるんですか?」
と何故か喜ぶ葉子を見て、恨みがましく見て問うと、
「いや、社長。
この間まで、仕事中はさすがにケジメをつけて、蓮ちゃんに対して遠慮がちだったのがなくなってるから」
と言う。
そ、そうなんですか。
すごいですね、浦島さん、と思っていると、
「やっぱりねえ」
と葉子は言った。
「なにがやっぱりなんですか?」
と訊くと、
「いや、蓮ちゃんは絶対、社長と付き合うと思ってたわ」
と言い出す。
「いや……なんでですか」
自分でもまさかこうなると思ってはいなかったのに、と思い、問うと、
「なにかこう、初めて見たときから、しっくりくるものがあったのよ。
何処か似てるところがあるって言うか」
と言われ、不本意だ、と思っていた。
一体、何処が似てると言うんだ、と思ったからだ。
「おっと。
この話は此処までね」
と言う葉子は、急いで仕事に戻っていた。
すぐに秘書室のドアが開いて、脇田が現れる。
なんで来るのがわかったんだ。
足音だろうか。
さすが秘書の鑑だ、と思っていると、脇田が社長室に入るのを見て、葉子は小声で言ってきた。
「まだ、脇田さんには、社長と付き合ってるって言わない方がいいわよ」
「なんでですか?」
職場恋愛は禁止だと怒られるとか? と思っていると、うーん、と葉子は困った顔をしたあとで、
「ま……社長がつるっとしゃべるとは思うけどね」
と言っていた。
「何処かスケジュールは空いてるか?」
社長室に入るなり、いきなり、そう言ってきた渚に、脇田は、
「なにか用事でも入りましたか?」
と訊いた。
「蓮と結婚しようかと思って」
ちょっと反応が遅れてしまった。
「それ、秋津さんに許可貰いました?」
案の定、渚は、いや、と言う。
「……渚」
社長室で勤務時間にどうかと思ったのだが、此処は友人として、一言、と思い、言ってしまう。
「お前、そういうことを一人で決めるなよ」
椅子に座ったままの渚がこちらを見上げて言う。
「もちろん。
蓮の親にも言うよ。
ちょっと手間取るかもしれないが」
「そうじゃなくて、秋津さんは、それでいいって言うのかって訊いてるんだよ」
「蓮は反対しない。
……と思う」
さすがにそこは言い切らなかった。
少しは人のことを考えるようになったか、と思う。
そういう意味では蓮と出会ったのはいいことなのかもしれないが、と溜息をつく。
「何処か空いてる日があったら、教えてくれ。
蓮にも訊いてみるから」
「……わかった」
と言い、特に用はないが、そのまま社長室を出て行った。
「あ、脇田さん」
と受話器を手にした葉子が立ち上がる。
電話のランプを見ると、内線電話のようだった。
「ごめん。
すぐ戻るから」
と急ぎの用がある風を装う。
顔を上げ、こちらを見ていた蓮をちらと視界に入れたあとで、秘書室を出た。
脇田が出て行ったあと、渚は、黙って椅子に座っていた。
……だから、いっそ、早い方がいいかと思ったんだがな。
脇田の消えた扉を見る。
脇田が蓮に惹かれているのには気づいていた。
ならば、長引かせるより、早くにケリをつけた方がいい気がしたのだが。
遅すぎたのか。
元より、そんなことでは解決できないことなのか。
わからんな。
今まで、恋とかしたこともなかったから。
仕事の交渉なら、駄目になる交渉でも、早い方がいい気がするんだが。
うーん、と思っていると、扉がノックされる。
その音だけで、何故か、蓮だとわかった。
「はい」
と言うと、案の定、蓮がお盆を手に入ってきた。
お盆を片手に、一度後ろを向いて、扉を閉めるという動作が、不器用な蓮には難しいらしく、ちょっと危なかしい感じだった。
