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カレンさんが騎士たちによって別室へと連れて行かれた後
私はディオール様の逞しい腕に抱かれたまま、彼の寝室へと運ばれた。
主人の聖域とも言えるその部屋は、気品ある香木と革の匂いが微かに漂う、静謐な空間だった。
「メイドが主人のベッドに……そんな、恐れ多いです。私など、床でもどこでも……」
横たえられようとした瞬間、私は必死に辞退しようとした。
けれど、ディオール様は揺るぎない強さで私を支え、その碧眼に強い意志を宿らせて私を見つめた。
「今はただのラヴィとして、私の看病を受けてほしい。今だけは、主の命令として従ってくれ。お願いだ」
彼は一歩も譲らなかった。
結局、私は王都騎士団長が使う広大な天蓋付きのベッドに、戸惑いながらも身を沈めることになった。
すぐに用意された冷たい氷嚢が、熱を持って疼く頬を優しく冷やしていく。
さらに、ひび割れて無惨な姿になった私の両手には王宮で使われるような最高級の薬草軟膏が
彼の指によって丁寧に、慈しむように塗られていった。
ディオール様は、国を背負う騎士団長としての激務も、山積しているであろう書類の山もすべて忘れ
私の枕元でかいがいしく世話を焼いてくださった。
その献身的な姿に、胸の奥が締め付けられる。
「……少し、落ち着いたかな」
彼の低い、包み込むような声に小さく頷くと
ディオール様は私の安心を確かめるように一度だけ微笑んだ。
そして、わずかに表情を引き締め、立ち上がる。
「カレンと話してくる。すぐに戻るから」
そう言って、彼は私の手を一度ぎゅっと握りしめてから、静かに部屋を出て行った。
一人残された寝室。
けれど、ドアが完全に閉まりきる直前、私は吸い寄せられるようにベッドを抜け出していた。
彼が何を語るのか、どうしても放っておけなかったのだ。
廊下の影に隠れ、別室の扉の隙間から、私はその光景を盗み見てしまった。
別室では、先ほどまでの高慢さを失ったカレンさんが、魂が抜けたように椅子に座り、小刻みに震えていた。
ディオール様が部屋に入ると、彼女は弾かれたように床に膝をつき、絞り出すような声を上げた。
「旦那様……私は……私はただ、旦那様が、あの娘……ラヴィばかりを特別になさるのが、耐えられなくて……っっ!あんな、どこの馬の骨とも知れない娘に、旦那様の慈愛が注がれるのが……嫉妬に狂ってしまったんです……!」
カレンさんの告白は、血を吐くような悲痛な叫びだった。
長年この屋敷を支え、誰よりも近くで彼を支えてきたという自負。
それが、ある日突然現れた「何者でもない私」によって崩れ去る恐怖。
彼女にとって、ディオールの視線が私に独占されることは、自分の存在意義を否定されるような何よりも耐え難い苦痛だったのだろう。
それを聞いたディオール様は、彼女を怒鳴りつけることも、冷たく軽蔑することもしなかった。
彼はただ、沈黙の中でカレンさんの前に立ち、そして───。
一国の騎士団長であり、この屋敷の絶対的な主である彼が、一人の使用人の前で深く、深く頭を下げたのだ。
「…すまない。カレン、すべては、僕の配慮が足りなかったせいだ」
「?!だ、旦那様、何を……!」
カレンさんが驚愕に目を見開く。
ドアの隙間で息を潜めていた私も、あまりの光景に心臓が止まるかと思った。
高貴な血筋を引き、最強の武を誇るお方が、自らの非を認めて頭を下げるなんて。
「カレンたちをこれほどまでに傷つけ合い、苦しむ状況を作ったのは、主である僕の責任だ。カレン、君の忠誠心とこれまでの献身に甘え、君の心に生じた不安に気づいてあげられなかった。そして僕はラヴィにも救うと決めた君に、新たな恐怖を与えてしまった。……本当に申し訳ない」
「だ、旦那様……! 旦那様が謝るようなことでは……! 私が、私が勝手に……!」
カレンさんは狼狽し、慌てて彼を止めようと縋るように手を伸ばした。
けれど、ディオール様は静かに顔を上げて否定した。
「いいや、責任は僕にある。カレン、君のしたことは決して許されることではない。だが、君をそこまで追い詰めた一端が僕にあることも事実だ」
ディオールの言葉は、どこまでも真っ直ぐで、濁りがなく、あまりに高潔だった。
それは力でねじ伏せたり、言葉で論破したりするよりもずっと深く、カレンさんの心の奥底に突き刺さったようだった。
自分の醜い嫉妬が、敬愛する主人にこれほどの屈辱を選ばせてしまったのだという事実。
「……ああ、私は……なんてことを…っ、ごめんなさい…ディオール様…っ」
カレンさんはその場に崩れ落ち、顔を覆って子供のように泣き始めた。
旦那様に謝らせてしまったという耐え難い罪悪感
そして、自らが振るった暴力の醜さ。
私はもう、隠れていることができなかった。
たまらず部屋の中に足を踏み入れ、彼の元へ駆け寄る。
「ディオール様、私は大丈夫ですから、ディオール様のせいじゃありませんからっ……!」
「ラヴィ……っ」
ディオール様が顔を上げると、そこにはカレンさんが涙を流しながら
這いつくばるようにして私の方へ向き直る姿があった。
「……ごめんなさい…私…あなたに酷いことを…っ、どうかしてた…本当にごめんなさい。旦那様にまでこんな……こんなお顔をさせて……本当に、申し訳ありませんでした……っ」
彼女の慟哭が、静かな部屋に響き渡る。
その謝罪には、もう先ほどまでの毒も冷酷な棘も一切なかった。
そこにあるのは、自らの過ちに打ちのめされた一人の女性の、剥き出しの反省だけだった。
「…い、いいんです…確かに酷いことをされたけど……わかってくれたなら、いいんです…っ、私がまだメイドをさせていただいてもいいのでしたら…仲良く、したいです」
「…っ、ごめん、なさい。こんなに優しい子に、他のメイドまで脅して…いじめてしまった。本当に…ごめんなさい」
ディオール様は、泣きじゃくるカレンさんの肩にそっと大きな手を置き、それから私をもう片方の腕で優しく抱き寄せた。
「……今日を限りに、この屋敷から『虐げられる者』はいなくしよう。……カレン、君にはしばらく休みを与える。自分の心を見つめ直し、もう一度、誇りあるメイドとして戻ってきてくれると信じているよ」
「……っ、はい……はい……!…じ、慈悲を…っ、ありがどうございまず…っ」
窓の外では、いつの間にか荒れ狂っていた雨が止んでいた。
雲の隙間からは、すべてを清めるような柔らかな月光が差し込み、部屋を青白く照らし出している。
ディオール様の深く温かな慈愛に包まれて
屋敷を、そして私たちの心を凍りつかせていた冷たい空気は、確実に溶け始めていた。