テラーノベル
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――どうして、こんなことになってしまったんだろうか。
春は荒い呼吸を繰り返しながら、暗い部屋の隅へと追い詰められていた。
背中には冷たい壁。
逃げ道はもうない。
目の前にいるのは、つい数時間前まで、いつもと変わらない笑顔を見せていた幼馴染だった。
「……結衣」
「なぁに?」
結衣は、いつものように首を傾げた。
おっとりとした声。
優しい表情。
昔から何一つ変わらない――はずだった。
けれど。
その手に握られているものだけが、いつもの彼女とは決定的に違っていた。
「……それ、置いてくれ」
「どうして?」
「危ないから」
「……そう…でも、無理だよ」
結衣は少しだけ悲しそうに笑った。
「春くんはさ、私が怖い?」
「違う」
「じゃあ、どうして逃げるの?」
「逃げてるんじゃない。結衣を止めようとしてるんだ」
「……止める?」
結衣の笑顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
「何を?」
「全部だよ」
「……全部?」
「こんなの、結衣らしくない」
「……」
「もうやめよう」
春は必死に声を落ち着かせた。
目の前にいるのは、自分が知っている結衣だ。
幼い頃から一緒に過ごしてきた。
泣いているときは慰めてくれた。
風邪を引いたときには心配してくれた。
大学に入ってからも、毎朝一緒に登校して。
くだらない話をして。
帰り道にコンビニへ寄って。
そんな毎日を、ずっと続けてきた。
だからこそ。
今の結衣を、認めることなんてできなかった。
「結衣。俺は……結衣を傷つけたいわけじゃない」
「……うん」
「だから、もう終わりにしよう」
「…………」
結衣は黙った。
俯いている。
長い髪が顔を隠して、表情が見えない。
「……ねえ、春くん」
「何?」
「私のこと、好き?」
「……」
答えられなかった。
その沈黙だけで、結衣には十分だったらしい。
「……そっか」
結衣が顔を上げる。
泣いていた。
それなのに、笑っていた。
「やっぱり……私じゃ駄目なんだね」
「違う。そういう意味じゃ――」
「じゃあ、どういう意味?」
「結衣……」
「私、春くんのことが好き」
一歩。
結衣が近づく。
「ずっと好きだった」
もう一歩。
「小さい頃から」
さらに一歩。
「春くんが笑ってくれるだけで嬉しかった」
「……」
「春くんが私の名前を呼んでくれるだけで嬉しかった」
「結衣、もう――」
「だからね」
結衣は微笑んだ。
「私、春くんが私以外の誰かを見るのが嫌だった」
春の喉が鳴る。
「春くんが誰かと楽しそうに話してるのを見るのが嫌だった」
「……結衣」
「春くんが私以外の女の子と一緒にいるだけで、胸が苦しくなった」
「それは……」
「でも、我慢してたんだよ?」
結衣の目から涙が落ちる。
「だって、春くんに嫌われたくなかったから」
そして。
結衣は静かに笑った。
「……なのに、春くんは私を否定した」
「……」
「だからね」
その声は、とても優しかった。
「もう、我慢するのをやめることにしたの」
――その瞬間。
春は理解した。
ああ、自分が知っている結衣は、もうどこにもいないのだと。
どうしてこうなったのか。
これは――結衣が結衣ではなくなる
ほんの少し前の話だった。
*
数日前。
「――春くん、起きてる?」
朝。
カーテンの隙間から差し込む光に、春は目を細めた。
スマートフォンを見る。
午前七時十二分。
画面には、結衣からのメッセージが十件以上並んでいた。
『おはよう』
『起きた?』
『今日、一緒に行こ?』
『まだ寝てるかな』
『春くん?』
『起きてる?』
最後のメッセージが送られたのは、わずか三分前。
「……早いな」
春は小さく笑った。
昔から変わらない。
結衣は朝が早い。
そして、春を起こすのも昔から結衣の役目だった。
春は、
『おはよう。今起きた』
と返信する。
すると、すぐに既読がついた。
『よかった』
『じゃあ待ってるね』
「……待ってるって」
春は苦笑する。
大学までは歩いて十五分ほど。
別に待ち合わせる必要などない。
それでも結衣は毎朝、春の家の近くまで来てくれる。
それが二人にとって当たり前になっていた。
春は身支度を整え、家を出た。
玄関を開けると――
「おはよう、春くん」
「おはよう、結衣」
そこには結衣がいた。
淡い色のカーディガン。
肩まで伸びた髪。
柔らかな笑顔。
いつもの結衣だった。
「今日はちょっと遅かったね」
「ごめん。昨日ちょっと夜更かしして」
「また?」
「ちょっとだけだよ」
「ふふっ」
結衣は楽しそうに笑った。
「春くんって、昔からそういうところ変わらないね」
「結衣だって変わらないだろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「……じゃあ、ずっと変わらないでいようかな」
「それはどうだろうな」
「え?」
「大学生になったんだから、少しは変わらないと」
「……嫌だな」
