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「なぜ、私なんですか」
声が出るまでに、少し時間がかかった。専務は私の机の前に立ったまま、表情を変えない。
「条件を聞いてから断れ」
「……はい」
「半年だ。十月から四月まで。その間、父と周りの前で、俺の婚約者として振る舞う」
「お父様、というのは」
「社長だ。父が決めた縁談がある。半年止めたい」
人を切る専務が、縁談を止めたい。それだけのことで、私が選ばれる理由にはならない。
「父は家に見に来る。同居してもらう。寝室は別だ。報酬は一千万円。期限に払う」
一千万円。
数字が頭に入った瞬間、私は電卓から手を離していた。父の印刷所の借金は、残りが九百八十万円。月に八万円。あと十年と少し。
「どうして、その金額を」
「水瀬印刷。三年前に畳んだ。うちの仕入れ先だった」
専務は、私の顔ではなく台帳を見て言った。
「請求書を二十年刷っていた。畳んだときの経緯は、取引先として知っている」
父の印刷所の名前を、この人の口から聞くとは思わなかった。会社の帳簿の中の、閉じた取引先の一つ。それだけなのに、私は急に、自分の手が冷えているのに気づいた。
「ほかに条件は」
「人前では名前で呼ぶ。契約の存在は誰にも言わない。それだけだ」
私は息を吸った。
「一つ、足してください」
「言え」
「恋愛感情は、お互いに要求しない。それを書いてください」
専務の目が、台帳から私に移った。
「書く」
「一晩、考えさせてください」
「明日の終業後、専務室に来い。来なければ断ったと取る」
専務は決裁書を私の机に残して、帰っていった。エレベーターの扉が閉まる音を聞いてから、私は台帳を閉じた。閉じた表紙の上に、しばらく手を置いていた。
月に八万円を百二十回か、半年か。
夜のあいだ、考えたのはそれだけだった。専務に乗り換えた、と言われるのは分かっている。言われても、八万円を百二十回のほうが重かった。
翌日の火曜、午後六時半。七階の専務室に行くのは、入社して初めてだった。
扉を開けてくれたのは眼鏡の男の人で、専務付きの秘書の高梨さんだと名乗った。机の上に、白い封筒が二通と、紙の束。
「契約書です。二通とも同じ内容です」
高梨さんは私の手元を一度見て、言った。
「指輪は九号ですね」
「え」
「用意しておきます」
専務は窓際の机にいた。机の上に、青いボールペンが何本も立っている。会社の支給品と同じ、0.5ミリの青。
契約書を読んだ。期間、二〇二六年十月六日から二〇二七年四月五日まで。報酬、一千万円。同居。寝室は別。人前では名前で呼ぶ。契約の存在を第三者に明かさない。
第七条。互いに恋愛感情を要求しない。
昨日、私が言ったとおりに書いてあった。
署名した。専務も署名した。高梨さんが一通ずつ白い封筒に入れて、一通を私に渡す。私はそれを、いつも決裁書を入れている青いファイルに挟んだ。
「荷物は」
「今夜、着替えだけ持っていきます。アパートは月末で解約します。家賃の分も、返済に回せますので」
「高梨。車を」
「車は結構です。地下鉄で行けます」
専務が私を見た。高梨さんも見た。
「……住所を聞いてからにしろ」
専務が言って、高梨さんが少し笑ったのを、私は見なかったことにした。
専務のマンションは、文京区の静かな通りの、四階建ての四階だった。
玄関を入ると、靴箱が五段。一段目に黒い革靴が三足。ほかは空いている。
「二段目を使え。ここが君の段だ」
「はい」
黒いパンプスを脱いで、二段目に置いた。自分の靴が人の家の靴箱に入っているのを、見ていた。
部屋は三つあって、私の部屋は元の客間だと言われた。ベッドと机。窓からは隣の家の屋根。
台所に入ったところで、私は足を止めた。
