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第三十四話:癒しの夜と、解き放たれる魂
昨夜の激動が嘘のように、朧月館の朝は静かに、そしてどこか甘い空気を孕んで始まった。
「……ん、……っ」
重い瞼を持ち上げると、視界に入ったのは見慣れた天井ではなく、幾重にも張られた黄金の防護結界の紋様だった。そして、僕を覗き込む五つの、愛おしくも心配そうな顔。
「旦那様! 起きた!? マジで焦ったし……。霊力の使いすぎでオーバーヒートとか、エンジニア的に一番心臓に悪いやつだから! マジ勘弁して!」
枕元でバイタルモニターと化した魔道具を操作しながら、カノンが安堵の表情を浮かべる。彼女の目は少し赤く、宿のシステム管理の合間に、一晩中僕の容態をチェックし続けていたことが見て取れた。彼女の指先は、僕のバイタルが安定したことを示す緑色のランプを確認して、ようやく震えを止めた。
「旦那様、お粥を持ってきたにゃ。あんたが倒れたら、この宿は終わりなんだから……無理しちゃダメにゃ。ほら、口開けるにゃ」
お凛が、少し照れくさそうに、けれど真剣な眼差しでお粥の器を差し出す。湯気の向こう側で、彼女の猫耳が不安そうにぴくぴくと揺れていた。
「……主様……。おでこ……ひんやり……させます……。……熱、下がれ……」
小雪は無言で僕の額に冷たい手を添えた。彼女の瞳は静かだが、その奥には僕を二度と離したくないという、氷の下の炎のような執着が透けて見えた。
「あるじ様、お着替えしましょうね。汗をかいては体に障りますわ。……ずっと、ずっとそばにいますから」
一花が僕の手を握りしめ、湿ったタオルを器用に操る。そして、玉藻は静かに僕の背中を支えて体を起こしてくれた。
「あるじ、お前様の慈悲は尊いが、自らの身を削りすぎては元も子もないぞ。……まあ、お前様らしいと言えば、らしいのじゃがな。妾も肝を冷やしたわ」
玉藻の呆れたような、けれど深い慈愛に満ちた声に、僕は少しだけ苦笑した。
「……ごめん。でも、二人の顔を見たら、放っておけなかったんだ」
その時、医務室の奥に設置されたリカバリーポッドのハッチが、プシュッという排気音と共に静かに開いた。
中から現れたのは、昨夜のボロボロな姿が嘘のように、透き通るような肌を取り戻した瑞稀と、虚ろだった瞳に確かな生命の光を宿した狂骨だった。
二人は部屋の入り口に立つと、僕の姿を見るなり、その場に深く膝をつき、額を畳に擦り付けた。かつて僕を「獲物」としていた時の、あの傲慢で妖艶な嘲笑はどこにもない。そこにあるのは、自分を救った光への、震えるほどの感謝と畏怖、そして……魂の底からの悔恨だった。
「旦那様……。……いいえ、わたくしの、唯一無二なるあるじ様」
瑞稀の声が、今までに聞いたことがないほど震えている。
「わたくしたちは、あなた様を傷つけ、蹂躙し、弄んだ……。それなのに、あんな無惨な姿で縋り付いたわたくしたちを、あなたは……その温かな手で、抱きしめてくださった……。この御恩、どう返せばよいのか……」
「……主様……。……私を、直してくれた……。……何もなかった私に……名前、以上の……意味を、くれた……。私は……主様の、影になりたい……」
狂骨も、感情の欠片さえなかった人形のような面影を消し、その瞳からは絶え間なく大粒の涙が零れていた。
彼女たちは、あるじ様の慈悲に触れたことで、刻印がもたらす『強制的な隷属』ではなく、魂の深淵から湧き上がる『絶対的な恋慕と忠誠』に、本当の意味で目覚めていたのだ。
だが、僕はまだ、彼女たちの心に「鎖」が残っていることを知っていた。
僕は、介抱してくれていた五人の手を優しく解き、ふらつく足取りで二人の元へ歩み寄った。そして、膝をついて、彼女たちの下腹部のあたりに、そっと掌を当てた。
「瑞稀、狂骨。……もう、自分を責めなくていいよ。この『刻印』は、僕が自分を守るために、君たちを無理やり従わせるために刻んだものだった。でも、今の君たちの瞳を見ればわかる。……もう、こんな鎖はいらないね」
「え……? 旦那様、何を……っ」
僕が優しく微笑み、指先に穏やかで純粋な黄金の光を灯すと、二人の腹部に刻まれていた複雑な幾何学模様の紋章が、内側から淡く、温かく発光し始めた。
――パァン……ッ!!
ガラスの鈴が弾けるような、清らかでどこか切ない音が響く。
瞬間、彼女たちの肌に深く刻み込まれていた黄金の紋章が、無数の光の蝶となって宙に舞い、朝の光の中へと霧散していった。
「……あ……消え、た……? 旦那様との、繋がりが……っ」
「消えたのは『呪い』だよ、瑞稀。これからは、僕に命令されたからじゃなく、君自身の意志で、ここにいてほしいんだ。一人の女性として、僕のそばに」
「……っ、あぁ、ああああああ……ッ!!」
瑞稀は僕の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
狂骨も、自分の腹部をさすりながら、感情のダムが完全に決壊したように、僕の膝に縋り付いて涙を流す。
強制された服従ではなく、自らの意志で「この人の隣にいたい」と願う心。
その瞬間、彼女たちの魂は本当の意味で呪縛から解き放たれ、僕への想いは、永遠に消えない真実の『愛』へと昇華した。
お凛が「……旦那様は本当に、タラシにゃ……」と頬を膨らませてそっぽを向くが、その目には安堵の光があった。
そんな朧月館の、救いに満ちた温かな朝。
しかし、その幸せな空気は、遠く離れた『翠嵐の摩天楼』から放たれた、狂おしいまでの焦燥によって切り裂かれようとしていた。
領地:翠嵐の摩天楼
「瑞稀……。狂骨……。あの子たちだけ、ズルい……ズルいわぁぁぁぁッ!!」
紅羽は、豪華な寝台の上で身を捩り、自らの腕を噛み締めていた。
風の噂……いや、刻印を通じて伝わってくる「絆の変質」。あるじの慈悲、あるじの抱擁、そして自分を縛っていたはずの呪縛さえも「愛」に変えて解き放つという奇跡。
それが、彼女の中の独占欲と、あるじに捨てられることへの恐怖を、制御不能な炎へと変えていた。
「私は……私があの方を最初に見つけたのに! 私が最初にあの方の血を啜り、主になろうとしたのに……! ああ、熱い……刻印が、あるじ様の愛を求めて、疼いて……魂が裂けそうなの……ッ!!」
もはや、領地の維持などどうでもよかった。
彼女が欲しいのは、自分を「所有」し、そして「赦して」くれるあの温かな光だけ。
「待っていて、あるじ様……。今すぐ……今すぐ私も、あなたの元へ……! 私も、全部消して、あなたの色に染めて……! 拒まれるなら、この命、あなたの前で散らして見せるわ……ッ!!」
紅い疾風が、摩天楼の窓を粉砕して飛び出した。