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喪服の薄く黒い生地に、神戸の地の底冷えする風が容赦なく染み込んでくる・・・上着を着て来ればよかったと桜子は顔を上げで目の前に建つ古い府営住宅を見上げていた
小説教室を開いていたあのショッピングモールから、電車を乗り継いで実に二時間半・・・乗り換えの度に本数が減っていき、最後はローカル線に揺られて、桜子はようやく柚原希実が住んでいた地にたどり着いた
五階建ての棟が何棟も並ぶ団地は、どれも同じ灰色のコンクリートで、外壁には長年の雨だれの跡が黒い筋になって幾重にも残っている・・・
空き家が多いのだろう、ポツポツとベランダに干された洗濯物のほとんどは、色あせた肌着ばかりで、若い世代の住居者は見当たらないような気がした
希実の家はその一棟の一階にあった、2LDKという間取りは、桜子の実家の二階二部屋よりも狭いくらいだった、インターホンを押すとしばらくしてから、ゆっくりとした足音と、杖の先が床を叩く小さな音が近づいてきた
ガチャリ・・・「はい・・・」
開いたドアの向こうに立っていたのは小柄な老婦人だった、黒いサングラスをかけていて桜子が名乗ると、わずかに首をこちらへ傾け、匂いを確かめるような仕草をしてからようやく「ああ」と小さく頷いた
―目が・・・ご不自由なのね・・・―
桜子が婦人を気遣いながら通されたのは畳敷きの六畳間だった、古い仏壇が壁際に据えられ、まだ真新しい白木の位牌と、希実の遺影が置かれている・・・
写真の中の希実はあの雨の日に見た時よりも、ずっと幼い顔をしてはにかむように微笑んでいた
桜子は座布団の上で正座して線香に火をつけ、りんを鳴らして手を合わせた・・・線香の匂いが香り、立ちのぼる煙の筋が狭い部屋の中でゆらゆらと曲がっていく
「私はね、片方はもう何年も前から全く見えなくてね、もう片方も0.9あるかどうかっていうぐらいなんです、あの子がいたから、なんとか暮らせていたんですけどね」
おもむろに自分の状態を話し出した希実の母親の話を聞きながら、じっと観察する
―目が悪いお母さんを、車いすの彼女が介護していたなんて―
桜子は言葉を失った・・・あの日、桜子が車椅子を押して改札まで送ったあの細い体の希実が、この家では逆に、母の目となり手となって日々を支えていたのだ・・・
母の話によると、希実は20歳を越えたあたりから「脊髄小脳変性症」という桜子の聞いたことのない進行性の病を患ったという・・・
いきなりではなくて、少しずつ手足の自由が効かなくなっていく病気で、車椅子が手放せなくなったのはここ数年だという
―つい・・・数年前までは健常者だったのね・・・―
ここ数年、希実は体力の低下に伴って免疫も弱くなり、ちょっとした風邪でも長引くようになっていたという
そして半年前、軽い咳と発熱から始まったものが思いのほか長引き、気づいたときには肺炎にまで進んでいた、入院してからの経過は早く、あっという間に容体は悪化し、希実はそのまま還らぬ人となった・・・
―半年前というと・・・もしかしたら、あの雨の日・・・私の教室に来てくれた・・・あの日に風邪をこじらせた?―
桜子の脳裏に、ジトジトと降り続いていた年末の寒いあの日の雨と・・・フードコートで話していた時の希実の濡れた毛先が蘇る・・・胸の奥がぎゅっと締め付けられた
桜子は、鞄の中から持ってきたクリアファイルをそっと取り出し、畳の上に置いた
「あの、希実さんから添削のご依頼をいただいていた原稿です・・・きちんとお代も頂いておりましたのでお渡しにきました」
まだ彼女がこの世からいなくなったことを信じられない気持ちで、桜子はクリアファイルを母のほうへそっと差し出した、しかし、母はしばらく沈黙したあと、静かに首を振った
「あの子が小説なんか書いているなんて、私は一度も聞いたことがありませんよ」
「え?」
予想もしなかった言葉に、桜子は息を呑んだ
「渡されても私には見えませんし、読むこともできません、申し訳ないですが処分して頂きたいんです、この体でゴミ置き場にゴミを出すのも大変なんですよ」
母はそう言って、部屋の隅に積まれた段ボール箱のほうへ顔を向けた、来月には施設に入ることが決まっていて今はその引っ越しの準備と、希実の遺品の整理を並行して進めているところなのだという
「あの子の荷物も、もうほとんど片付けてしまいました、パソコンなんてこの家にはありませんでしたし、あの子がペンを持って何か書いているところも、私は一度も見たことがないです、きっと何かの間違いですよ」
その言葉を聞きながら、桜子はクリアファイルを持つ手を膝の上でゆっくりと下ろした、そして考えた・・暫く考えて結論に至った
彼女は三十万文字近い長い物語を、たった一台のスマートフォンだけで書き上げていたのだ・・・
コメント
1件
うわ…このエピソード、重いですね。希実さんが実は目の不自由なお母さんを支えていた側だったっていうのが、雨の日に車椅子を押していた姿と重なって、胸が締め付けられました。あの日、桜子が教室に来てくれた日に風邪をこじらせたかもしれないっていう伏線も含めて、悲しみがじわじわ来ます。前半の団地の描写が、生活の匂いをちゃんと伝えていて、物語の空気感を強めてるなと思いました。
空音
37
シュメール
604
39
2,810