テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
388
128
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
征也が淹れてくれたカフェオレを大事に飲んでいると、奥の方から賑やかな声が聞こえてきた。
「掃除、終わりました!……あれ?遠野さんじゃないですか!こんばんは」
この店のスタッフ、田川史和だった。彼もまた征也と同様、もともと本社の社員だ。私より二才年上の彼とはこの店に来るようになってから親しくなったが、話しているうちに、実は学部違いの大学の先輩であることを知る。そのため、後輩に当たる私に対して丁寧語は不要と告げたのだが、真面目な性格らしい彼は未だに丁寧な口調を崩さない。
ちなみに彼らの他にも正社員、アルバイトなどを含めた数人のスタッフがいる。今日のこの時間帯は征也と田川の二人だけだったようだ。
私は田川に頭を下げる。
「すみません。閉店ぎりぎりに来てしまって」
「いえいえ。大丈夫ですよ」
「田川君、掃除ありがとう。あと、ごめん。外の看板を片づけてもらっていいかな?」
「了解です」
店の外へ出て行った田川は看板を引き上げてくると、それを店の隅っこに置いた。その後ドアの内側にかけてあるプレートをひっくり返し、「CLOSE」の面を外に向けた。
「あとは、シンク周りの掃除ですね。俺、やっておきますよ」
「いいよ、俺がやるよ。フロアの掃除、任せちゃったから」
「いいですって。佐伯さんは何でも自分でやりすぎなんだから、たまには俺に任せて下さい。そんで、遠野さんを家まで送ってあげたらどうですか?」
「え?いいの?」
「はい、問題ありません。後はレジを締めるくらいですし」
「そう?だったら頼もうかな」
「どうぞどうぞ」
征也はエプロンを外しながら私に笑顔を向ける。
「本当は少し待っててもらって、って思ってたんだけど、田川君のお許しが出たことだし、送るよ」
「そんなわけにはいかないわ」
私はそそくさとスツールから降りた。
「一人で帰れるから大丈夫よ。田川さん、お気遣いありがとうございます」
頭を下げてドアに向かおうとした私を、征也が引き留める。
「美祈ちゃん、ちょっと待って。もう遅い時間だから送るって」
「遅いって、まだ十時前よ」
「この辺は飲み屋街が近いし、万が一何かあったら大変だから」
私は苦笑する。
「征也君、心配し過ぎ。本当に大丈夫よ」
田川がカウンターの中から私たちのやり取りに口を挟む。
「遠野さん、ここは素直に送ってもらった方がいいですよ。この街は都会じゃないですけど、女性の夜の一人歩きはやっぱり危ないですから。酔っぱらいも歩いてるだろうし」
「ほら。田川君もあぁ言ってくれていることだし、ね?」
「だけど、仕事、まだ残ってるんでしょ?」
私は征也と田川の顔を交互に見た。
田川がにっと笑う。
「大丈夫、問題ありませんよ。俺もたまには店長代理らしい仕事をしないといけないので」
「それじゃあ、後は任せた。美祈ちゃんを送ってくるよ」
「だけど……」
なかなか頷かない私を強制的に送り出すかのように、田川は手を振る。
「遠野さん、また来てくださいね。佐伯さん、行ってらっしゃい」
「行ってきます。田川君、終わったら帰っていいからね」
「了解です」
「よし、美祈ちゃん、行くよ」
征也はドアを開けて、私を待っている。
結局、私は困惑の残る顔で田川に挨拶をして、征也と一緒に店を後にした。
征也は私と並んで歩きながら、店の裏手に足を向ける。そちらに駐車場があるようだ。
彼の横顔に私は念を押す。
「ねぇ、本当に送ってもらっていいの?」
「もちろんだよ。そんなに申し訳ない顔、しなくていいから」
「う、うん……」
彼は街灯の灯りしかない一角に大股歩きで近づいて行く。そこに止まっている黒っぽい車の傍で立ち止まり、助手席のドアを開けて私を手招きする。
「乗って」
「お邪魔します」
私はおずおずと車に乗り込んだ。座席に座り、シートベルトを掛ける。何度か彼の車に乗ってはいるが、その時はいつも兄が一緒で、私が乗るのは後部座席だった。助手席に乗るのは初めてで、緊張する。
運転席に乗った彼はエンジンをかけ、ハンドルを握る。
「じゃ、行くよ」
「お願いします」
面倒をかけて申し訳ないと思いつつも嬉しかった。油断すると顔がにやけてしまいそうになり、私は眉間にぐっと力を入れて顔を引き締めた。
「本当にありがとう。わざわざごめんね」
征也は前を向いたまま柔らかい口調で応える。
「気にしなくていいよ。と、いうかさ。まさかとは思うけど、今までも飲み会の後は歩いて帰ったりしてたんじゃないよね?」
「え、えぇと、この辺りで飲む時はそうだったかな。だって、タクシーを拾うよりも早いような気がして……」
「え、そうなのか。確かに歩ける距離だろうけど、それでもやっぱり、夜の遅い時間に一人で歩いて帰るのは感心しないな。今度からはちゃんとタクシーを使った方がいい」
「また飲みに行くようなことがあったら、その時はそうします」
私は神妙に答えた。しかし、彼に心配されていることが嬉しくて口元が緩んでくる。
「もうすぐ着くよ」
征也の声にはっとした。左手にマンションが見えてきた。
スピードを徐々に落として、彼はエントランス近くに車を止めた。
あっという間の二人きりの時間だった。短かかったそのひとときを惜しみながら、私はあえてゆっくりとシートベルトを外す。
「送ってくれて、本当にありがとう」
「どういたしまして。また顔出してね」
「うん。もちろん」
私は力強く頷いた。言われるまでもなく行くつもりだ。本当は時にはゆっくりと二人だけで食事に行ったりしたいと思う。けれど彼はいつも忙しそうで、誘いにくい。だから私はこの時も、いつものようにありきたりな挨拶を口にする。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
征也の笑顔はいつもと変わらない。もう少しだけ一緒にいたかったと名残惜しく思いながらその笑顔をもう一度目に収め、私はのろのろと車から降りた。
彼は私に手を振ってから、静かに車を発進させた。
遠ざかって行く彼の車を見送りながら、早く告白しようと、私は改めて決意していた。