隅に、段ボール箱が積んであった。四つ。いちばん上の箱の蓋が開いていて、中身が見える。コーヒーのフィルター。使い捨てのカイロ。ホッチキスの針。加湿器の替えのフィルター。
全部、知っている。
「これ」
専務が、私の後ろで止まった。
「二階の棚に増えていた物です。先月はフィルターが七箱、カイロが二箱」
「……」
「誰かが補充していると思っていました。数が合わないので」
専務の手が、箱の蓋にかかったまま止まった。
「気づいていたのか」
「数が合わないのは嫌いなので」
専務は箱の蓋を閉めた。閉めた蓋の上に、手を置いたままでいた。昨日の私と同じだった。
「規定で買えない物がある」
「はい」
「経費で通せば、親父は次の年に予算を削る理由にする。管理部門が甘いと言う」
「……だから、ご自分で」
「言うな」
「言いません」
私は、それ以上言わなかった。
それなら、私の決裁書を三度も返したのはなぜなのか。それも、聞かなかった。
台帳のあの欄に、三年前から、数が合わない分を「寄贈(匿名)」と書いてきたことも。誰の名前も書かずに済むように匿名と付けて、たぶんこの人だろうと思いながら、確かめなかったことも。
言わなかった。この人が、言うなと言ったから。
寝る前に、専務が小さな箱を持ってきた。
「人前で要る」
指輪だった。細い銀色の輪。はめてみると、少し緊い。回る。
「サイズは直す」
「大丈夫です」
「九号だと高梨が言った」
「九号で合ってます。私の指が、少し細いだけです」
専務は何か言いかけて、やめて、自分の部屋に入った。
私は台所の引き出しからセロハンテープを探して、食卓で指輪の内側に細く巻いた。回らなくなった。それでいい。半年持てばいい。
指輪は食卓の端に置いた。明日の朝、出るときにはめればいい。
部屋に戻ると、鞄の青いファイルに白い封筒があって、机の上に緑の台帳がある。私はその二つを並べて置いて、電気を消した。
水曜の朝、本社ビルのエレベーターで、視線が集まった。
営業の人が二人、私を見て、目をそらす。経理の人が、おはようございます、と言って、言ったあとで私の左手を見た。
左手に、指輪はなかった。
食卓の端に置いたままだ。昨日の夜、テープを巻いて、そのまま。朝、専務より先に家を出て、思い出したのは地下鉄の中だった。
二階に着くと、小森さんが走ってきた。
「ひよりさん。専務と婚約って、本当ですか」
「……誰から」
「全員です。朝からチャットがそれしか流れてません」
小森さんがスマホを見せた。
『桐谷専務、婚約。相手は総務の水瀬さん』
人事のほうから出た話らしかった。
課長が、まあまあ、と言いながら席に座って、お茶を飲んで、飲みながら私を見た。
「本当なの」
「はい」
課長がお茶を置いた。小森さんが口を押さえた。フロアの全員が、こちらを見ていた。
エレベーターの到着音がした。
降りてきたのは専務だった。黒いスーツ。紺のネクタイ。朝の総務のフロアに専務が来ることは、まずない。
全員が、動きを止めた。
専務は、まっすぐ私の机まで来た。手に、小さな箱。
「ひより」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
「忘れ物だ」
専務は指輪の箱を、私の机の上に置いた。
コメント
1件
読了しました…!第2話、すごくよかったです…🥀🤍 「数が合わないのは嫌いなので」って言うひよりさんの台詞、一瞬で彼女の仕事観が伝わってきて好きでした。それでいて、借金の数字を冷静に計算して決断してしまう強さもある。指輪の内側にセロハンテープを巻いた描写も、無駄がなくて、でも感情がぎゅっと詰まっていて…。 専務が朝のフロアに直接指輪を届けに来るところ、あれは契約の範囲を超えた優しさに見えたんですが、みぅの深読みすぎますかね?🌙 続き、気になります…!