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※創作です。
朝、目が覚めたとき、天井が少しだけ近かった。
気のせいだと思った。六畳一間の安アパート、染みだらけの天井。毎日見ているはずなのに、距離感なんて曖昧になる。寝ぼけているのだと自分に言い聞かせ、布団から起き上がった。
そのとき、ぽたり、と額に何かが落ちた。
水だった。
見上げると、天井の中央に黒い点がある。昨日は、あんなものなかった。黒い点はじわりと広がり、また、ぽたり。
雨漏り? いや、今日は晴れのはずだ。
カーテンを開ける。外は、異様なほど青い空だった。雲ひとつない。
ぽたり。
畳に小さな染みができる。透明なはずの水は、なぜかほんの少しだけ灰色がかっていた。
管理会社に電話をかけようとスマホを手に取ると、通知が一件。
『本日より水位が上昇します。』
差出人不明。
意味がわからない。削除しようとしたが、指が震えてうまく押せない。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
間隔が短くなっている。
バケツを持ってきて下に置く。水は正確にバケツの中央へ落ち始めた。まるで狙っているかのように。
不意に、隣の部屋から叫び声がした。
「なにこれ、なにこれ、やめて!」
どたどたと足音。何か重いものを引きずる音。
ドアを開けて廊下に出ると、廊下の天井にも黒い点がいくつも浮かんでいた。住人たちがそれぞれ部屋から顔を出し、見上げている。
ぽたり。
ぽたり。
やがて、それは「滴る」から「垂れる」に変わった。
水は糸のようになり、空間を縫う。
誰かが言った。
「止めろよ、誰か止めろよ!」
誰に言っているのかわからない。
突然、廊下の天井全体が、ぶよりと膨らんだ。
風船のように。
次の瞬間、破裂した。
轟音とともに、灰色の水が滝のように降り注ぐ。
冷たい。息ができない。目が痛い。
床が見えない。
水は一瞬で膝まで達し、次に腰、胸。
叫び声が泡になって消える。
階段へ向かおうとするが、水流がそれを許さない。逆らうたびに、どこからか押し返される。
まるで意思がある。
水は、天井からだけでなく、壁の内側からも滲み出していた。コンセントの穴、換気口、ドアの隙間。
すべての「穴」から。
逃げ場がない。
息が、限界だ。
最後に見えたのは、向かいの部屋の住人が天井へ吸い上げられていく姿だった。
水の中なのに、上へ。
重力が、反転している。
そして、闇。
目が覚めた。
布団の中だ。
天井は遠い。染みもない。
夢だったのか。
安堵で全身が震える。
そのとき、スマホが震えた。
『昨日の水位は正常に戻りました。本日も上昇します。』
喉が凍る。
昨日?
カーテンを開ける。
空は青い。
静かだ。
ぽたり。
額に落ちたそれは、今度ははっきりと黒かった。
見上げる。
天井一面に、無数の「目」のような黒い穴が開いていた。
そのすべてが、こちらを覗き込んでいる。
そして同時に、弾けた。
世界が、水の内側へと裏返る。
最後に理解した。
水位が上昇しているのは、部屋ではない。
わたしたちのいる「空気」のほうだ。
わたしたちはもう、とっくに沈んでいて。
息ができていると思い込まされていただけだった。
ぽたり。
それはもう、どこから落ちてきているのか、わからない。