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#アクション
妄ねるね
57
瀬名 紫陽花
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桜の花びらが雪のように舞い散る小倉国の片隅、高蔵城の小さな庭には、満開の桃の木が甘やかな香りを漂わせていた。
九つの春を迎えたばかりの倉木俊之助は、父・宗信と共に鍛錬に励む日々を送っていた。しかし、この日は何故か心が落ち着かなかった。腹の底に黒雲のような不安が渦巻き、見上げた空は確かに青く澄み渡っているのに、目の奥には薄暗い靄がかかっているような気がした。朝餉を終えて、父と共に練兵場に向かおうとした矢先、それは突然押し寄せてきた。
最初は断片だった。激しい轟音、熱風、焦げ付く臭い。次いで、崩れ落ちる家々、逃げ惑う人々の叫び声。そして――濁流だ。茶色く泡立つ水が、まるで生き物のように地を飲み込みながら迫ってくる光景が、瞼の裏に焼き付いた。
「俊之助?」
立ち止まって肩を震わせる息子に、宗信が訝しげな目を向けた。俊之助は唇を噛み締め、喉まで出かかった言葉を必死に飲み込んだ。こんなこと、誰が信じてくれるだろう。まだ陽が高く昇ったばかりだというのに、夜の悪夢を見たのだと言えば、笑われるに違いない。
だが、どうしても拭えぬ確信があった。これはただの幻ではない。これから現実になることだと、どこか冷静な自分が告げていた。
「……何でもありません。少し眩暈がしただけです」
嘘をつくのは苦手だった。父は聡明な男であり、息子の僅かな表情の変化も見逃さない。案の定、宗信は探るような眼差しを向けてきたが、やがて一つため息をつくと、「無理は禁物だ」と言って再び歩き出した。
俊之助は黙ってその後に続いた。胸の内の不吉な予感を押し殺しながら。
異変は午後になって起きた。突如、城全体が揺れるほどの地震が襲い、それに続いて凄まじい雷鳴が轟いたのだ。空は瞬く間に真っ黒な雲に覆われ、横殴りの豪雨が地面を叩き始めた。
皆が天井を見上げ、窓の外に走り寄ったその時、俊之助は固まった。記憶の中にある濁流が、今まさに目の前を通り過ぎていこうとしていることに気づいたのだ。
「父上!早く、早く避難を!山の方へ!」
普段大人しい息子が顔面蒼白になり、金切り声を上げて訴える姿に、宗信だけでなく周囲の侍たちも驚愕した。
「何を言うのだ、俊之助。今は嵐が収まるのを待つべきだ」
「違うんです!川が、川が決壊するんです!濁流が来ます!」
根拠のない話だと一笑に付されると思っていた。だが俊之助の尋常ならざる形相と、そのあまりにも具体的な内容に、宗信は僅かながら眉を動かした。彼は賢明であったが、迷信深い一面も持ち合わせていた。息子の直感が何か特別なものである可能性を考えないわけではなかった。
「……わかった。念のために、城門を開け、民草を高台へ誘導せよ」
宗信の指示が飛び、慌てて下男たちが動き出す中、俊之助は更なる恐慌に陥った。これで終わらないことを知っていたからだ。
「父上!それだけではありません!すぐに火が出ます!油蔵に気をつけてください!」
意味不明な警告に侍たちは戸惑いを隠せない。宗信さえも困惑していたが、俊之助の必死の形相に押され、近くの侍に急ぎ油蔵の様子を見てこさせた。
数刻後、俊之助の言葉通り、北西の城下町方面から大量の水煙が上がり、悲鳴と共に「川が溢れた!」との報告が届いた。さらに追い打ちをかけるように、城南の油蔵から猛烈な炎が噴き上がる有様が確認されたのだ。
この奇跡のような予言に、城中は騒然となった。口々に俊之助を讃える者、畏怖する者が現れ、中には「神童だ」「倉木家に天啓があったに違いない」と囁く声も聞こえてくるようになった。
しかし、俊之助本人にとってそれは喜ばしいことなどではなかった。自身の意思とは関係なく訪れる映像の奔流、そしてそれを止められない無力感に苛まれる日々。更に恐ろしかったのは、これらの能力が外部に知られることによって、どのような厄介ごとに巻き込まれるかわからなかったからだ。
心配そうに見守る父と母に対し、俊之助は努めて平静を装った。しかし、一度味わってしまったあのぞっとするような感覚。人の生死に関わる光景を見せつけられる絶望感は、なかなか消え去ってくれなかった。
それから程なくして、新たな異変が俊之助を襲った。またしても突発的に浮かんだ映像は、炎ではなく鋭い刃の閃きだった。血飛沫、悲鳴、そして何か巨大な力に抗えない無力感……。
その日から、俊之助はより一層寡黙になった。周囲の期待や好奇の眼差しが辛かった。もう何も見たくなかった。ただ静かに暮らせればそれでよかったのに。
そんなある晩のことである。
月明かりもない漆黒の夜、高蔵城は唐突な悲鳴と怒号に包まれた。熟睡していた俊之助が跳ね起きて障子を開けると、既に廊下は武装した兵士たちであふれ返っていた。だが、彼らは明らかに自軍の者たちではない。見たこともない紋所を染め抜いた旗指物、獰猛な顔つきの武者たちが次々と屋敷に踏み込んでいく光景を前に、俊之助は凍りついた。
つい最近垣間見た恐ろしい光景が脳裏をよぎった。そうだ、あれは今の状況だったのだ!
