テラーノベル
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店内にはゆったりとしたBGMが流れていた。
それを耳にした途端、ふっと気が緩む。塚本と一緒だった間は自覚していなかっただけで、実は少し緊張していたようだ。
店に入ってすぐの右手はカウンターになっている。いつもは誰かしらスタッフがいるのだが、今そこには誰もいなかった。
私は店の様子をうかがった。
客の姿はない。閉店時間が近いからだろう。奥からは、片づけでもしているような、何かをがたがたと動かすような音が聞こえてきた。
テイクアウトでもして帰ろうと考えていたが、この時間に注文するのは迷惑になりそうだと思い直す。せめて片想いの彼に会って、挨拶の一つでもして帰りたいのだけれど、と思っているところに、一人の男性がやや焦った様子で奥から姿を現した。
「いらっしゃいませ。お待たせして大変失礼いたしました。……あれ?」
彼は私を見た途端目を丸くした。同時にその口調が親しげなものに変わる。
「美祈ちゃんじゃないか。いらっしゃい」
私は微笑みながら彼を見上げる。
「こんばんは。閉店間際に来ちゃってごめんね」
「大丈夫だよ。でもどうしたの?こんな時間にここに来るのは、珍しいんじゃない?」
「駅前で飲んでたの。ちょうど帰り道だから、征也君の顔を見に寄ってみたんだ」
「そうだったんだ。わざわざありがとね」
彼は穏やかに笑い、座るよう私を促す。
少し迷った末、私はカウンターのスツールに腰かけた。
彼はカウンターの中に入り、手を洗いながら私に訊ねる。
「何か飲む?いつものカフェオレ?」
「え?いいの?じゃあ、それをホット、砂糖なしでお願いしてもいい?できればテイクアウトしたいんだけど、いいかな?」
「全然構わないよ。こっちとしてはその方がありがたい。ちょっと待ってて」
「うん。お願いします」
彼は兄の高校時代からの友人で、佐伯征也という。本来は食品総合会社の社員なのだが、その直営店として開店したこの店で、数か月ほど前から店長として働いている。しかし残り半年もしないうちに、私たちの地元にある本社に戻ることになっているらしい。
以前から兄を含めた三人で地元で会ってはいたが、こんな風に会いたい時に会えるのは彼がこの街で働いている間のことだけだ。その後も、今のようにちょくちょく会えたら嬉しいのにと思いながら、私は征也を見つめていた。
私の視線に気がついて彼が顔を上げる。
「どうかした?」
私は頬杖をついて、彼に笑いかける。
「征也君は、いつ見てもイケメンだな、と思ってね」
「やめてくれよ。三十半ばのおじさんをからかわないでくれる?だいたいね、イケメンっていうのは悠生みたいなヤツのことを言うんだよ」
悠生というのは私の兄だ。征也の言葉に「確かに」と思う。身びいきを無しにしても、兄もイケメンの部類に入る容姿をしている。しかし、私にとっては征也の方が絶対的にイケメンだ。私は身を乗り出して真顔で言う。
「からかっていないわ。だってほんとのことだもの。それに征也君は、全然おじさんなんかじゃないよ。私と六才しか違わないし」
征也は自分の手元に目を落としながらくすくすと笑う。
「そんなお世辞を言ってくれるのは、美祈ちゃんしかいないよ」
「お世辞じゃないよ。ほんとのことだってば」
「はいはい。ありがとね」
今日の征也にも、私の言葉を本気にした様子はない。彼は微笑みを浮かべながら、温めていたミルクを火からおろした。それとコーヒーを合わせてテイクアウト用のカップに注ぎ入れ、蓋をかぶせる。
「はい、できた。一応猫舌さん用の熱さにしたつもり。それと今日は俺のおごりだから」
「え、そんなのだめよ。ちゃんと払う」
「気にしないで。実はさ、この間悠生におごってもらったんだよ。そのお返しの一部みたいなものだから」
征也はもっともらしくそんな理由を口にした。
その真偽については後々兄に確かめることにして、ひとまずは彼に甘えることにする。
「……じゃあ。今日はご馳走になります。ありがとう、征也君」
「どういたしまして。またぜひご利用頂ければ幸いです」
征也はわざとらしく堅苦しい言い回しをして、にこりと笑った。それからふと思い出したように私に訊ねる。
「で、今日は何の飲み会だって?」
「仕事帰りに同僚とね」
「同僚って女の子?」
「そうよ。同期の仲のいい子。どうして?」
征也に訊き返しながら、私はどきどきしていた。一緒に行ったのが誰か、ヤキモチでも焼いてくれたのだろうかと、淡い期待が胸の奥で顔を出す。
征也は真面目な顔をして言う。
「もしも一緒に行ったのが男だったら、一応把握しておこうかと思ってさ」
「何、それ。どういう心配?」
そわつく気持ちを抑えてくすりと笑い、私は彼の次の言葉を待った。
「だって、変な男にひっかかったりしたら大変だろう?」
「変な男……」
彼の口から期待していた台詞を聞けなかったことにがっかりしたが、表には出さない。そして「変な男」という単語を聞いた途端、私の頭の中に浮かんだのは、ここに来るまでずっと私についてきた塚本の顔だった。しかし、征也に余計な心配はかけたくない。また、彼経由で兄、ひいては、もともと私の一人暮らしに反対だった両親にまで話が伝わったら面倒だ。だから私はそのことには触れないまま明るく笑い飛ばす。
「私、もう二十九才の大人なのよ。人を見る目はそれなりにあるつもりだから、そんな心配いらないわ」
「いやいや、年齢だとか大人だとか、そんなのは関係ないよ。いくつになっても、美祈ちゃんは俺にとって大事な妹みたいなものなんだ。その妹を心配するのは当然でしょ」
征也が私を友人の妹、あるいは妹分としてしか見ていないことは、なんとなく分かってはいた。しかし改めてはっきりと「大事な妹みたい」だと言われると、哀しい気分になってくる。しかしその気持ちを隠す。
「ありがとう。でも本当に大丈夫よ。こう見えて結構ガードが固いのよ。むしろ、そのガードのせいでなかなか彼氏ができないんじゃないか、なんて友達から言われたりしてるんだから」
ガードが固いのは、目の前にいるあなたが理由なのよと、胸の中でこっそりと思う。
彼と出会った時、私は中学生だった。夏休みに入ったばかりの日、兄が友人である彼を家に連れて来た。名前だけは聞いていたが顔を合わせたのはその時が初めてで、そこからずっと、私は彼を想い続けている。
彼と親しくなってからの私は、直接的な表現を避けながらも、好きだという気持ちを事あるごとに彼にアピールした。彼はそれを単なる自分への好意としか思っていなかったようで、いつも軽く流されて終わっていた。悲しいことに、それは今も変わらない。
彼と恋人になりたいという願望は、常に私の中にある。一方で、心地よい今のこの関係も簡単には捨てがたく、もう少しもう少しと、告白するタイミングを長年引き延ばし続けていた。
しかし、今年二十九才の誕生日を迎え、来年はついに三十だと思った時、今が人生の一つの節目のように感じられ、突如として焦燥感が生まれた。いつまでもこのままではいけないと、十七年に渡る片想いにいよいよ決着をつけるべきだと思うようになった。期間限定ではあるが征也が近くに来たことも、その思いに火をつける一つのきっかけになったかもしれない。
決着をつけた先に思い描くのはもちろん、征也との甘い恋人生活、ひいては幸せな結婚生活に他ならない。
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