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五階の青いペンだけが、いつも早く減る。
先月は十二本、その前は十一本。私は棚の奥から新しい箱を出して、残りの三本の横に十本を足した。朝の七時四十分。営業企画部のフロアには、まだ誰もいない。
胸ポケットから青いボールペンを抜いて、緑の表紙の台帳に書く。十月五日、五階、青0.5、十本補充。角が擦れたこの台帳は、入社したときに前任の人から引き継いだ。六年ぶん、私の字で埋まっている。二十八になった今も、字は入社のときと変わらない。
エレベーターで二階に戻ると、後輩の小森さんが給湯室から顔を出した。
「ひよりさん、おはようございます。五階、またですか」
「また。先月だけで十二本」
「誰がそんなに使うんでしょうね。営業企画って、字を書く仕事でしたっけ」
「書くより、持って帰ってるのかも」
小森さんが笑って、私も少しだけ笑った。小森さんは私の机を見て、声を落とした。
「あ、また専務に返されてますね」七時五十分。全フロアの補充が終わって、ここからは決裁書と帶務の一日になる。
机の上には、先週出した備品の決裁書が戻ってきていた。付箋が一枚。見なくても分かる。
『根拠を添えて』
専務の字だ。これで三度目。各階の消耗品の補充を一括で頼むだけの申請なのに、五万円を超えると専務の決裁になって、専務は毎回これを貼って返してくる。
人を切る専務。社内でそう呼ばれている人の付箋を、私は決裁書から剥がして、机の引き出しの奥の箱に入れた。捨てないのは癖で、何でも取っておくし、何でも書いておく。
出し直す。それだけだ。
午後二時。課長に連れられて、三階の会議室Cに行った。
月に一度のコスト委員会。全社の経費を見る会で、総務は毎回、記録係を一人出す。課長はいつも私を出す。私の字が読みやすいからだと思う。
長机の端に座って、ノートを開いた。
議長席に、桐谷専務がいた。黒いスーツに紺のネクタイ。私が入ってきたのを見たのか見ていないのか、顔は動かない。手元には青いボールペンが一本。
営業企画部の部長が、隣の席に目をやった。立ち上がったのは佐伯さんだった。
明るい色のスーツ。両手を広げてから、資料の表紙を掲げる。
「この企画、僕が三か月かけて作りました。オフィスコスト最適化プロジェクトです」
三か月前まで、私が付き合っていた人だ。
佐伯さんが画面を切り替える。各階の備品の消費量、月ごとの推移。会議室の稼働率、一括調達で削れる金額。年間二千万円。
数字が出るたび、私はノートに書いた。全部、知っている数字だった。
四月に私が作った。各階の棚の数字を三年ぶん集計して、会議室の予約の裏まで入れて、備品・会議室運用改善メモという名前で一枚にまとめた。六月に、形にしてやるよ、と言われて渡した。
「現場の声を丹念に拾い上げて、数字に落としました」
佐伯さんの声はよく通る。部長がうなずく。経理の課長がうなずく。
私は、手を挙げなかった。
ここで手を挙げたら、総務と営業企画が揉める。課長が困る。そして私は、元カレの手柄を姬む女になる。それが分かっていたから、手は膝の上に置いて、ノートの余白に細い字で書いた。
十月五日、提案発表。元の数字は四月の私のメモ。
書いたら、それでいい。私はそういう人間だ。
「数字の出どころは」
声がして、顔を上げた。専務だった。資料から目を上げずに、一言だけ。
「現場の……ヒアリングです。各部署に聞き取りをしまして」
「そうか」
専務の手元で、青いペンが止まった。
それから専務は、顔を上げた。私を見た。
記録係の私を。長机の端で、ノートに小さな字を書いている私を、まっすぐに。
三秒くらいだったと思う。私はペンを握ったまま動けなくて、専務は何も言わずにまた資料に目を戻した。
「続けてくれ」
佐伯さんが続けた。私はまた数字を書いた。会議は予定どおり終わった。
夕方、小森さんがスマホを両手で持って、私の机の横に来た。
「ひよりさん。あの、聞いちゃったっていうか、見ちゃったんですけど」
画面を向けられた。社内チャットの雑談のところに、一行。
『総務の水瀬さん、二股らしいよ』
そのあとに、ひそひそと笑う返事がいくつか並んでいた。
二股。三か月前、釣り合わない、と言ったあとで佐伯さんが口にした言葉と同じだった。ほかに誰かいるんだろう、と。いなかった。いたのは、たぶん向こうのほうだった。
「誰が書いたか分かりませんけど、営業企画のほうの人が多いです」
「ありがとう。見なくていいよ」
六年勤めて、付き合った人は一人だ。それは私が知っていればいい。
私は画面から目を離した。小森さんが口を開いて、閉じた。
エレベーターの到着音がして、顔を上げると、佐伯さんと社長秘書の氷室さんが並んで降りてきたところだった。氷室さんが私を見た。上から下まで一度。それから佐伯さんの袖に軽く触れて、二人は人事のほうへ歩いていった。
課長が、ぬるいお茶を私の机に置いて、何も言わずに自分の席に戻った。
私は決裁書を出し直す作業に戻った。決裁書に、ペンの箱の数を書き足した。字は震えていない。それを確かめてから、次の行を書いた。
午後八時。総務のフロアに残っているのは私だけだった。
月の初めは棚卸がある。全フロアの備品の数を台帳と合わせる。終わるのはいつも九時過ぎ。
台帳を開いたまま、電卓を叩く。二階の棚。コーヒーのフィルターが、先月の仕入れより七箱多い。カイロの箱も二つ多い。
いつものことで、買っていないものが増える。その欄だけ、私は小さく別の字で書く。寄贈(匿名)、と。
エレベーターの音がした。
顔を上げると、専務が立っていた。上着は着たまま。手に、紙が一枚。
決裁書を専務が自分で持ってくることは、ない。七階から二階まで、人に運ばせる人だ。
専務が私の机まで来て、紙を置いた。私の決裁書だった。付箋が貼ってある。
『根拠を添えて』
「出し直せ」
「はい」
「それだけか」
「……はい」
「お前はいつもそれだな」
専務は決裁書を置いたまま、帰らなかった。
私の机の上を見ている。開いた台帳と、電卓と、青いボールペン。
「それが台帳か」
「はい」
「見せろ」
私物です、と言おうとして、言えなかった。専務が手を出していたからではない。私を見ていたからだ。会議のときと同じ目で。
台帳を差し出した。
専務は、開いていたページをそのまま読んだ。二階の棚、数字の列。それから台帳を閉じて、横に置いてあった会議のノートを取った。
開いたのは、今日の昼のページだった。余白のところで、手が止まった。
長かった。
専務はノートを閉じて、台帳の上に重ねて、私の机に戻した。顔は動かない。
「水瀬」
「はい」
「俺の婚約者になれ。半年でいい」
コメント
1件
あおいです、一気に引き込まれました……! 備品の数字ひとつひとつにひよりさんの六年が詰まっていて、誰にも言わずに書き留めるだけの姿勢が切なかったです。専務が会議中にひよりさんを見た「三秒」、そして台帳を読んでの「婚約者になれ」——なんで半年なんだろう、何を見抜いたんだろうと、続きが気になって仕方ありません。青いペンが、誰の机で減っているのかも。繊細な心理描写と静かな伏線が美しい一話でした🌷