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夜は、妙に静かだった。
壁一枚隔てた隣の部屋からは、ほんのかすかに聞こえる咳。
聞き逃すほどに微かなはずなのに、耳に焼き付いたように離れない。
リビングの照明を落としたまま、すちはじっと目を閉じていた。
(やっぱり……何か隠してる)
最近のみことは、笑ってはいるけれど、どこか必死だった。
一緒に過ごす時間が長い分、わかってしまう。
言葉の端々に滲む焦り。
笑顔の奥に隠された、痛み。
「……咳、してたよな」
ぽつりと漏れた言葉は、答えのない部屋の中に吸い込まれていく。
すちは、洗面所で見た花びらのことを思い出す。
薄紅の、小さな花弁。
吐息に紛れて落ちたように濡れていた。
最初は冗談かと思った。
――「花吐き病」
まるでファンタジーみたいな病。
報われない恋を抱える者が、胸の奥から花を咲かせて、やがて散ってゆく。
現実にあるはずがない、と笑い飛ばせなかったのは、みことの目を見たときだった。
あのとき、「隠してないよ」って言ったその目は、
嘘がつけない子が、必死に、嘘を守ろうとしてる目だった。
(まさか……俺のこと、そんなふうに……)
喉の奥が、焼けるように熱くなる。
思い返せば、君はずっと――
些細な優しさにも嬉しそうに笑って、
ふいに触れるたびにびくっとして、
時折、胸に手を当てて痛そうにしていた。
今なら、全部つながる。
でも――
(なんで、俺に言ってくれないの)
胸の奥が、もどかしさで締めつけられる。
頼ってくれたらいいのに。
俺なら、どうにかしてあげられる気がするのに。
けれど――
___
「……もう、一緒にはいられないかも」
次の日の朝。
みことがぽつりと言った。
「え……?」
すちはコーヒーを飲む手を止めた。
笑っているけれど、その目は少し赤い。
夜、泣いていたのかもしれない。
「突然だけど、引っ越そうと思ってるんだ。ちょっと、実家のほうに……」
「なんで?」
「……うーん、なんか、自分のこと見つめ直したくなって。すちには、迷惑かけたくないし」
言葉が軽やかすぎて、逆に苦しい。
喉の奥で、言い訳みたいな理由が崩れていく。
(違う。絶対、違う。これは、逃げようとしてる)
「みこちゃん……」
「なに?」
その声が、優しすぎて、怖い。
このまま離れてしまったら、二度と届かない気がする。
「……何が、あった?」
沈黙。
しばらくして、みことはゆっくりと首を振った。
「なにもないよ。すちは、優しすぎるから」
そう言って、笑った。
その唇から、ひとひらの花びらが落ちたことに――みこと自身、気づかなかった。
それを、すちは見てしまった。