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「姉さんは亘さんとの逢瀬を断り切れず、彼とズルズルと関係を続けていった。……多分そうしなければ、いつ自死してもおかしくない状態だったのかもしれないわね。……そのうち、姉さんは尊くんを身ごもった。……とても幸せそうだったわ。確かに亘さんという〝他人の夫〟と関係してしまった後ろめたさは感じていたけれど、すべて失ってしまったと思っていた自分に守るべき存在ができて、やっと生きる理由を得られたのよ」
尊さんは痛みを堪えるような表情で、グラスの中身を呷った。
「尊くんを産んだ時、姉さんはクシャクシャに泣いて幸せそうに笑っていた。『私みたいなのでも、母親になれた』って。……ピアノの道から外れ、亘さんと結婚できなかった事が、姉さんの自己肯定感を大きく否定していた。でも、子を産んだ母は強いわね。それから姉さんはどんどん逞しくなっていった」
ちえりさんは遠くを見る目で微笑み、ビールを一口飲む。
「姉さんは亘さんと関係し続ける事が間違えていると、ちゃんと分かっていた。でも子供たちに父親がいると思わせたかったから、亘さんがマンションに来る事を容認したんじゃないかしら。そのうちあかりちゃんも生まれて、姉さんはまた以前のようにピアノを演奏するようになって本当に幸せそうだった。……怜香さん側の言い分は理解するわ。夫を寝取った憎い相手よね。……でも、姉さんにだって幸せになる権利はある。どんな人にも、生きて幸せになる権利はあるの」
そこまで言って、ちえりさんは涙を流した。
聞いている私もじんわりと涙を浮かべてしまい、マスカラが滲んでしまわないように、そっと指で涙を拭う。
「……だから、姉さんとあかりちゃんが事故に遭ったと聞いて、信じられなかった。……信じたくなかった。あれだけ精神的にズタズタになった姉さんが、やっとささやかな幸せを得られたというのに、どうして死なないといけないのかって」
ちえりさんは涙で歪んだ声で言い、小牧さんに差しだされたティッシュボックスを受け取る。
「でも尊くんが生きていると知って、希望は残されたと思ったわ。私たちは何があっても彼を支え、守っていくと誓った。……母は姉さんとあかりちゃんの遺影を見て、何を思ったんでしょうね。母は無表情でお通夜に参加したあと、告別式には出なかった。私と兄さんは告別式に参列したあと、最後に亘さんと連絡先を交換した。……正直、全力で理性を総動員させないと、亘さんを責めて罵ってしまいそうになったわ。でも小さい尊くんの前で、それだけはしてはいけないと自分に言い聞かせた」
速水家の他の人たちは、この話をすでに聞かされていたようで、皆視線を落として黙っていた。
やがて裕真さんがあとを続ける。
「……そのあと、尊の事は亘さんに任せた。篠宮家での立場を思うと、自分の家に引き取りたい気持ちでいっぱいだった。だが亘さんは尊の実の父親だ。彼が父親として一緒に暮らすと言えば、私たちにとれる手段はない」
やっぱり、速水家の方々は尊さんを大切に思ってくれていたんだ。
そう思い、彼が本当の意味で〝速水尊〟になれていたら、今頃どんな人生を歩んでいただろう……と想像した。
私とは会わなかっただろう。
宮本さんと別れる事もなかったと思うし、勤め先の自由を奪われる事もなかっただろう。
でも、尊さんは……。
私は向かいに座っている彼をチラリと見る。
尊さんは私を見て、優しく微笑みかけてきた。
(私の知っている尊さんなら、『今は幸せだからそれでいい』って言う)
彼に直接尋ねなくても、答えは分かっている。
けれどその言葉の裏に、沢山の苦しみと悲しみが潜んでいるのが分かっている。
そう思うと、ポコポコとあぶくのように強い感情が浮き上がってきた。
――彼を幸せにしたい。
私は静かに微笑んだ尊さんを見つめ、涙を流した。
「泣くなよ」
尊さんは私を見てクスッと笑い、手を伸ばして涙を拭う。
それから彼は、皆のほうを見て言った。
「随分〝可哀想な子〟になってるけど、いま俺は朱里と皆のお陰で幸せだから、そんな悲観的にならなくていいよ」
今までのズンと暗い空気を払うような明るい声を聞き、皆の表情が少し緩む。
「確かに母や妹の死で継母を憎んだし、父がどっちつかずの行動をとらなければ、こんな事にはならなかったと強く思った。でも俺は生まれてしまったし、生まれた以上は望まれた子として、母と妹の分も幸せに生きていきたい」
私は彼の前向きで綺麗な言葉を聞き、また涙を流す。
尊さんはまるで蓮華のようだ。
水面上で綺麗な花を咲かせている蓮華の茎や根は、泥に覆われている。
尊さんは自分に汚い感情があると認めた上で、なるべくそれを他者に見せず善く在ろうとしている。
この世は確かに苦しみに満ちているだろう。
けれどその中で泥にまみれて藻掻き、なお光を求めて進もうと決意した人にだけ見える、理想の世界があるのかもしれない。
見ようとしない人は一生気づけないけれど、気づいた尊さんには、ささやかな幸せとこれから目指すべき幸せな未来が見えているんだから。
吹っ切れた表情の尊さんを見て、洟をかんだちえりさんは微笑む。