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この時にお母さんとの蟠りが解消されていたら良かったのかな? でもそれだと尊さんは誕生していなかったもんね…
きっとお祖母さんは娘を憎く思ったわけじゃない。ただ悲しかっただけだ。
そしてさゆりさんとはピアノを通じてしか接してこなかったから、それ以外の接し方が分からなくなったんじゃないだろうか。
母も娘も音楽一筋だったから、ピアノ以外の話題を思いつかず、普通の母娘が交わす会話すらできなかったのだと思う。
二人の心で、幾つもの言葉が胸に浮かんでは消えていっただろう。
さゆりさんは母親を酷く裏切った事に負い目を感じ、そんな自分が何を語れるだろうと思っただろうし。
「大学を卒業したあと、さゆりは家を出た。母は『二度と戻ってくるな』と言った。……私はあの時何も言えなかった事を、今も後悔している」
裕真さんは目の奥に深い悲しみを宿らせる。
尊さんを見ると、彼は今にも泣いてしまいそうな悲しい表情を浮かべて、黙ってグラスを見ていた。
「姉さんは私には一人暮らし先の住所を教えてくれた。うちはピアノをする関係で料理なんて教えてもらわないし、私は姉さんの生活能力が心配だった。でも『動画もあるし、やろうと思えばなんとかなるのよ』って言ってた。……だから私はこっそりと、家にあった食材や生活用品を持ち出して、姉さんの家に運んでた」
そう言ってちえりさんは照れ笑いをする。
「大学生時代、姉さんはとても楽しそうだったわ。『私からピアノをとったら何も価値がなくなると思ったけれど、亘さんはそんな私にも価値があると教えてくれた』って。それに『音楽以外で学んだ事や、普通の女子学生として遊ぶ事が楽しくて仕方がない』って言っていた。……きっと自由を得たあの頃が一番輝いていたのよね」
彼女は姉を想い、目を細める。
「あれだけ派手な喧嘩をして出ていったから、母は学費を出さないものと思っていた。けど父が『四年間だけは学費を出す』といって、さゆりは優秀な成績を収めて大学を卒業した。卒業後、家には訪れなかったが『お陰様で無事に大学を卒業できました。ありがとうございます』という手紙が、成績表や卒業証書のコピーと共に送られてきた」
良かった。一応お祖父さんはさゆりさんの味方をしてくれたんだ。
「そのあと、さゆりは篠宮ホールディングスに入って秘書業を始めた。息子の彼女が会社に入って、篠宮さんがどう思ったのかは分からないが、しばらくの間はうまくいっていたようだ。……だが、亘さんのご両親は結婚を許さず、かねてから子供の結婚を約束していた國見家のお嬢さん……怜香さんとの結婚を押し進めた。さゆりについては、結婚は許さないが会社に入って働くだけなら問題ないと捉えていたんだろうか」
裕真さんは溜め息をつき、手酌したお酒を呷る。
私は話を聞きながらも、ちみちみと煮魚を食べていた。
「亘さんは結婚の話をうまく姉さんに言えず、ごまかしていたみたい。傷つけると思ったのでしょうね。……気がついたら亘さんと怜香さんの縁談は纏まり、姉さんが〝浮気相手〟になっていた。姉さんがそれに気づいたあとは……、可哀想で見ていられなかったわ」
ちえりさんは溜め息をつくと、立ちあがってカウンターの中に入り、自らビールサーバーでビールを注ぐ。
確かに、さゆりさんの身内としては、飲まないとやってられない話だろう。
尊さんを見ると、暗い目をして氷の溶けたウィスキーのグラスを見つめていた。
そんな彼を少しでも元気づけたくて、私は彼にちょいちょいと手招きをすると、煮魚を指で示してその指で頬をクリクリし、「ボーノ」を示す。
すると尊さんはクシャッと笑った。
食いしん坊担当でも構わない。尊さんが笑ってくれるなら、私はなんでもする。
「……亘さんが結婚したあと、姉さんは絶望して篠宮フーズを辞めたわ。それまで暮らしていた賃貸マンションから引っ越して、二度と彼に会わないようにした。……でもしばらくしたあと、亘さんは別の会社で働いていた姉さんを探し出して、土下座して謝った。そして『愛しているのは君だけ』と言って、姉さんを住まわせるマンションを借りて、そこに通うようになった」
ちえりさんは溜め息をついて空いているカウンター席に座り、ビールを飲みながら続ける。
「姉さんも、他の男性の愛し方が分からなかったのよね。一途に続けてきたピアノをやめ、自分には価値がないと思っていたところを、亘さんが愛してくれたから、なんとかやってこられた。……けどその亘さんにも裏切られ、普通に暮らせてはいるけれど覇気をなくし、精神的に死んだ状態にあった。『なんのために生きているんだろう』と思っていたでしょうね」
裕真さんは暗い表情で続ける。
「その事を聞いた母さんは、『ほら見なさい』と言った。でも無気力に呟いただけで、それ以上何もしようとしなかった。さゆりを連れ戻そうとしないし、父に言われても『家に上げるつもりはない』と言った。その気持ちだけは頑なで、私たちがどう言っても聞き入れる事はなかった」
ちえりさんはグラスの半分ぐらいになったビールを傾け、言った。