側に行き、お盆を支えてやると、こちらを振り返り、蓮が苦笑いする。
「す、すみません」
「いや……」
と笑うと、蓮は照れたように視線を外した。
ほんと、可愛いな、こいつは、と思い、思わず抱き締めると、
「やっ、やめてくださいっ。
仕事中ですよっ」
と逃げようと身をよじる。
「莫迦っ。
お前、お茶引っ繰り返るだろうがっ」
「すっ、すみませんっ」
扉の向こうから、葉子の抑えた笑い声が漏れ聞こえてきた。
蓮にもそれが聞こえたらしく、しまったー、という顔で赤くなっている。
「お盆、置いてこい」
「は? はいっ」
と慌てて、蓮はデスクにお茶を置き、お盆を部屋の隅の台に置いてきた。
「なんでしょう?」
と生真面目に訊いてくる。
いや、別に仕事を申しつけようってんじゃないんだが、と苦笑いしたあとで、蓮を抱き締めた。
「いや、ですから。
仕事中は……」
と言う蓮に、
「わかってる。
今だけだ」
と言い、逃げられないよう、腕の力を強くした。
そのうち、蓮も逃げようとするのをやめた。
蓮の髪のいい香りが鼻先でする。
学生時代から気が合って、というか、よく俺の面倒見てくれてたな、と脇田のことを思い出す。
無理やりこの会社に引っ張ってきて、秘書をやらせて、悪かった、とは思っていたが、それでも、自分の選択は間違ってはいないはずだと思っていた。
脇田も口ではなんだかんだ言いながら、楽しそうに秘書の仕事をやっていたし。
もし、嫌なら、自分が引き止めたところで、振り払って辞めるくらいの意志の強さは脇田にはあるから。
でも……。
「もしかしたら、今度は駄目かもな」
と呟く。
え? と蓮が自分を見上げたようだった。
その顔は今は見えないが、声色が心配そうだった。
「いや……なんでもない」
脇田が思ったより本気なら、ちょっと揉めそうだな、と思っていた。
自分が蓮に相手にされていないうちは、まだよかったのだろうが。
本来、天秤にかけるものではないのだが。
無理やり連れてきた脇田が離反するかもしれないとわかっていて、蓮を手に入れたことで。
なんだか、脇田と蓮を天秤にかけて、蓮を選んだみたいになってしまったのも問題だろう。
「一回だけ、キスしていいか?」
「はい?」
「そしたら、今日一日、頑張るから」
抱いていた手を離し、視線を蓮の位置まで下げて問うと、彼女は赤くなって言った。
「だから、わざわざ断らないでくださいって言――」
言い終わる前にキスしていた。
そう言うということは、いいんだろうと思って。
「愛してるよ、……蓮」
そう囁くと、蓮はもうこちらも見られないくらいに赤くなって俯いている。
なんでこんなに可愛いんだろうな、と思いながら、
「お前は言わないのか」
と訊くと、
「言えません」
と言ってくる。
「言え」
「言えませんっ」
「言え!
社長命令だ」
「ええっ?
じゃあ、会社辞めますっ」
「莫迦め、お前、派遣社員だろうが。
この会社、配属されてるだけじゃないか」
ああっ、そうだったーっ、という顔をし、
「じゃあ、派遣会社辞めます~っ」
と叫び出す。
「あのマンションの金、払えるのか?
俺は払わないぞ」
と言ってやると、蓮は、ぐっと詰まった。
あのマンションは蓮にとって、大事な自立の証のようだと気づいていた。
「ほら、言え。
『愛してる、渚』って」
言えるか~っ、という顔を蓮はしている。
「わかった。
じゃあ、お前の方からキスしてみろ」
「……自決してもいいですか?」
「追い詰められるな……。
何事もやってみなきゃわからんだろうが」
「偉く前向きな発言に聞こえるけど、違いますよっ?」
堪え切れなくなったらしい、葉子の笑い声が扉越しにもはっきりと聞こえてきた。