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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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お鈴は、私の代わりにあの菓子を食べたのだ。
「お医者様を。早く」
私の声に、女中の一人が弾かれたように電話室へ走っていった。
お鈴の手は、ひどく冷たかった。
「捨ててきなさいって、言われたんです。でも、あんなきれいなお菓子、見たことなくて。一つだけ……」
「いいの。しゃべらないで」
「ごめんなさい、奥様。ごめんなさい」
お鈴は前掛けの隠しを探り、くしゃくしゃになった紙を出して私の手に押しつけた。
紅で店の名を刷った、あの掛け紙だった。
「きれいな紙だったから、取っておこうと思って……」
私はそれを、黙って袂にしまった。
廊下が、急に静まり返った。
女中たちが一斉に壁際へ下がる。
侯爵様だった。寝間着の上に黒い羽織を引っかけ、両手には黒い革の手袋をはめている。
この人は、和館に来るときも手袋を外さないのだ。
「御前、こんなむさくるしい所へ」
タキさんが慌てて腰を浮かせるのを、侯爵様は手で制した。
そのまま女中部屋に入り、お鈴の枕元に、黙って腰を下ろした。
侯爵様が使用人の部屋の畳に座るのを、たぶん誰も見たことがなかったのだろう。女中たちが息を呑むのがわかった。
侯爵様は何も言わない。お鈴の額に、手袋のまま、そっと濡れ手拭いを載せ直しただけだった。
お鈴が泣きやんで、ぽかんと侯爵様を見上げている。
間もなく、真柴さんが廊下を急ぎ足でやってきた。きちんと背広を着て、髪も乱れていない。
「宇佐美先生に、お電話でお願いいたしました。すぐにお車でお見えになるそうでございます」
真柴さんは敷居の外に膝をつき、深々と頭を下げた。
「御前、奥様。私の目の届かぬところで、このような不始末を。申し訳ございません」
「おまえのせいではない」
侯爵様が短く言った。真柴さんはもう一度頭を下げ、女中たちに湯を沸かすよう、てきぱきと指図を始めた。
この家の夜は、この人の声で回っている。
*
医者が着いたのは、それから三十分ほどあとだった。
「やあやあ、夜分に失礼。宇佐美でございます」
背の高い、洒落た男の人だった。英国仕立ての背広に、蝶ネクタイ。口髭を綺麗に整えている。本郷で医院を開いている、この家の主治医だという。
宇佐美先生は、お鈴の脈を取り、舌を見て、腹に手を当てた。
「ふむ。強い下し薬ですな。巴豆か、その類いのものでしょう」
「毒、ではないのですか」
思わず訊いた私に、宇佐美先生は大げさに眉を上げた。
「毒なら、こんなに元気に泣いていられませんよ。一晩下して、明日には粥が食べられます。命に別状はない」
お鈴の部屋の空気が、ふっと緩んだ。
宇佐美先生は枕元の侯爵様に気づいて、おや、という顔をした。
「これは侯爵。御自らお出ましとは。女中一人に、ずいぶんとお優しい」
「診立てが済んだなら、薬を」
侯爵様の返事は、氷のように短かった。宇佐美先生は肩をすくめ、鞄から薬包を取り出した。
「白湯で、四時間おきに。腹を温めて、今夜は何も食べさせないこと。明日の昼から重湯を」
宇佐美先生は薬を調合しながら、私をしげしげと眺めた。
「あなたが、今度の奥様ですか」
「栞と申します」
「奥様、そんなに怖いお顔をなさらないで。前の奥様方も、最初はそうでしたよ」
「最初は、とは」
「この家に慣れるまで、ということです。いや、これは失言でした」
先生は朗らかに笑った。笑い声は明るいのに、口髭の下の唇だけが笑っていなかった。
そこへ、衣擦れの音がした。
寝間着に羽織を重ねた大奥様が、白い顔で戸口に立っていた。
「何の騒ぎです」
「大奥様。お鈴が、お菓子に当たりまして」
