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王都ヴァルクレインは今、異様な緊張感に包まれていた。数日前に下された《廃国の予言》は、市井の人々の間にも噂として瞬く間に広まり、
「黒薔薇」という言葉が不吉の象徴として囁かれ始めている。
その中心――王宮では、さらに濃い影が渦巻いていた。
ルシアンは王宮へ戻ると、真っ直ぐに魔術塔へ向かった。
塔の上階には、王家直属の占術師や魔術師が詰めており、
例の予言がどこからもたらされたかを調べているところだった。
「……来たか、第二王子殿下」
階段を上り切ったところで声をかけてきたのは、
宮廷魔術師見習いの リディア・クレイン だった。
彼女はいつもの無表情のまま、紫水晶色の瞳でルシアンを見つめる。
「今日はずいぶん早いのね。セレナ様のことでしょう?」
「……ああ。君も気づいているんだろう、今回の予言の意味を」
「もちろん。“黒薔薇”なんて言葉、彼女以外に当てはまらないわ」
言い切る声に感情はないが、揺れる長い睫毛の奥で、知識欲の光がかすかに煌めいた。
「でも私は、彼女が王国を滅ぼすとは思わない。……ただ、もし呪いが暴走すれば、誰にも止められないでしょうね」
その言葉は淡々としているのに、胸の奥を刺すように冷たかった。
ルシアンは拳を握りしめる。
「だからこそ、守らないといけないんだ。彼女を」
「守れるの? 王子であるあなたが?」
リディアの声は鋭くはない。
ただ現実を指摘する者の、残酷な冷静さがあった。
「王家は今、予言の真意を探ろうとしている。でも――」
「“黒薔薇は王家の血を呑む” という追加文まで見つかったわ。心当たりは?」
ルシアンの呼吸が、一瞬だけ止まった。
追加文の発見――
それはまだごく一部の魔術師しか知らないはずだった。
「……誰がそれを?」
「言えないわ。内部は混乱しているもの。
でも一つだけ確かなことがある。
――あなたは、セレナ様を守ることで、王家に逆らうことになる」
風が塔の窓を鳴らした。
予言の影は、想像以上に深く王宮を侵食している。
その頃、ランドルフ公爵邸。
セレナは、書斎の扉の前で立ち尽くしていた。
中にいるのは、父アルノー。
普段は穏やかで寡黙な男だが、今日は珍しく兵を集めて騒がしい。
(……何が起こっているの?)
彼女はドアへ手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。
素手で触れれば、木材ですら生命力を吸い取って腐らせてしまう。
「……手袋を、もっと厚いものにした方がいいかもしれないわね」
皮肉のように呟いたその瞬間――
「セレナ様?」
後ろから声をかけられ、振り返ると家令の モートン が立っていた。
彼はセレナの呪いを恐れながらも、幼い頃から彼女の世話をしてきた古老だ。
「お父上は……?」
「殿下から緊急の召集がありまして。王宮で何かあったようで……」
王宮。
やはり、予言のことだ。
彼女の胸に、不安という名の黒い棘がゆっくりと刺さっていく。
「セレナ様、ご無理はなさらないように。
……どうか、心を乱されませぬよう」
モートンの言葉が終わるより早く――
セレナの足元の床板に、小さな黒い染みが広がった。
「……!」
彼女は慌てて魔力を抑え込む。
次の瞬間、床の染みは煙のように霧散し、跡形もなく消えた。
(ダメ……制御が、甘くなってる)
予言が、王宮の影が、ルシアンの表情が――
すべてが胸の奥に渦を巻き、黒薔薇の呪いを刺激していた。
その夜。
ルシアンは誰もいない廊下の奥で足を止めた。
暗がりの中に、冷たく光る瞳が浮かび上がる。
「……待っていたよ、ルシアン王子」
現れたのは、第一王子 アレクシス。
王国随一の剣士であり、王家の跡継ぎであり――
そして兄である男。
「黒薔薇の娘。あれをどうするつもりだ?」
「――守る」
真っ直ぐに答えた弟を、アレクシスは静かに笑った。
「では、お前はこういう意味の予言を知らないわけではあるまい。
《黒薔薇は王家を喰らう》」
ルシアンの背筋が凍る。
兄は続けた。
「王家を守るため、必要ならば“芽”のうちに摘まねばならない。
父上も議会も、そう判断するだろう」
それはつまり――
「……セレナを殺す、というのか」
「運命がそう告げるならな。
だが、お前の覚悟はどうだ?」
兄の瞳は氷のように冷たかった。
ルシアンは、喉が裂けるほどの痛みを飲み込んで答えた。
「――彼女は、俺が守る」
その声は震えていた。
だが確かに、抵抗の意思を帯びていた。
暗闇の中で、兄がわずかに眉を動かす。
「ならばいずれ、俺と剣を交えることになるぞ、ルシアン」
その夜、王宮の空気はひどく冷たく澄み、
月は血のように赤く滲んでいた。
王国の運命は、静かに分岐し始めていた。