私はベッドから降り、シャワーを浴びた。 外はまだ、シャワーの音に負けないくらい雨が降っている。
なんで、こんなに降るの。もう、嫌だ。
「ねぇ、さくらさん」
カーテン越しに時雨くんの声がして、びっくりする。
「なんで雨が嫌いなの……?」
こんなときに……。
雨が嫌いな理由は、綾人のことが絡んでいる。どこから説明すればいいんだろう。
そういえば、まだ離婚したことも、高校生の娘がいることも伝えていない。でも、さっき年齢は気にしないって言ってたし……。
「……ごめん。あまり言いたくないよね。会って間もないのに聞くのは失礼だった」
「そ、それはないし……語るなら語るけど……」
語ることはできる。
でも、それには時間がかかる。
なぜなら、綾人と結婚したその日から、すべてが始まったから。
10年以上前の話を、順序立てて話さなくてはいけない。
私は、これまでに何度も語ってきた。
子供相談、女性相談、子供課の職員、警察、弁護士……どれだけの人に語っただろう。
でも、話さないと理解してもらえなかった。
私はシャワーを浴び終え、タオルで体を拭きながら口を開く。
「雨の日はね……夫を迎えに行かなきゃいけなかったの」
「……会社まで?」
「そうね。で……」
時雨くんの目が、大きく見開かれた。
「……夫?!」
あ、しまった。
「ち、違う。もう離婚したから……元夫のこと」
「あ、そうか……びっくりした。人妻とやっちゃったのかと」
「やっぱり人妻はダメ?」
「いや、それはダメです。人のものですから……いや、人だから物じゃなくて、なんというか……」
テンパってる。
「……前の旦那さんのこと、引きずってるの?」
「……」
「薬、飲むくらいだからな……で、雨の日は必ず迎えに行かないといけなかった、と」
そう。
会社までは歩いて行ける距離だった。
晴れの日は自転車で通っていたこともあった。
でも、雨の日は——
小雨でも、車で迎えに行かなきゃいけなかった。
妊娠中も、子供が小さい時も。
寝ている子を一度、置いて行ったことがあった。
でも、帰ったら大泣きしていた。
綾人は、あやしてもくれなかった。
微妙な天気のときも、いつも綾人はこう言った。
「会社終わったから」
迎えに来て、とは言わない。
迎えに行けばいいのか?と聞くと、「無理しなくていい」と返ってくる。
じゃあ行かなかったら——
「お前のせいで服が濡れた。風邪ひいたらどうする」
と怒られた。翌日まで機嫌が悪かった。
一方で、何も聞かず迎えに行ったら——
「藍里がぐずってるなら、無理してこなくてもいいのに」
と言われる。
どうすればよかったのかわからなかった。
雨が降るたび、頭の中で渦が巻くようになった。
誰に話しても、
「変わった旦那さんですね」
で終わる。
病院に行っても、薬を渡されるだけだった。
——その話を、時雨くんに話した。
彼は黙って、真剣に聞いてくれた。
「……辛かったね、さくらさん」
彼はそっと、私を抱きしめた。
雨の音が、少しだけ弱くなった気がした。
「確かに、雨の日に迎えに来てくれるのは嬉しいし、助かるよ。でもさ……たぶん、前の旦那さんは、雨の日じゃなくても、さくらさんを苦しめてたんでしょ?」
——うん、そうだ。
綾人の言動に、私はめちゃくちゃにされた。
離婚した今でも、心はぐちゃぐちゃのままだった。
「雨、可哀想だなぁ。僕、雨好きなのに」
時雨くんは、ぽつりとつぶやく。
「雨の日でも、晴れの日でも、雪の日でも、風の日でも……さくらさんを粗雑に扱って、こんなに傷つけて……。大きな音や、人が怒ってるのもダメでしょ?」
私は、頷いた。
——ああ、あの時の店内のことだ。
「時間はかかるかもしれないけど……少しずつ、さくらさんの気持ちをほどいてあげたい」
時雨くんは、ふっと笑う。
「って、なんか甘いこと言うけど、僕は医者じゃないからな……」
「そうね。お医者さんでも治せなかったものを、あなたが治せたら、すごいわ」
すると、彼は私の頭を優しく撫でた。
「だったら——治してあげましょう」
——思わず、ふふっと笑ってしまう。
「な、なに笑うのさぁ、恥ずかしいよ」
「言い方がキザなのよ」
「……さくらさん、笑った」
時雨くんも、笑った。
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