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第三十三話:慈悲の光と、癒しの抱擁
朧月館の玄関に響いた鈴の音は、かつての傲慢な支配者の再来を告げるものではなかった。それは、行き場を失い、自らの愛の重さに潰された迷子の、か細い悲鳴のようだった。
「ちょ、旦那様! マジでこのエネルギー波、異常値叩き出してるんだけど!? 宿の防壁(シェル)が、外側からじゃなくて内側からハッキングされてるみたいにガタガタだし!」
腰の工具袋から重厚なスパナを抜き出し、カノンが鋭い視線を扉に向ける。その横ではお凛が喉を鳴らして身構え、小雪は無言で僕の背後に冷気の壁を作ろうとしていた。だが、僕は静かに彼女たちの制止を片手で制した。
「……待って。殺気じゃないんだ。ひどく……ひどく、悲しい音がする」
僕は一歩、また一歩と玄関へ歩み寄り、その重い木製の扉をゆっくりと開いた。
瞬間、冬の夜風と共に流れ込んできたのは、血と、焦げた霊力と、そして絶望の匂いだった。
「……あ、……あぁ……。旦那……様……っ、助け……て……っ、旦那様……!!」
空間の裂け目から、鏡の破片を撒き散らすようにして転がり落ちてきたのは、鏡面海域の女王・瑞稀だった。
本来、あるじの許可なく領地を離れることは、魂を縛る『烙印』が許さない。しかし彼女は、自らの五臓六腑を内側から「猛毒」で焼き、その破壊的なエネルギーを無理やり転移の燃料へと変えるという、命を捨てた禁忌を強行したのだ。
かつて僕を嘲笑った妖艶な肌は、自身の毒の熱で見る影もなく焼け爛れ、下腹部の刻印が、断末魔の鼓動のように激しく、苦しげに明滅している。
「瑞稀……! どうして、こんな無茶を……!」
僕が駆け寄ろうとしたその時、彼女の影がどろりと溶け、虚無の門から狂骨が姿を現した。感情を排した人形のようだった彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れ、床を濡らしている。あるじの命に背いて転移した罰として、黄金の雷に全身を焼かれた彼女の四肢は、痛々しく切り裂かれ、その傷口からは魂の欠片が光の粒子となって漏れ出していた。
「……主様……。……熱いの……。……独り、はいや……主様のいない永遠なんて……いらない……」
二人の女王は、かつて僕を蹂躙し、支配しようとした時の傲慢さなど微塵も見せず、泥と血に塗れながら僕の足元に崩れ落ちた。その姿は、あまりにも無惨で、あまりにも脆かった。
「マジで……?これ、完全に自滅覚悟のジャンプじゃん。旦那様、どうすんの!? ぶっちゃけ、このまま放置したら二人とも霊基が飛んで消滅確定だし!」
カノンが叫ぶ中、僕は迷わず泥の中に膝をつき、二人のボロボロになった体を力強く引き寄せた。
「あるじよ、それは……!」
玉藻が思わず制止の声を上げる。彼女たちの体には、まだ暴走した魔力が渦巻いており、触れればあるじ様自身が傷つくことを恐れたのだ。だが、僕は首を振った。
「玉藻、お凛、一花……みんな、すぐに奥から清潔な布と温かいお湯を持ってきて。カノン、君は医務室のリカバリーシステムの立ち上げをお願い。……二人を、助けたいんだ」
僕の言葉に、広間に一瞬の沈黙が流れた。
彼女たちがこれまで僕に強いてきた苦痛、そして宿の仲間たちに与えた恐怖を考えれば、このまま消えゆくのを見届けることさえ、甘すぎる処置に思えるかもしれない。だが、僕の瞳に宿る意志は、揺らぐことはなかった。
「……承知したわ。あるじの慈悲こそが、この朧月館の新しい『理』なのだからのう」
玉藻が深く、気高く一礼し、すぐさま指示を飛ばし始めた。お凛は「……まったく、旦那様はお人好しすぎにゃ」と悪態をつきながらも、一番に奥へ走っていく。
僕は跪いたまま、震える二人の体を優しく抱き締めた。
額に戴く至高の金角が、冷徹な威圧ではなく、凍えた魂を溶かす春の陽だまりのような、柔らかな光を放ち始める。
「瑞稀、狂骨。……もういいんだ。よく頑張ったね。もう、痛くないよ」
僕は二人の体に、純粋で穏やかな黄金の霊力を流し込んだ。
それは彼女たちを縛り付けるための強制力ではなく、傷ついた細胞一つ一つを癒し、暴走する刻印の熱を優しく鎮めていく「祈り」のような光。
「あ、……あぁ……。旦那様の、光が……。……痛く、ない……あたたかい……」
「……主様、の……匂い……。……暗いの、消えた……」
瑞稀の爛れた肌が黄金の光に包まれて再生し、狂骨を切り裂いていた雷の傷跡が静かに消えていく。二人は僕の腕の中で、安堵のあまり子供のように声を上げて泣きじゃくり、やがて力尽きたように穏やかな眠りについた。
「旦那様、マジでお人好しすぎ! でも、そういうとこ、嫌いじゃないし。……さ、カノン様特製のリカバリーポッド、秒でセット完了したから! 早く運ぶの手伝って!」
カノンが少し照れくさそうに鼻をすすりながら、テキパキと医療機器を操作する。
小雪は無言で、眠る二人の熱を下げるように、ひんやりとした優しい風を送っていた。
夜明け前の静寂の中、朧月館には「支配」でも「隷属」でもない、あるじ様の無限の優しさがもたらす、穏やかな空気が満ちていた。かつて奪い合った者たちが、今は同じ屋根の下で、一人の王の慈悲に守られながら夜を越そうとしている。
僕は二人の寝顔を見届けながら、静かに誓った。
この力を、ただの支配のために使うのではない。この宿を、そして、歪んでしまった彼女たちの魂さえも救うための力にするのだと。