「なんで?」
結衣は少しだけ頬を膨らませた。
「変わったら、春くんに嫌われるかもしれないから」
「そんなことで嫌いになったりしないよ」
「……本当?」
「本当」
「約束?」
「ああ、約束」
春が笑う。
結衣も笑う。
それだけだった。
このときの春は、まだ知らなかった。
その何気ない言葉が。
結衣にとって、どれほど大切なものになっていたのか。
二人は並んで大学へ向かった。
春と結衣は同じ大学。
しかも同じ学部。
周囲からは、
「本当に仲いいよね」
「付き合ってるの?」
「幼馴染っていいなぁ」
などと言われることが多かった。
そのたびに春は、
「付き合ってないよ」
と答える。
結衣はというと、
「……そうだね」
と笑うだけだった。
その笑顔を見て、春は何も思わなかった。
けれど。
その日の昼休み。
学食で、春は同じ学部の女子学生に声をかけられた。
「ねえ、春くん」
「ん?」
「この前のレポートなんだけど、ちょっと分からないところがあって」
「ああ、それなら――」
春は彼女の隣に座り、資料を見せてもらった。
「ここは、この資料を参考にすればいいと思う」
「本当? ありがとう!」
「うん。俺も最初ここ分からなかったから」
「助かったー」
女子学生が笑う。
春も笑った。
その少し離れた場所で。
結衣は二人を見ていた。
「…………」
箸が止まっている。
隣の友人が不思議そうに声をかけた。
「結衣?」
「……なに?」
「食べないの?」
「うん。食べるよ」
結衣は笑った。
「ごめんね」
「大丈夫?」
「うん」
結衣は再び箸を動かす。
その視線だけが、春から離れなかった。
午後の講義が終わる。
「春くん」
教室を出たところで、結衣が声をかけてきた。
「帰ろ?」
「ああ」
春は頷いた。
いつもの帰り道。
二人で歩く。
「今日、学食で話してた子」
結衣がぽつりと言った。
「ん?」
「仲いいの?」
「え?」
「昼休みに話してた子」
「ああ。あの子?」
春は少し考えた。
「同じ学部だから、たまに話すくらいだよ」
「……そっか」
「どうした?」
「ううん」
結衣は微笑んだ。
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
少しの沈黙。
そして結衣は言った。
「春くん」
「ん?」
「私たちって……ずっと一緒だよね?」
「急にどうした?」
「なんとなく」
結衣は前を向いたまま続ける。
「小さい頃からずっと一緒だったから」
「ああ」
「小学校も」
「うん」
「中学校も」
「そうだな」
「高校も」
「うん」
「大学も」
「……本当にずっと一緒だな」
春が笑う。
結衣も笑った。
「だから……これからも一緒だよね?」
「もちろん」
春は何気なく答えた。
「幼馴染なんだから」
その言葉を聞いた瞬間。
結衣の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
「……幼馴染」
「うん」
「……そっか」
「?」
「ううん。嬉しい」
結衣は笑った。
「私も、春くんとずっと一緒にいたい」
「俺もだよ」
春にとっては、それだけの会話だった。
幼馴染として。
友達として。
大切な存在として。
これからも一緒にいられたらいい。
ただ、それだけだった。
――けれど。
結衣にとっては、違った。
「ずっと一緒」
その言葉の意味が。
二人の間で、ほんの少しだけ違っていた。
その夜。
春が自宅で課題をしていると、スマートフォンが震えた。
結衣からだった。
『今日は楽しかったね』
『うん』
春が返信すると、すぐにメッセージが届く。
『春くん』
『なに?』
『明日も一緒に行こうね』
『もちろん』
『明後日も?』
『うん』
『その次の日も?』
春は少し笑った。
『毎日一緒でいいだろ』
送信。
既読。
しばらく返信がなかった。
やがて。
『……うん』
『嬉しい』
その二文字を見て、春はスマートフォンを机に置いた。
「さて、課題やるか」
何も知らない。
何も気づいていない。
春はいつも通りの日常を過ごしていた。
そして結衣もまた。
スマートフォンを胸元に抱えながら、ベッドの上で静かに笑っていた。
「……毎日一緒」
結衣は小さく呟く。
「ずっと一緒」
その声は、嬉しそうだった。
とても幸せそうだった。
だからこそ――
その笑顔の奥にあるものに、春はまだ気づかなかった。
この日までの結衣は。
まだ、春の知っている優しい幼馴染だった。
――少なくとも。
春は、そう思っていた。
コメント
1件
みぅだよ、読んだよ……🥀 第一話、めっちゃ引き込まれた。日常のほのぼのした空気と、そこに少しずつ忍び込む違和感が、本当に上手い。春くんが「幼馴染」として結衣と向き合うのに対して、結衣の方は「ずっと一緒」の意味がもう違ってて、その擦れ違いがじわじわ怖い。最後のスマホ抱えて笑うシーン、ゾクッとした……。 続き、気になる。結衣の闇がどこまで深いのか、ちゃんと見届けたいと思ったよ。
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