タキさんが答えると、大奥様は眉をひそめた。
「菓子?」
「はい。大奥様から奥様へ届けられた、千草堂のお菓子を」
「わたくしは、菓子など届けさせておりません」
冷たい声が、女中部屋に落ちた。
「嫁が来た途端にこの騒ぎ。……真柴、明日、よく調べておきなさい」
大奥様はそれだけ言って、踵を返した。私の顔は、一度も見なかった。
*
宇佐美先生を玄関まで送ったのは、真柴さんだった。
私は廊下に出て、ようやく大きく息を吐いた。膝が今になって震え出す。
背後で、障子の閉まる音がした。
振り向くより早く、手首を掴まれた。
侯爵様だった。
黒い革の手袋が、私の手首を強く握っている。痛いほどだった。
「旦那様……」
「あの菓子を、なぜ食べなかった」
「旦那様が、何も食べるなと仰ったので」
侯爵様は、長いあいだ黙っていた。
廊下の薄暗い電灯の下で、その顔はやはり動かない。けれど、手袋越しに伝わってくる指が、細かく震えていた。
「……君が食べなくてよかった」
低い声だった。
それだけ言うと、侯爵様は私の手首を離した。離してから、自分の手を見下ろし、握ったり開いたりした。
「痛かったか」
「いいえ」
本当は少し痛かった。けれど、そう答えた。
「部屋へ戻れ。今夜は、扉の鍵を開けておく。何かあれば呼べ」
侯爵様は先に渡り廊下へ歩いていった。
私は掴まれていた手首を、もう片方の手で包んだ。手袋の革の冷たさと、その下の震えが、まだ残っている。
あの震えは、何だったのだろう。
私の身を案じてくれたのか。それとも、自分の知らないところで誰かが動いたことに、怯えたのか。
どちらにしても、侯爵様は知っているのだ。この家で、何かを口に入れることが危ないと。
*
洋館の部屋に戻っても、眠れるはずがなかった。
書き物机の電気スタンドを点け、袂から掛け紙を出す。お鈴が握りしめたせいで皺だらけだ。それを掌で伸ばし、ルーペを当てた。
「銀座 千草堂」。紅色の、なかなか立派な文字だ。
けれど、文字の縁がおかしい。
活版で刷った字なら、活字の縁にインクが押しやられて、輪郭がくっきりと濃くなる。紙の裏を指でなぞれば、押された跡がかすかに盛り上がっている。
この字には、それがない。裏はすべすべで、表の線の中には、細かな筋が斜めに走っていた。
ヤスリの目だ。
謄写版は、蝋を引いた薄紙をヤスリ板の上に置いて、鉄筆で字を書く。ヤスリの目に沿って蝋が削れ、そこからインクが染み出す。だから刷り上がった線の中に、ヤスリの目の跡が残る。
この斜めの筋には、見覚えがあった。
今日、台所の柱で見た献立表。あれと同じ角度で、同じ細かさで走っている。
紅のインクも、よく見れば菓子舗の朱とは違う。色を出すために、黒い刷りインクに何かを混ぜたような濁りがある。端のほうに、ローラーの継ぎ目の擦れが一本残っていた。
大奥様は、菓子など届けさせていないと言った。
それなら、あの美しい女中は誰に言われて、この包みを運んできたのか。そしてお鈴に、捨てておいでと言ったのは誰なのか。
「何を見ている」
戸口に、侯爵様が立っていた。鍵を開けておく、と言ったのは本当だったらしい。
私はルーペを置いて、皺くちゃの掛け紙を電気スタンドの光の中に差し出した。
「銀座の菓子舗が、謄写版の掛け紙を使うはずがありません。千草堂の掛け紙は、女学校の頃に何度も見ました。活版の、押しの強い刷りでした」
侯爵様が、一歩、部屋に入ってくる。
私は顔を上げた。
「この掛け紙は、偽物です。この屋敷の中で刷られたものです」
コメント
1件
第5話、めっちゃ良かったです…! お鈴さんが食べてしまったお菓子、毒じゃなくて良かったけど、偽物の掛け紙に気づく栞さんの洞察力がかっこよかったです。侯爵様の手袋の震え、あれ絶対心配してたんですよね…! 屋敷の中で刷られた偽物って、ますます謎が深まって続きが気になります。大奥様の冷たい態度も含めて、この屋敷の闇、もっと知りたいです🥀