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空音
37
シュメール
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【半年後】
最後の小説教室を皮切りに、十数年ぶりに「小説」「執筆」というワードを忘れて桜子は生きた
この頃には体力がついてきて、毎日兄の工場で正社員として働くのもさほど苦痛ではなくなった、
以前は八時間の立ち仕事で膝が悲鳴をあげていたのに、いつのまにか足取りが軽くなり、あれほど気になっていた体重も15キロ落ちた、理由は簡単だ、働いている時は何も口にしないからだ
そして月末には数十万の給料を得た、会社の庇護を受けて社会保険も年金も引かれ、そのうえで毎月これほど手元に残るのかと、初めて「稼ぎがある」という喜びに浸った
そして、多くの従業員を養い、誰よりも朝早く来て、誰よりも遅く帰る経営者の兄を、桜子は純粋に尊敬するようになった、兄は人の能力を公平に判断する人だった、身内だからと甘やかすことをしない兄から
真面目に頑張っている桜子に「役員報酬」として、初めての夏ボーナスに「色」をつけてくれた時は本当に驚いた
明細書を見て、桜子は思わず兄の顔を見上げた、これからは毎月の給料に加えて、年に二回、こんな大きな金額が桜子に入ってくるのだ
桜子は初めてのボーナスで両親一人ずつに、電動の介護ベッドを買ってあげた、両親はとても喜んだ、背もたれがウィーンと静かに起き上がるたび、母が子どものように目を丸くするのが可笑しかった
さらに会社の事務員の独身の女の子たちと韓国旅行も楽しんだ(※全員30代だけど)屋台のトッポギを頬張りながら、桜子は久しぶりに声をあげて笑った
それでもまだお金は実家暮らしの桜子の手元に残った、さらに来月また給料が入ってくるのだ、これからは十分貯金が出来るだろう
工場勤めの就労時間が終われば自由時間で、これほど経済的に豊かになると、小説がメシの種になると信じて、昼も夜も執筆に縛られていたあの頃にはもう戻れないと感じていた、今ではすっかり小説のことなど考えない「普通の人」の感覚になっていた
しかし・・・ずっと心の隅では、「柚原希実」が書いた『あの虹の向こうへ』が、消えない灯のように残っていた
彼女の小説教室のエントリーシートには、名前と住所と電話番号しか書かれておらず、添削依頼料はあのフードコートで二人で話した日に、もう桜子の口座に振り込まれていた
そして最後の小説教室に来なかった希実に何度電話をしても、呼び出し音が鳴るだけで、彼女には繋がらなかった
―せめて・・・メールアドレスだけでも書いてくれていたら、添削内容をファイルで添付して送れるのに、貰った添削料金どうしようかな・・・―
夏が過ぎ、秋が深まりかけた夜・・・湯上がりの髪にタオルを巻いたまま、桜子は自室の机の前でスマホを握りしめていた
もう随分経つのに、こんな時に真面目にものを考えてしまう桜子は、つい突然添削料金をだまし取られたと言いがかりを彼女からつけられることなどを考えてしまう
春ウララの一件以来、何もやましいことはしていないのに、いつ何時、また何か訴えられるのではないか?と、必要以上に怯えてしまうのだ
なので、数十回目になるが、もう一度柚原希実の電話番号をタップした
バスタオルで髪を拭きながら、スマホから聞こえる呼び出し音を何度か聞く、そして誰も出ないので、また無駄だったと切ろうとした時――
プッ・・・ 『もしもし・・・』
―出た!―
桜子は椅子から腰を浮かせた、半年間、行き場のなかった荷物をやっと下ろせるような胸のつかえが一気にほどけていく感覚だった
「あっ!もしもし?柚原さん?わたくし美木桜子と申します!ほらっ!小説教室の―」
一度口を開くと、言葉がもう止まらなかった
「ああっよかった!ずっとお電話してたんですよ!最後の教室にいらっしゃらなかったから、どうなさったのかと思って!あのっ、添削、全部終わってるんです!でもね、誤字脱字の部分はほとんどなくて、それでね、あの・・・」
つらつらと続けながら、桜子の頭の片隅で、小さな違和感がぽつりと灯った
「・・・あの・・・柚原希実さんの・・・お電話番号で合ってますよね?・・・」
受話口の向こうの声は、あの強気で生意気だった希実の張りのある若い声ではないような気がした、どちらかと言うとひどくゆっくりとした、年老いた女性の声だった、そして桜子の弾んだ声を遮ることもなく、ただじっと聞いている気配があった
『・・・希実の・・・母でございます』
そう名乗った声は、その後何かを語り始めた、桜子は黙ってそれを聞いた、聞きながらタオルを巻いたままの頭がだんだん冷えていくのがわかった・・・
受話器を握る指先から血の気が引き、ベッドボードの電気スタンドの光が遠くのほうでにじんでいく・・・
彼女の母親の言葉はどこか淡々としていて、一語一語が逃げ場のない重さで桜子の耳の奥に落ちてきた
一度では理解できず、桜子は口を開いた
「すません・・・もう一度おっしゃっていただけます?」
コメント
1件
このエピソード、すごく心に響きました。半年間で小説から離れ、工場勤めに打ち込み、経済的にも精神的にも安定していく桜子の姿が丁寧に描かれていて。でも心の隅に「柚原希実」の灯が消えないってところが切なかったです。電話に出たのが本人じゃなくて母親だったラスト、一気に緊張走りました…。希実に何があったのか、気になって仕方ないです。