テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
佐藤健一(さとう・けんいち)は、ごく普通の会社員だった。
強いて言えば、「選択」に自信がないこと以外は。
ランチを選べない。
服を選べない。
人生の決断も、だいたい流される。
ある夜、帰宅すると、玄関の棚の上に見覚えのない小さな箱が置いてあった。
白い箱。
ラベルには、こう書いてある。
**『人生 返品受付センター』**
中には、赤いボタンがひとつ。
そして説明書。
> ・押すと、直近の「選択」をなかったことにできます。
・一度の選択につき一回のみ有効。
・返品理由は問いません。
健一は笑った。
「なにこれ、ドッキリ?」
だが、ちょうどその日、彼は大きなミスをしていた。
重要なプレゼンで、決定的な数字を間違えたのだ。
評価は下がるだろう。昇進も遠のく。
健一は、半信半疑でボタンを押した。
カチッ。
――瞬間、視界が暗転。
次に目を開けると、朝だった。
同じ日付。
同じスーツ。
同じプレゼン前。
冷や汗が流れる。
「……戻ってる?」
今度は完璧にやり遂げた。
上司も満足げだ。
その夜、玄関を見ると、箱はまだあった。
説明書には一文が追加されている。
> ・本日の返品回数:1
健一は震えた。
本物だ。
それから彼は、些細なことでボタンを使うようになった。
告白して振られた → 返品。
会議で噛んだ → 返品。
株を買って損した → 返品。
人生はどんどん「最適化」された。
彼女ができ、昇進し、投資も成功。
失敗のない、完璧な毎日。
だが、ある日、彼女に言われた。
「ねえ、健一ってさ」
「なんか、たまに“初対面みたい”な顔するよね」
ドキッとした。
「さっきもさ、私がコーヒーこぼした時、すごく驚いた顔してた」
それは当然だ。
その前の世界では、彼女は紅茶をこぼしていたのだから。
健一は笑ってごまかした。
やがて彼は気づく。
ボタンを押すたびに、
**何かが少しずつ減っている。**
映画を観ても、泣けない。
成功しても、嬉しくない。
キスしても、胸が高鳴らない。
全部、「一度体験したこと」だからだ。
最初の感動は、返品の向こう側に置いてきた。
ある晩、彼女が事故に遭ったという連絡が入る。
病院へ駆けつける。
意識不明。
医師が首を横に振る。
健一は震える手で、ボタンを押した。
暗転。
朝。
スマホを見る。
着信はまだない。
――助かる。
だがその瞬間、スマホに通知が来る。
**『返品回数が上限に達しました』**
箱を開けると、説明書の最後に新しい文が追加されている。
> ・最終返品は「最も大切な選択」が対象となります。
健一の記憶が、ぐらりと揺れた。
彼女との出会い。
告白。
初デート。
全部、曖昧になる。
スマホが鳴る。
知らない番号。
出ると、女性の声。
「佐藤さんのお知り合いですか? こちら病院ですが――」
健一は言う。
「……誰ですか?」
電話の向こうが、沈黙する。
帰宅すると、箱は消えていた。
代わりに、鏡の前にメモが一枚。
> ・返品処理が完了しました。
・あなたは“失敗のない人生”を選択しました。
鏡を見る。
そこには、完璧に整ったスーツ姿の自分。
昇進し、成功し、順風満帆。
だが、部屋には写真が一枚もない。
連絡先も、履歴も、空白だらけ。
スマホの待ち受けは初期設定。
健一はふと気づく。
「……俺、何を失敗したんだっけ?」
思い出せない。
でも、胸の奥にぽっかり穴が空いている。
完璧なのに、何もない。
玄関の外から、宅配便の声がする。
「佐藤さーん! お届け物です!」
ドアを開けると、差出人不明の小さな箱。
白い箱。
ラベルにはこう書いてある。
**『感情 返品受付センター』**
健一は、少しだけ迷ったあと――
今度は、ためらわずにボタンを押した。
暗転。
そして、世界は
**何も感じないまま、続いていく。**