テラーノベル
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それまでは、ただのタクシー会社所長と一乗務員という間柄だった。そのふたりが、カウンター越しに手袋を手渡した時から、互いを意識し始めた。正確には、彼は朋美の履歴書を見て一目惚れをしていた。それ以降、朋美は井浦和寿の視線を意識する日々が続いた。
ある昼下がり、朋美がホテルのタクシー待機場で順番待ちをしていると、ホテルの客とは思えない、伸び放題の髪、中肉中背でグレーのスエットスーツを着た男性が歩いて来た。一番前のタクシーから、一台、また一台と乗務員の顔を吟味しているように見えた。彼は朋美が運転するタクシーのフロントガラスを覗き込み、無表情で後部座席のドアをノックした。
コンコンコン
朋美は第六感で(これは普通じゃない)と感じた。恐る恐るサイドレバーを上げて後部座席のドアを開けた。タクシーに乗り込んで来た中年男性は、素足にサンダルを履いていた。金沢市の中心部、海外ブランドの高級ブティックや百貨店が立ち並ぶ香林坊こうりんぼうにそぐわない風貌。彼は、カバンを持っていなかった。
「お客様、どちらまで」
「とりあえず走らせて、右」
本来、行き先を告げない乗客は、”お断りする規則”になっていたが、入社間もない朋美はそれを失念していた。右にウィンカーを出し本線に合流する。いくつかの信号を過ぎ、近江町おうみちょう市場で賑わう武蔵ヶ辻むさしがつじの大きな交差点で、もう一度行き先を確認した。
「どちらに行かれますか?」
「真っ直ぐ、行って」
このまま走れば、人気のない片側1車線の細い県道に合流する。その先は郊外で、富山県に続く峠か、集落が点在するダムへ向かう。朋美の口の中はカラカラに乾き、耳鳴りがした。白い手袋がジワリと湿り気を帯び、指先が震えた。
「お客様、行き先のご住所をお願いします」
「春日町かすがまち」
「春日町の何丁目になりますか?」
男性は気怠そうに住所を伝えたが、春日町はとうに過ぎていた。朋美は咄嗟に無線マイクを握りボタンを押した。配車センターに位置情報のデータを送ってもらおうと考えた。その返答に、朋美は絶望した。
「106いちまるろく号車どうぞ」
「はい、106」
「該当する建物は確認できません、どうぞ」
後部座席の男性をルームミラーで一瞥すると、彼は運転席でのやり取りを腕組みをして凝視していた。その目はすわり、口元の髭が歪んだ気がした。
「106どうぞ」
「はい、106号車どうぞ」
「すみません・・・106、だ、大事な忘れ物です」
”大事な忘れ物”とは、タクシー業界の隠語で非常事態を意味していた。今頃、事務所のGPSは、朋美が運転するタクシーが春日町を通り越してダム方面に向かっていることを確認しているだろう。すると突然、その男性はタクシーを停めて、脇道にある林道に行くように指示して来た。
「お客様、この道はタクシーでは通れません」
薄暗い杉の木立が目前に迫り、鬱蒼としたシダ植物が林道を塞いだ。
「お客様?」
後部座席から苛立ちの気配を感じた。
「いいから行けってんだろうが!」
(・・・・!)
「俺の家があるんだよ!早く行け!」
男性は豹変し、助手席のシートを足で蹴り上げた。朋美は、もう終わったと思った。明日にはこの先の林道にブルーシートが張られている、そんな光景が脳裏を過ぎった。男性はポケットから革が剥げかけた財布を取り出して、中身を見せた。そこには10,000円札がパンパンに入っていたが、そんな事はどうでもよかった。乗車運賃など要らないから、今すぐこの遮断された空間から出て行って欲しかった。
「行けや!」
その時、一台のタクシーが急ブレーキを踏んで横付けした。朋美は、運転席に井浦和寿の姿を見た。彼女のタクシーに乗っていた男性は強面の井浦和寿を警戒し、目を逸らしてタクシーを降りた。そして、今来た道を足早に戻って行った。緊張で息もできなかった朋美の目には涙が溢れた。朋美は助かった。
「106どうぞ」
井浦和寿は106号車の無線マイクを握った。
「はい、106号車どうぞ」
「結城さんの無事確認、今から帰る」
井浦和寿の声を聞いた朋美は一気に緊張の糸がほぐれた。
「さぁ、自分で運転できるな?」
「は・・はい」
「帰るぞ」
朋美は井浦和寿に肩を叩かれた。肩の温もりにまた涙が溢れてきた。アクセルペダルを踏む足が小刻みに震えていた。赤信号で停車するたびに自分の呼吸が荒くなっていることに気が付いた。朋美が会社に戻ると別の管理者が駐車スペースで待機していた。すぐにSDカードは回収され、事務所のパソコンで男性の様子が確認された。一概に、強盗やその他の犯罪につながるとは言い切れないが、気を付けるようにと井浦和寿は真剣な顔で言葉を掛けた。
「もう行くのか、大丈夫なのか?」
井浦和寿は心配そうな顔をした。
「はい」
再びタクシーに乗る足元は重かったが、朋美はその日の稼ぎのために、すぐに会社から出庫することにした。
「気を付けて行ってらっしゃい」
「はい」
井浦和寿はSDカードを朋美に手渡す際、一瞬グッと握り離さなかった。そして、年齢を感じさせる目尻を下げ、口角を上げた。ふたりは無言だったが、なにか通じ合うものを感じた。以来、井浦和寿は、朋美の運転する106号車の行方をパソコンのGPS画面で目で追った。
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