「父上!母上!」
叫びながら居間の方へ走ろうとした俊之助の腕を、逞しい手が鷲掴みにした。振り返ると、そこには精悍な顔つきをした若い武士が立っていた。冷たい瞳が俊之助を射抜いている。
「静かにしていろ。騒げば命はないぞ」
低く威嚇する声に全身が震え上がった。次の瞬間、襖の向こう側で甲高い女性の悲鳴があがり、続けて鈍い肉を断つ音が響いてきた。俊之助の頭の中で、世界が音もなく崩れ落ちていく。
「美江様が……!」
母の名前を呟く間もなく、母の首が落ちた。そのすぐ後に父の怒号と剣戟の音が聞こえ、しかし長くは続かなかった。ドサリという重い音と共に全てが静寂に包まれる。
「抵抗するな!俺は鏡山義道だ!貴様の一族は今日限りで終わりとする!」
廊下に響き渡る威圧的な声。その主こそが、後に俊之助の運命を決定づける男、鏡山義道だった。
俊之助の体からは完全に力が抜け、膝から崩れ落ちた。愛する両親を失った喪失感と、絶対的な恐怖で思考回路が麻痺している。近づいてくる足音が遠雷のように響いた。
遂に目前に現れたその男は、年の頃二十代半ばと思われる若さでありながら、野獣のような凶暴さを内に秘めていた。血に塗れた刀を腰に戻しながら、義道は無防備に座り込む少年を見下ろし、興味深そうに目を細めた。
「ほう、これが噂の神童か」
俊之助の目に涙は出なかった。ただ虚空を見つめるだけで精一杯だった。なぜ自分がここにいるのか、これからどうなるのか、全てが理解を超えていた。
「おいガキ、泣きもしないのか。度胸があるな。面白い」
義道はしゃがみこんで俊之助の顎を持ち上げた。その冷酷な瞳の奥に潜むものを見てしまい、俊之助は背筋に氷柱を突き立てられたような寒気を感じた。この男には人間らしい感情というものが欠落しているのではないか。
「お前の持つ不思議な力を存分に使ってもらうぞ。安心しろ、貴様の命は保証してやる。ただし……」
義道はニヤリと残忍な笑みを浮かべた。
「俺の命令に従わない場合は別だがな」
そう言うと、義道は合図をして待ち構えていた部下に俊之助を引き渡した。縄を打たれ、粗末な囚人用の馬に乗せられる俊之助の脳裏に、最後の光景が浮かんだ。それは、鏡山義道という名の怪物と共に過ごすことになる、永遠とも思える長い長い地獄の始まりだった。
後ろ髪引かれる思いで振り返ると、かつて自分の居場所だった高蔵城が、わずかに燃え上がる煙を上げていた。父母の亡骸と共に、平穏な過去もすべて灰燼に帰していく光景だった。
俊之助の新たな人生。否、奴隷としての運命が、こうして幕を開けたのである。
コメント
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第1話、一気に引き込まれました。九歳の俊之助が不吉な予知に苦しみながら、必死に両親を守ろうとする姿が切なくて……。それなのに、その力が仇となり、家族を目の前で失い、しかも敵に利用される未来を想像すると胸が締め付けられます。ラストの「奴隷としての運命」という一文に、この先の絶望感と、それでも抗ってほしいという期待が同時に湧きました。続きが気になります!