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二月二十二日、日曜。寺の本堂は、暖房がなかった。
真尋は、結衣と並んで、いちばん後ろの列に座った。前に、親戚が二十人ほど。黒い服の背中が、並んでいる。真尋も黒を着て、結衣は赤いコートを脱いで、紺の服だった。手提げは置いてきた。足元に、紙袋が一つ。清算書、十九部。家計簿の九冊目が、いちばん上。
位牌が、一つ、正面にあった。『篠原ふみ』。恭平の祖母。三年前の二月に、九十二で亡くなった。真尋は、葬式のときに一度、この本堂に来ている。
読経が始まる前、恭平が来た。
一人ではなかった。黒いコートを腕にかけた瑠美が、半歩後ろを歩いている。黒いワンピース。おなかが、正月より丸い。左手の薬指に、指輪。
二人は、前の列の、敏子の隣に座った。瑠美は、敏子の右。恭平は、瑠美の右。
親戚の、何人かが、振り返った。小さい声が、二つ、三つ。真尋は、前を見ていた。結衣が、真尋の袖を持った。
博は、前から三列目の端に、一人で座っていた。真尋のほうは、見なかった。
いちばん前の列の、右の端に、日焼けした大きい背中があった。黒い服の肩が、ほかの人より広い。読経が始まる前に、その人が後ろを振り返って、「おお、敏子の嫁さんか。久しぶりだな」と、大きい声で言った。
村瀬だった。九年前と、同じ声だった。隣の席に、杖が一本、立ててある。
真尋は、頭を下げた。
読経は、四十分だった。
会食は、寺から歩いて五分の、料亭「松川」だった。
座敷は、長い座卓が二列、二十二人分。床の間に近い上座に、博と敏子。敏子の隣に、瑠美。その隣に、恭平。村瀬は、博の向かいの、上座の近く。
真尋と結衣の席は、入口にいちばん近い、末席だった。座卓の端。真尋は、紙袋を、自分の膝の横に置いた。
料理が三品、出たところで、敏子が立った。
「皆さん。今日は、おばあちゃんの三回忌に、集まっていただいて、ありがとうございます」
敏子は、座敷を見回した。
「それと。身内のことで、恥ずかしいんだけど、皆さんに、聞いてもらいたいことがあるの。真尋さんのことで」
座敷の目が、末席に向いた。真尋は、座っていた。
「恭平と真尋さんは、今、別居しています。十二月から。それで、離婚の話をしているの。でも、真尋さんが、応じない。応じないどころか、恭平のことを、あちこちで、悪く言っている」
敏子は、指を折った。正月と、同じ数え方だった。
「一つ。真尋さんは、九年間、家計の口座を一人で握ってきて、三年で、四百万円、使い込んでいます。何に使ったか、言わない。二つ。結衣の学資保険、百三十万円。あれも、真尋さんが解約して、使った。三つ。真尋さんは、精神的に、不安定です。夜中に子どもを連れ回したり、人の家に押しかけたり。学校も心配している。四つ」
敏子は、恭平を見た。恭平が、スマホを出して、隣の親戚に渡した。
「職場の男の人と、できている。これは、その写真。駅で、男から物を受け取っているところ。パートの奥さんが、職場の上司と。恭平のことを責める前に、自分のことを、どうにかしたほうがいいでしょう」
スマホが、座卓を回った。一人、二人、三人。親戚が、画面を見て、末席の真尋を見た。
手袋。真尋は、その写真を見ていない。見なくても、何が写っているかは分かる。改札の前。神谷の手。真尋の手。黒い手袋。
叔母の一人が、言った。恭平の父の妹で、真尋は結婚式と葬式で会っている。
「真尋さん。本当なの」
真尋は、答えなかった。
結衣が、座卓の下で、真尋の手を握っていた。真尋は、握り返した。
瑠美が、敏子を見上げて、小さく、うなずいていた。
敏子は、続けた。
「それから、瑠美さんのこと。恭平の、会社の人です。おなかに、恭平の子がいます。男の子だそうです。恭平は、真尋さんと別れて、瑠美さんと、ちゃんとした家庭を作る。あの家は、恭平が建て直して、恭平と瑠美さんと子どものものにする。結衣は、うちで、私が育てます。真尋さんは、四百万円を返して、出ていってもらう。それが、筋でしょう」
座敷が、ざわめいた。向きは、ばらばらだった。瑠美を見る人、恭平を見る人、真尋を見る人。
「四百万円よ。四百万円」
敏子は、もう一度言った。
真尋は、そこで、初めて口を開いた。
「四百万円ではなく、四百十二万円です」
座敷が、静まった。
「私が、計算しました。三年分、一円まで」
敏子が、真尋を見た。
「何を」
真尋は、それ以上、言わなかった。数字を一つ、正しただけだった。
恭平が、立った。
座卓の列を、末席まで歩いてきた。手に、紙を一枚、持っている。
真尋の前に、その紙を置いた。
『離婚届』
恭平の欄は、全部、埋まっていた。印も、押してある。真尋の欄は、空いている。
「ここで、サインしろ」
恭平は、立ったまま、真尋を見下ろした。
「親権は、俺。養育費は、払わない。家は、俺のもの。お前は、三月までに出る。それで、四百万は、チャラにしてやる。皆の前で、決めろ。これ以上、恥をかかせるな」
上座で、瑠美が、敏子に小声で言った。
「よかった」
敏子は、答えなかった。
真尋は、離婚届を見た。それから、膝の横の紙袋に、手を入れた。
緑の表紙の、家計簿。九冊目。表紙が、雨で、波打っている。
真尋は、それを、離婚届の横に、置いた。
コメント
1件
えっと…まず、三回忌の席で敏子さんが突然あれだけのことを皆の前で話し始めたの、衝撃だったよ😭 しかも恭平が離婚届持ってきて「ここでサインしろ」って…読んでて心臓ギュッてなった…。 でも真尋さんが「四百万円ではなく、四百十二万円です」って一言だけ訂正したところ、めっちゃゾクッとしたよね!あの冷静な反撃、かっこよすぎる…!最後に家計簿を差し出すシーンで、これから何か動き出す予感がして続きが気になって仕方ないです🌸 推す!!
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